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善趣と悪趣

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自分の仮説 梵天(不瞋) 慈悲(分け隔てのない博愛的寛容、共感能力) 欲天(不貪) 小欲知足 人間(不痴) 思慮深さ(内省的) 畜生(愚痴) 短絡思考(考えるよりも先に行動) 餓鬼(貪欲) 大欲不知足 地獄(瞋恚) 無慈悲(身内・同胞以外の他所者に対する不寛容) 地獄 ジャータカ 147 話「はりつけにされた男」 にあるように、特定の者(家族や恋人等)に対する愛は、地獄行きのエクスキューズ(免罪)にはならない。例えば、アメリカのハリウッド映画では、「愛する妻子のために、国外で身体を張って戦う父親像」的なものを美化するプロパガンダを底流に持つものが多い。YouTube などでも、兵役を終えて家族やペットと涙の再会をするシーンなどがよくバズったりする。だが、ジャータカ 147 話の論理によると、故郷の家族にとってはどんなに愛情深い人間であっても、その本人が悪行を犯したことのエクスキューズにはならない。むしろ、派兵先の外国で、敵として戦う相手にも、自分と同様に、愛する家族がいる。そのことに目をつぶって、「心を鬼にして」戦争行為に加担する。それが地獄行きの心理構造ということになるものと思われる(そうでないとジャータカ 147 話の説明が付かない)。 異教徒の人権を尊重しない、人間以外の動物を生命として扱わない、などといった、自分自身と対等な生命として扱う範囲を限定する、冷酷な態度が地獄行きの業となる瞋恚の正体。怒りとか、暴力というのは、瞋恚の皮相にすぎない。 梵天 梵天は上述の地獄の逆と考えればわかりやすい。 餓鬼と欲天 下のスマナサーラ長老の解説が、悪趣と善趣のうち、主に餓鬼と欲天を貪欲軸で対比したものだと考えると、わかりやすい。 畜生と人間 畜生は本能に支配されているから、「考えるよりも先に手が出る」。思考があったとしても浅知恵、猿真似、短絡思考の寄せ集め的なもの(知的体育会系。AI のように処理速度的な意味でコストパフォーマンス面では非常に有利)。 そんな畜生に対して、人間は、いきなり行動する前に、一枚、思考の膜が入る。内省してシミュレーションすることが可能(却って処理スピードは遅くなるので、難関大学入試などで意図的に短かく制限された時間内でアウトプットして高得点を稼ぐのには不利)。 参考

邪解脱だらけ

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スマナサーラ長老の最近の質疑応答で「邪解脱」に関する質問に回答するものがあった: 「他宗教を批判することになってしまう」と言って、長老は,宗教界ではなく、俗世間の「人生の目的を成し遂げた、思い残すことはない」という心境に達したような人のことを例にして説明するが、結局は宗教界に話を戻して、説明が続く。 仏教で言う「解脱」の定義は「なし終えた」であり、他宗教の人々にも自分は「なし終えた」と言う人々がいるが、(それら、自分たちの目指す最高の境地に達したと思っている聖・俗の人達のことを) 長老「本当はなし終えてないんですね」 長老「阿弥陀さんでも、観音さんでも、不動さんでも、何でもいいんですが、錯覚に陥っただけなんですね……」 長老「(そういうのが)邪解脱になるんですね」 結論:客観的に無常・苦・無我を悟った状態になって(貪・瞋・痴が完全に消滅して)いない限り、正解脱ではない。

