縁起説

アッシジ長老がサーリプッタ長老に語ったとされる句:

Ye dhammā hetuppabhavā,
tesaṃ hetuṃ Tathāgato āha
tesañca yo nirodho;
evaṃvādī Mahāsamaṇo.

なぜか「諸法(事象・現象)が縁によって生じる」と解釈され、いわゆる「縁起説」として定着している。仏教の最も基本的な思想とされているが、この句の解釈は実は違うのではないか?

Ye dhammā は Tathāgato āha に係っているだけで、実質は hetuppabhavā, tesaṃ hetuṃ, tesañca yo nirodho と(四諦のうちの)三諦を言ったに過ぎない。「Ye dhammā Tathāgato āha」は単に、「如来が語られたこの法は」と言っていて、「方法(dhammā)」という単語に、事象・現象などと多義的な解釈を持たせて、何やら大げさな神秘性を帯びた体系に、仏教の位置付けを飛躍させる必要はなかったのではないかと思う。

hetuppabhavā は「原因から生まれる諸々の(複数形)もの」tesaṃ hetuṃ は「その原因(単数形)」、tesañca yo nirodho は「それら(原因から生まれた諸々のもの)が消滅するところの(原因に係る)」

つまり、全体を訳すとこうなる。

如来が語られたこの法というのは、
(一つの)原因から生じた諸々の結果(複数)と、それらの原因(単数)、
(その原因はまた)諸々の結果を消滅させる原因でもあるところのもの。
それ(その方法)を大沙門は説かれた。

結果が複数で、それら複数の結果の原因となっているものが単数であるというのが一つのポイントである(参考)。

そのように、神秘性の方向性なしに素直な話として解釈してみれば、その前後のコンダンニャ長老、サーリプッタ長老、モッガラーナ長老らの、最初に正見を得た時の常套句である、「生じるものは、滅する性質の云々」とイマイチ訳のわかったようなわからないようなセリフも、本来はどういうものであったかどうかが見えてくる気がする。つまり:

「諸々の結果を生じている一つの(大元となる)原因がわかれば、それは反対に諸々の結果を一挙に消滅させる鍵ともなるわけだ」

そういうやりとりだとすると、四諦→コンダンニャ長老の常套句、アッサジ長老の概説→サーリプッタ長老・モッガラーナ長老の常套句のやりとりが、まったく自然な受け答えだとわかるわけである。

仏教学者なんかで「縁起ガー、縁起ガー」なんて、縁起そのものが、もの凄い奥義のような概念として、釈尊が悟ったその内容の核心概念として奉り上げている人がいる気もするが、こんな風に解釈してしまうと、かなり根底部分から神秘性面で倒壊しかねないことになってしまうのかもしれない。

まあそれはおいておいて、上のようなごく自然なやりとりだったと解釈するのであれば、「その諸々の結果の原因となっている一つの物事を、見つけ出してしまえばいいじゃないの」ということになるわけで、その方法が仏法(Ye dhammā Tathāgato āha)であり、具体的にはウィパッサナー瞑想や、四念処といったものなのだろう。勘違いしないように念を押しておくが、「諸々の結果」を、この客観世界の万人、万物に普遍的な「事象」として拡大解釈し(dhammā に事象という拡大解釈を付したように)、その万人万物の普遍事象の、一つの統一的な根本原因を悟るのが仏教、なんていう風に、「その諸々の結果の原因となっている一つの物事を、見つけ出してしまえばいいじゃないの」という話のことを受け止めないように。各人において内的に、一つの原因と、それから生じている諸々の結果は千差万別である。ただ言えるのは、それ(原因と結果)が一対多対応の関係だというだけの話で、「この世にたった一つの原因と、あらゆる森羅万象と」の外的関係に風呂敷を広げては甚しい妄想で、大乗仏教はまさしくその愚の骨頂に陥ったわけであるが、パーリ経典が定まった段階でも既にこういう風に拡大解釈の萌芽が見られるという点には留意しておきたい。

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