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善趣と悪趣

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自分の仮説 梵天(不瞋) 慈悲(分け隔てのない博愛的寛容、共感能力) 欲天(不貪) 小欲知足 人間(不痴) 思慮深さ(内省的) 畜生(愚痴) 短絡思考(考えるよりも先に行動) 餓鬼(貪欲) 大欲不知足 地獄(瞋恚) 無慈悲(身内・同胞以外の他所者に対する不寛容) 地獄 ジャータカ 147 話「はりつけにされた男」 にあるように、特定の者(家族や恋人等)に対する愛は、地獄行きのエクスキューズ(免罪)にはならない。例えば、アメリカのハリウッド映画では、「愛する妻子のために、国外で身体を張って戦う父親像」的なものを美化するプロパガンダを底流に持つものが多い。YouTube などでも、兵役を終えて家族やペットと涙の再会をするシーンなどがよくバズったりする。だが、ジャータカ 147 話の論理によると、故郷の家族にとってはどんなに愛情深い人間であっても、その本人が悪行を犯したことのエクスキューズにはならない。むしろ、派兵先の外国で、敵として戦う相手にも、自分と同様に、愛する家族がいる。そのことに目をつぶって、「心を鬼にして」戦争行為に加担する。それが地獄行きの心理構造ということになるものと思われる(そうでないとジャータカ 147 話の説明が付かない)。 異教徒の人権を尊重しない、人間以外の動物を生命として扱わない、などといった、自分自身と対等な生命として扱う範囲を限定する、冷酷な態度が地獄行きの業となる瞋恚の正体。怒りとか、暴力というのは、瞋恚の皮相にすぎない。 梵天 梵天は上述の地獄の逆と考えればわかりやすい。 餓鬼と欲天 下のスマナサーラ長老の解説が、悪趣と善趣のうち、主に餓鬼と欲天を貪欲軸で対比したものだと考えると、わかりやすい。 畜生と人間 畜生は本能に支配されているから、「考えるよりも先に手が出る」。思考があったとしても浅知恵、猿真似、短絡思考の寄せ集め的なもの(知的体育会系。AI のように処理速度的な意味でコストパフォーマンス面では非常に有利)。 そんな畜生に対して、人間は、いきなり行動する前に、一枚、思考の膜が入る。内省してシミュレーションすることが可能(却って処理スピードは遅くなるので、難関大学入試などで意図的に短かく制限された時間内でアウトプットして高得点を稼ぐのには不利)。 参考

邪解脱だらけ

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スマナサーラ長老の最近の質疑応答で「邪解脱」に関する質問に回答するものがあった: 「他宗教を批判することになってしまう」と言って、長老は,宗教界ではなく、俗世間の「人生の目的を成し遂げた、思い残すことはない」という心境に達したような人のことを例にして説明するが、結局は宗教界に話を戻して、説明が続く。 仏教で言う「解脱」の定義は「なし終えた」であり、他宗教の人々にも自分は「なし終えた」と言う人々がいるが、(それら、自分たちの目指す最高の境地に達したと思っている聖・俗の人達のことを) 長老「本当はなし終えてないんですね」 長老「阿弥陀さんでも、観音さんでも、不動さんでも、何でもいいんですが、錯覚に陥っただけなんですね……」 長老「(そういうのが)邪解脱になるんですね」 結論:客観的に無常・苦・無我を悟った状態になって(貪・瞋・痴が完全に消滅して)いない限り、正解脱ではない。

中道─涅槃の在り処─

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「中道ひいては涅槃の在り処は、色界(第 4 禅)にあり」というのが今回の主旨である。 「そもそも中道=涅槃じゃない」はもちろん、「何ら条件づけられない境地である涅槃に場所も糞もないだろう」等といった初歩的なツッコミは受け付ける気はない。 中道とは、(位置的に)色界のことである 「中道」とは苦楽(の両極端=外道に対する)中道のことだが、ここで、「楽道」とは欲界のことであり、「苦道」とは無色界のことである──というのが僕の主張である。だから中道は位置的に、色界に位置することになる。 楽道が要するに欲界(の生・物事)を希求することを指すと考えるのはわかりやすいだろう。一方、苦道が無色界を希求することを指すというのは、どういうことなのか? 偽典で塗り固めていった挙句に外道化の道を辿った大乗は論外としても、釈尊の教えと弟子の正統な保守本流である 上座部 テーラワーダ においても、現代に経典として伝わる情報は万全と言えるわけではない。釈尊の成道前後の足跡を伝える『転法輪経』にしても、「中道を悟った」と言いつつ、「中道とは八正道のことである」と言って、なぜか最初から素直に「八正道を悟った」とは言わない。そして、中道とは単に苦楽中道、「苦行と楽行の両極端を離れること」という辞書的説明で留まり、スルーして結局は八正道を提示して終る。なぜ、八正道が中道なのか、そもそも八正道の構成が 8 のそれであるのかという理由などは、何も触れられず、それが悟ったり導かれた経緯は何も語られない。中道の方は、極めて自然に、成道するにあたっての釈尊の修行過程を背景にして素直に導かれる経緯を持っているのとは、対照的である。 経典が固まるのに、釈尊の死後 100 年ほどのラグがあり、その間は、各(サーリプッタや、マハーカッサパ、ウパーリ、アーナンダ、アヌルッダといった)弟子団の主要流派ごとの口伝で伝えられた教えがあったものと思われる。口伝で伝えられる過程で、「中道とは八正道のことである」という註釈・辞書的な条件反射フレーズが、そのまま本文に入り込み、埋め込まれ、一体化していったのだろう。八正道が後付けの用語だったのか、同じくらい古いものの別の経典で説かれた用語なのかわからないが、ともかく、『転法輪経』では登場の仕方が極めて不自然である。中道をスルーして「八正道は大切だ!」とお題目のように