中道─涅槃の在り処─

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「中道ひいては涅槃の在り処は、色界(第 4 禅)にあり」というのが今回の主旨である。 「そもそも中道=涅槃じゃない」はもちろん、「何ら条件づけられない境地である涅槃に場所も糞もないだろう」等といった初歩的なツッコミは受け付ける気はない。 中道とは、(位置的に)色界のことである 「中道」とは苦楽(の両極端=外道に対する)中道のことだが、ここで、「楽道」とは欲界のことであり、「苦道」とは無色界のことである──というのが僕の主張である。だから中道は位置的に、色界に位置することになる。 楽道が要するに欲界(の生・物事)を希求することを指すと考えるのはわかりやすいだろう。一方、苦道が無色界を希求することを指すというのは、どういうことなのか? 偽典で塗り固めていった挙句に外道化の道を辿った大乗は論外としても、釈尊の教えと弟子の正統な保守本流である 上座部 テーラワーダ においても、現代に経典として伝わる情報は万全と言えるわけではない。釈尊の成道前後の足跡を伝える『転法輪経』にしても、「中道を悟った」と言いつつ、「中道とは八正道のことである」と言って、なぜか最初から素直に「八正道を悟った」とは言わない。そして、中道とは単に苦楽中道、「苦行と楽行の両極端を離れること」という辞書的説明で留まり、スルーして結局は八正道を提示して終る。なぜ、八正道が中道なのか、そもそも八正道の構成が 8 のそれであるのかという理由などは、何も触れられず、それが悟ったり導かれた経緯は何も語られない。中道の方は、極めて自然に、成道するにあたっての釈尊の修行過程を背景にして素直に導かれる経緯を持っているのとは、対照的である。 経典が固まるのに、釈尊の死後 100 年ほどのラグがあり、その間は、各(サーリプッタや、マハーカッサパ、ウパーリ、アーナンダ、アヌルッダといった)弟子団の主要流派ごとの口伝で伝えられた教えがあったものと思われる。口伝で伝えられる過程で、「中道とは八正道のことである」という註釈・辞書的な条件反射フレーズが、そのまま本文に入り込み、埋め込まれ、一体化していったのだろう。八正道が後付けの用語だったのか、同じくらい古いものの別の経典で説かれた用語なのかわからないが、ともかく、『転法輪経』では登場の仕方が極めて不自然である。中道をスルーして「八正道は大切だ!」とお題目のように

神智学系の死後観・輪廻転生観を添削する

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前回、神智学の 7 層構造の世界観・人間観について、独自の分析を行った(「 神智学の元ネタを推理する 」)。今回はそれを踏まえて、死後の世界や輪廻転生モデルについて考察してみたいと思う。 神智学系の死後観・輪廻転生観というものは、歴史的にも、幕末・明治以降の近現代日本の神道系・仏教系双方の心霊観(≒スピリチュアリズム)に直接・間接に影響を与えている。なので、神智学の死後観・輪廻転生観をテーラワーダ=パーリ仏教の観点から添削するということは、単に「他山の石」を評価するだけでなく、我々現代日本人という「自山の石」の問題として評価することを意味している。 神智学(ブラヴァツキー)の仮想敵 神智学(ブラヴァツキー)が第 1 に敵視しているのは、教会によってヨーロッパ社会において歴史的に運営されてきた伝統的なキリスト教(神智学はこれを「顕教キリスト教」と呼んで、彼らにとっての本来のキリスト教=「秘教キリスト教」と区別する)である。身内間の遺産争いのようなもので、日本の宗教界の例で言うと、創価学会と日蓮(正)宗の間の争いのような距離感に近いかもしれない。 第 2 に敵視しているのは、唯物思想である。こちらに対しては、「顕教キリスト教」に対するホットな敵視と違って、冷い軽蔑のようなものに近い。 今回のメインテーマは死後観・輪廻転生観なので、どちらかというと後者の唯物思想に対してどのようなモデルが存在するのかということが中心となるのだが、まず先に、仏教の観点から、前者の「顕教 vs 秘教」について、僕の見解を述べておく。 顕教 vs 秘教 神智学では、各社会の中で伝統的に運営されてきた状態の宗教をキリスト教にせよ、イスラームにせよ、ユダヤ教にせよ、仏教にせよ、顕教と呼び、それは形骸化していて、本来のエッセンスを失っていると考える。それに対して、本来のエッセンスとしてのものが秘教(としてのキリスト教や仏教等)であり、秘教はただ一つの共通する宗教だと神智学は言う。つまり、「信じる・信じない」の(顕教的な)宗教ではなくて、秘教というものは自然科学の理論と同様に、この世界の「真実」だから、と。 まあ、その「秘教」なるコンセプトについては、とやかく言うつもりはない。だが、本当に、神智学が語っている、創造神話や、7 の聖数構造論などが、その世界の「真実」たる秘教に該当する

