地獄へとつながる瞋恚の正体
貪・瞋・痴の三毒のうち、地獄行きと結び付くのが瞋=瞋恚だが、これを言われているように、現代日本語の「怒り」や「憎悪」といった、感情的な状態の一種と捉えると、どうにも不適切なように思われてきた。「怒り」や「憎悪」は、瞋恚が感情に表出した時の一部の形態ではあるが、それが瞋恚そのもの、本体であるとは言えない気がするのである。
というのも、以前『ジャータカ 147 話「はりつけにされた男」』を取り上げた時にも、引っ掛っていて、「なぜ犯罪を犯してまで妻に執着する男が、(餓鬼ではなく)地獄行きなのか?」と。彼が死の瞬間まで考えていたのは、妻のことであり、どう考えれば、そこに怒りや憎悪があると言えるのだろうか?
そして今回、パーリでは結構有名な経だが、相応部の聚楽主相応の歌舞伎聚楽主経や戦士経のことを思い出して、これらも地獄行きケースだったなと考えた。戦士の方は、まあ、戦争という殺生を商売としている人々の話だから、地獄行きというのは納得が行きやすい。問題は、歌舞伎聚楽(演劇などの娯楽産業の村)の方である。彼らもまた、地獄行きとされたのである。餓鬼行きではない。
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、ラージャガハ(王舎城)のヴェールヴァナ(竹林)なる栗鼠養餌所にましました。
その時、歌舞伎村の長なるタラプタ(遮羅周羅)は、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
傍らに坐したタラプタなる歌舞伎村の長は、世尊に申しあげた。
「大徳よ、わたしは、昔から代々の師たる歌舞伎者の大事な口伝としてこう聞いております。すなわち、〈およそ歌舞伎役者たるものは、舞台や野外劇場において、真実をまねて、人々を笑わせしめ楽しませるものであって、身壊れ、命終りて後は、喜笑天の世界に生を受けるであろう〉と。これについて、世尊は、なんと仰せられましょうか」
「もうよい、村の長よ、やめなさい。わたしにそんな事を問うてはいけない」
だが、タラプタなる歌舞伎村の長は、ふたたび、世尊に申しあげた。
「大徳よ、わたしは、昔から代々の師たる歌舞伎者の大事な口伝としてこう聞いております。……これについて、世尊はなんと仰せられましょうか」
「もうよい、村の長よ、やめなさい。そんなことをわたしに問うてはいけない」
だが、タラプタなる歌舞伎村の長は、さらに、三たび、世尊に申しあげた。
「大徳よ、わたしは……。これについて、世尊はなんと仰せられましょうか」
「ほんとに、わたしは、〈もうよい、村の長よ、やめなさい。わたしにそんなことを問うてはいけない〉といって、汝の問うことを許さなかった。だが、いまは、そのことについて、汝に説こう。
村の長よ、むかし人々は、貪欲を離れず、貪欲のきずなに繋がれていた。それなのに、役者たちは、舞台やら野外の劇場において、欲の深い場面を演じたので、彼らはいよいよ欲深になってしまった。また、村の長よ、むかし人々は、瞋恚を離れず、瞋恚のきずなに縛りつけられていた。それなのに、役者たちは、舞台やら野外の劇場において、怒りにたけり狂う場面などを演じたので、彼らはいよいよ怒りっぽい人間になってしまった。さらに、また、村の長よ、むかしの人々は、いまだ愚痴を離れず、愚痴のきずなに縛りつけられていた。それなのに、役者たちは、舞台やら野外の劇場において、愚痴のかぎりをつくした場面などを演じたので、人々はいよいよ愚かな人間になってしまった。
かかる者は、みずから陶酔し、みずから放逸にして、また、他をして陶酔せしめ、放逸ならしめるのであって、身壊れ、命終りて後は、〈喜笑〉と名づくる地獄ありて、そこに生を受けるであろう。
しかるに、もし彼が、〈およそ歌舞伎役者たるものは、舞台や野外の劇場において、真実をまねて、人々を笑わしめ楽しませるものであって、身壊れ、命終りて後は、喜笑天の世界に生を受けるであろう〉との考えをいだくならば、それは、彼にとって間違った考えである、とわたしはいう。村の長よ、間違った考えをいだく者には、ただ二つの道がある、とわたしは説く。それは、地獄への道か、畜生の道かである」
そのように、世尊が仰せられた時、タラプタなる歌舞伎村の長は、声をあげて泣き、涙をながした。
