カピラ宮

範囲としては、現代のアフガニスタン全域とイラン東辺部までを含む領域が、シャカ族の勢力圏だったというのがラナジット・パール氏の説。

そして、カピラ宮そのものの位置は、考古学的に発見されている史跡の中から比定すると、イラン東辺シースターン州の Koh-e Khaje (Kuh-e Khwaja) 遺跡であるとしている。

Kuh-e Khwaja was Kapilavastu.

Gotama Buddha and the Nepalese Bluff in World History

Google の衛星写真によるところのその「黒い山容」と「脇の岩窟院」の姿はイシギリ経の舞台となる「仙人山脇の黒岩窟(イシギリ・パッサ・カーラシラー)」という名称が良く当てはまる気もする。イシリギ山はラージャガハ地域周辺に存在する五聖山のうちの一つである(中国の「五山」という概念もこれが起源であろう)。ということは、厳密には、これ自体はカピラ宮(=バビル=ラージャガハ?)そのものではないのかもしれない。

パール氏は、最終結論としては Koh-e Khaje 遺跡自体をカピラ宮としているものの、考察の過程で、カブールやザーボルという地名も「カピラ」との名称の関連性を主張している。パール氏の説に対する修正としてここで仮に「Koh-e Khaje 遺跡自体はカピラ宮ではないが、カピラ宮と極めて関連性の高いイシギリ山である」とすれば、カピラ宮自体は、Koh-e Khaje 遺跡のすぐ近くの都市ザーボルであるとしても良いのかもしれない。

がしかし、シャカ族の勢力圏が、現代のアフガニスタン規模の領域であり、その中にラージャガハを中心として五聖山が存在していたという観点から見れれば、無理にザーボルほどイシギリ山に近い場所をカピラ宮とする必要はない。むしろ、ザーボルはイシギリ山に付属する門前町的な集落という程度の認識でいいのかもしれない。

やはり、カブールがカピラ宮であるとしても、蓋然的に無理は少ないと思う。カブールはカイバル峠に臨む地理的な要所であり、パール氏が考察の過程でナーランダーと比定している Mes Aynak 遺跡と隣接している。また、仏教の極めて重要な史跡のあるバーミヤンもその北部に位置する。カピラ宮が首都的な都市であったのであれば、ナーランダーのような、サーリプッタ長老の出身地であり、後の仏教の学問的な中心僧院として栄え多くの僧を擁した僧院が、大都市近郊にあることは非常に自然である。一方、イシギリ山の方は、独覚仏陀たちが住んでいたという伝説があったり、苦行を喜ぶジャイナ教徒たちが修行に専念していたりと、むしろ人里離れた立地イメージが似つかわしい僧院である。

そもそも、パール氏が考察するように、カブール、カピラという名称は、英語のカッパー(銅)そのものを意味する名称であって、Mes Aynak 遺跡付近一体は、世界でも有数の埋蔵量を誇る銅鉱山であり(そのために現在、アフガン政府から権益を得た中国系企業の開発によって山塊まるごと破壊される危機に瀕している)、また成道後の釈尊に最初に帰依した二人の商人のうちの一人であった Trapusa が「青銅」を意味する名を持つこと、おそらく彼がナーランダーを最初に設立したのではないかというパール氏の推察からも、銅とカピラ宮は非常に結び付きが強い。このせっかくの考察が、Koh-e Khaje 遺跡をカピラ宮と結び付けるとなると、銅鉱山との関連性という材料が関わらなくなってしまう。

素直に、カブールが、カピラ宮ではないかと思っておいて良いのではないか。

ちなみに、パール氏は、Trapusa は、ナーガ族であろうとも言っている。確かに、釈尊の庇護者として、ナーガ王が挙げられる。成道後最初に帰依した Trapusa(を代表とする銅鉱山ギルド)が、庇護者ナーガ王として表現されているとしても自然である。

