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アフガニスタン最大民族パシュトゥン人=ユダヤ人の失われた10部族の末裔

2015-04-12 だからもう 6 年以上前の記事 になるが、「現代のアフガニスタン全域とイラン東辺部までを含む領域が、シャカ族の勢力圏だった」というラナジット・パール氏の説を足掛りにして、シャカ族の王都カピラワットゥ=(現代の)カブールであるという説を展開した。また、パール氏の「シャカ族とヘブライのダン族の関連性」から、ガンダーラ地方全体が、実際の「約束の地=イスラエル」ではないかという説にも発展させた。 今日、「 アフガニスタン最大民族パシュトゥン人=ユダヤ人の失われた10部族の末裔 」という説があったという話を初めて知った。 この民族はかねて「イスラエルの子孫」であると口述伝承してきたという。 加えて、生後8日目で割礼を行い、肉とその乳を共に食さない。安息日の前夜にろうそくを灯すこと、寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する「レビラト婚」などを慣習としており、古代ユダヤ教の戒律や習慣と共通する。 自分がパール説を元にして展開した説は各種状況証拠から推理したものだが、このような直接的証拠があったということはむしろ、自分の推理の展開の仕方が妥当であったということの裏付けになるのではないかと思う。

カピラ宮

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範囲としては、現代のアフガニスタン全域とイラン東辺部までを含む領域が、シャカ族の勢力圏だったというのがラナジット・パール氏の説。 そして、カピラ宮そのものの位置は、考古学的に発見されている史跡の中から比定すると、イラン東辺シースターン州の Koh-e Khaje (Kuh-e Khwaja) 遺跡であるとしている。 Kuh-e Khwaja was Kapilavastu. Gotama Buddha and the Nepalese Bluff in World History Google の衛星写真によるところのその「 黒い山容 」と「 脇の岩窟院 」の姿はイシギリ経の舞台となる「仙人山脇の黒岩窟(イシギリ・パッサ・カーラシラー)」という名称が良く当てはまる気もする。イシリギ山はラージャガハ地域周辺に存在する五聖山のうちの一つである(中国の「五山」という概念もこれが起源であろう)。ということは、厳密には、これ自体はカピラ宮(=バビル=ラージャガハ?)そのものではないのかもしれない。 パール氏は、最終結論としては Koh-e Khaje 遺跡自体をカピラ宮としているものの、考察の過程で、カブールやザーボルという地名も「カピラ」との名称の関連性を主張している。パール氏の説に対する修正としてここで仮に「Koh-e Khaje 遺跡自体はカピラ宮ではないが、カピラ宮と極めて関連性の高いイシギリ山である」とすれば、カピラ宮自体は、Koh-e Khaje 遺跡のすぐ近くの都市 ザーボル であるとしても良いのかもしれない。 がしかし、シャカ族の勢力圏が、現代のアフガニスタン規模の領域であり、その中にラージャガハを中心として五聖山が存在していたという観点から見れれば、無理にザーボルほどイシギリ山に近い場所をカピラ宮とする必要はない。むしろ、ザーボルはイシギリ山に付属する門前町的な集落という程度の認識でいいのかもしれない。 やはり、 カブール がカピラ宮であるとしても、蓋然的に無理は少ないと思う。カブールはカイバル峠に臨む地理的な要所であり、パール氏が考察の過程でナーランダーと比定している Mes Aynak 遺跡と隣接している。また、仏教の極めて重要な史跡のあるバーミヤンもその北部に位置する。カピラ宮が首都的な都市であったのであれば、ナーランダー