「だから、わたしは、〈もうよい、村の長よ、やめなさい。そんなことをわたしに問うてはいけない〉といって、汝の問うことを許さなかったのである」
「大徳よ、わたしは、世尊の仰せられたことを悲しんで泣くのではありません。わたしは、ながい間、累代の師たる役者たちのために、〈およそ歌舞伎役者たるものは、舞台や野外の劇場において、真実をまねて、人々を笑わせ楽しませるものであって、身壊れ、命終って後は、喜笑天の世界に生を受けるであろう〉と、だまされ、欺かれ、迷わされていたと思うと、それが悲しいのであります。
素晴らしいかな、大徳よ、素晴らしいかな、大徳よ、たとえば、大徳よ、倒れたるを起し、覆われたるを露わし、迷えるものに道をしめし、暗闇のなかに燈火をもたらして、〈眼あるものはこれを見よ〉というがごとく、かくのごとく、世尊はさまざまの方便をもって、法を説きたもうた。ここに、わたしは、世尊に帰依したてまつる。また、法と比丘僧伽に帰依したてまつる。大徳よ、願わくは、わたしは、世尊の御許において、出家することを得、比丘戒を受けたいと思います」
かくて、歌舞伎村の長なるタラプタは、世尊の許において、出家することを得、比丘戒を授けられた。そして、彼は、比丘戒を受けると、まもなく、ただ独りしりぞいて、放逸なることなく、精勤し、専念して住したので、久しからずして、良家の子の出家の本懐たる無上にして究極の聖なる境地を、みずから知り、みずから証して住し、〈わが迷いの生涯はすでに尽きた。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、もはやふたたびかかる迷いの生を繰返すことはないであろう〉と知るにいたった。
かくて、長老タラプタは、聖者の一人となった。
増谷文雄『阿含経典』(筑摩書房、1979)
ちなみに、歌舞伎聚楽も戦士も、いずれも、「地獄または畜生」とされている。この後者の畜生行きに関しては、見(見解・価値観・思想)に関するもので、彼らが本当は地獄行きに相当するにも関わらず、彼らの一族の言い伝えに従って天界行きと思い込んで盲信していた場合、愚痴に基く間違った見解=邪見を醸成することになるから、そちら(愚痴)が来世に影響したら畜生行きということである。
ポイントは、「喜笑」と呼ばれる境地に行くことは、彼らの一族の側も釈尊の側も認識としては同じだが、その「喜笑」と呼ばれる境地が、天界なのか地獄なのかという認識で異っているという点である。
すなわち、「みずから陶酔し、みずから放逸にし」という点が地獄の理由とされる。瞋恚の「怒り」や「憎悪」とは、結びも付かないものであるのがわかるだろう。
しかし、とはいえ、これは地獄行きの理由は、瞋恚以外に、このようなケースも「別にある」と考えるべきではない。これはむしろ、瞋恚の定義を「怒り」や「憎悪」で説明づけることによる欠陥であって、瞋恚=「みずから陶酔し、みずから放逸にし」ということだと考えるべきであると、そういう結論に今回僕は達したのである。「怒り」や「憎悪は」あくまでも「みずから陶酔し、みずから放逸にし」の一形態に過ぎない。
そう考えると、ジャータカ 147 話の妻に執着しながら処刑された男が地獄行きであることの説明にもつながる。
無心や無念無想の境地や忘我、〝ゾーン〟といったもの
禅定に対する「集中している」という説明も、結構、いい加減なものではないかと思う。というのも、集中していればいいのであれば、スポーツやゲームや、その他の技芸などの作業に熱中している状態も、「禅定のようなもの」なのか?
いや、これはむしろ、「みずから陶酔し、みずから放逸にし」に陥っているケースの方が多くないか?
おそらくそうだから、禅定について説明される時、「集中」という日本語を当てて説明する一方、熱狂して忘我の状態になっていることやスポーツのゾーン状態などを、禅定と同一視することは、決してない、わけである。
ジャータカ 147 話のように、愛人に夢中になっている状態など、そういったものはほとんどが「瞋恚」とカテゴライズされるべきものだと思う。
別に、殺生などせずとも、地獄への道はパックリと口を開けて、我々の一般人的な範囲内の人生にも潜んでいるのである。
2023-08-24 追記
スマナサーラ長老が、「集中」についての質問に答えている動画がアップロードされたので、参考まで:
コメント
コメントを投稿