また、詳しくは他の機会に譲るが、銅の精錬のような金属精錬技術は、古代より、宗教と非常に結び付きの深い文化である。すなわち錬金術の伝統である(パール氏がデーヴァダッタの派閥と比定するゾロアスター教も金属精錬技術と結び付いた拝火宗教である)。さらに、私はシャカ族はスキタイ族と比定しているのだが、スキタイはヘラクレスが、下半身が蛇である蛇女との間にできた子供の子孫という伝説がある。つまり、元々ナーガ(蛇)をトーテムとする人々とのつながりが深いのである。そして、シャカ族とヘブライのダン族との関連性もパール氏の指摘するところだが、ダン族のシンボルは、やはり、蛇である。おそらく、スキタイがヒクソスとして(ヒクソス=甘蔗王イクシュヴァークさらにヘブライのイサクでもあると私は独自に比定)一時的に侵入して関りを持ったエジプト人にルーツを持つ人々ではないかと思われる。スキタイ神話にシンボライズされるように、騎馬戦士階級と、金属精錬に秀でた技術者階級を中心とした複合的な民族がスキタイ(シャカ)族であったものと思われる。このことは、仏教における商工階級の存在感の強さ(バラモン教は対して、農民と領主という地縛・保守的な性質をもつ)を説明できるし、私が仏教のパラレル伝承であると考えるジャイナ教の「マハヴィーラはヴァイシャリー(商人国)の王子であった」という設定とも強く関連する(マハーヴィーラの名は、マハーヴィルハということで、ヘブライのダン族のルーツである下女ビルハの血筋の長であることを意味している。母親の名が冠されているということは、父親はダン族ではなく、異族間婚姻の結果生まれた王子であることを意味しているのだろう)。

これも、話を発展させると、他の機会に譲るべきだが、パール氏が指摘するシャカ族とヘブライのダン族との結び付きのみならず、私は、ヘブライ民族自体が、シャカ=スキタイ族であり、シャカ族の勢力圏である現代のアフガンとイラン東部の領域が、ヘブライ民族にとっての約束の地、真のイスラエルであったと考える。つまり、カピラ宮=バビル=カブールは、真のエルサレムであることを意味する。厳密には、この領域は南ユダ王国に相当する。ダン族は、元々、南ユダ王国を構成するユダ族・ベニヤミン族(=バーミヤンと私は比定)の西方のペリシテ(=ペルシアと私は比定)との境界付近を拠点としたが、これは先述のイシギリ山のあるザーボルの付近であろう。ザーボルのやや南に、ザーヘダーンという地名が認められるが、ダン族に因むものの可能性がある。ペルシアの圧迫に抗し切れなかったダン族は、北上してイスラエル勢力圏の最北端に移住する。南のユダ王国に対して北は同じくヘブライ民族のイスラエル王国があったが、そのイスラエルの首都はサマリアであったので、これはサマルカンド(アフガニスタンに北接するウズベキスタンの首都)であると比定できる。つまり、その北イスラエル王国の北辺地域であるから、一部の人々はカザフステップに逃亡したということで、他方は、そのままペルシアに属国民として組み込まれたと考えられる。

北イスラエル王国は先にアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国は後に新バビロニアのネブカドネザル2世によって滅ぼされる。つまり、ダン族系シャカ族は、南ユダ王国系シャカ族よりも先に独立を失い、メソポタミアの世界帝国に組み込まれ、シャカ族としてのアイデンティティは混血によって低下していたものと思われる(南ユダ王国の人々からは、失われた10部族の系譜の人々は軽侮されていた)。後に、釈尊のダン族の親族であるコーサラ国のヴィルダパ王によって、カピラ宮は攻め滅ぼされるが、ヴィルダパが激しい敵愾心を燃やしたのは、カピラ宮で宮廷の人々から下女の子と侮辱されたからとされる。つまり、失われた10部族の一つで多民族との混血で純血性が失われているばかりでなく、さらにダン族は確かに下女ビルハの血筋だからである(「ビルハ」の名前と「ヴィルダパ」の名前にも関連性を認められる「ビルハダッタ」というような意味であろう。母親の名は「ナーガムンダ」であり、やはりナーガ族(エジプト人)とダン族とのつながりを示唆している)。釈尊自身もダン族の族長の血筋であるから、ヴィルダパ王に滅ぼされたカピラ宮のシャカ族の王族は、特に釈尊の直接の親族というわけではなかったはずであり、釈尊がヴィルダパを制止しようとして「親戚の陰は涼しいものである」と言ったのは、スキタイとしての民族的な意味での親戚を表わしていたということがわかる。また、釈尊は、カピラ宮のシャカ族は過去の業ゆえ滅亡を免れないと結論し、制止を最終的に諦めたが、この業とは、川に毒を流して多くの生きとし生けるものを苦しめたこととされる。明治期の日本における足尾銅山の鉱毒事件のように、カブールの銅鉱山からの鉱毒による深刻な水質汚染であったと見て間違いない。

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