神智学の元ネタを推理する

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神智学の 7 層構造のアイデア元 結局アイデア的には、カバラの「生命の木」が元ネタなのではないのかと思い付いた。もちろん、部分的に「カバラでは◯◯に相当する」などという説明のされ方は珍しくはない。神智学は、「あらゆる宗教のエッセンス」を標榜しているのだから、カバラに限らず、あれやこれやの宗教を引き合いに出すスタイルなのだから。そうではなくて、そもそもブラヴァツキーが『シークレット・ドクトリン』を著すにあたって、アイデアの骨幹的に「生命の木」の換骨奪胎がルーツになっているのではないのかということだ。 インターネットを探しても、「生命の木」と、神智学の体系を対応付けた神智学協会系の公式の資料というものは、見あたらなかったが、これはむしろ骨幹的な元ネタだけに、むしろブラヴァツキー自身によって、秘されていたのではないかと思う。大乗仏教の偽典のように、埋蔵経のような形式で、神秘めかした方が、権威を捏造できるからだ。 ブラヴァツキーが、マハトマ(クートフーミ大師とモリヤ大師)からの啓示という形式を用いていたこと、「マハトマ書簡」という、サイババのやり口のような手品を使った演出で印象操作をしていたことなど、彼女の顕示的な性格から、骨幹的なアイデアの元ネタを秘しても、不思議ではない。 神智学の 7 層構造と「生命の木」の 10 のセフィラとの対応付け 難しいのが、神智学は基本的に 7 層構造で体系付けられ、一方のカバラの「生命の木」は、10 のセフィラで構成されているという点である。 まず、最初に思い付くのが、3 + 7 = 10 ということである。セフィラの最上部の三角形=至高の 3 つ組(ケテル・コクマー・ビナー)を別枠で考えれば、残りは 7 である。この 7 が、神智学の「何でも 7 種類に分類する」ものと対応させられるのではないかと。 しかし、神智学の 7 層構造の上から 1 番目のアーディ界や、2 番目のアヌパーダカ界を、「生命の木」の 4 番目のセフィラ(ケセド)や 5 番目のセフィラ(ゲブラー)に割り当てても、全くしっくりこない。 そこでしばらく腕組みして「生命の木」を眺めていたのだが、セフィラの個数ではなく、縦方向の配置が、ちょうど 7 層構造になっていることに気付いた。これは、大発見である。上述したように、神智学で(ブラヴァツキー)は、7 層

霊媒体質なるもの

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以前、(古)神道のスピリチュアリズムについて考察した記事(「 鎮魂法・帰神術 」)で、テーラワーダ仏教の観点から分析を試みた。 鎮魂法については、仏教の禅定修行で包括できるものであり、特に独自性・新規性はないものという結論であった。帰神術についても、鎮魂法という禅定修行の結果発揮される神通として捉えることができ、「神道ならでは」「全く異種の仏教の体系には存在しない新規なる領域」という類のものでもないという結論であった。 とはいえ、神通の一種として考えた場合、帰神術の全てが仏教で具体的に説かれているわけではない。帰神術で「神を招来する」方法としては、審神者が神通により高次の世界(要するに神界)へ昇って行って(仏教の神足通に相当)、神とコンタクトし、地上に連れ戻ってくる。仏教では、神とコンタクトしたければ、神足通で天界に行ってそこで神と接触して対話なりして情報を得るだけで済ませるのだが、神道はそこからさらに、神を地上にわざわざ降ろして、地上にいる神主(霊媒)に憑依させるという手順を踏む。 この神主を、審神者自身で完結して一人二役で行う場合には自感法と言い、審神者と別人に憑依させる場合には他感法と言う。 いずれにしろ、神主は、霊媒体質の人間でなければならない。 この「霊媒体質」というのが、仏教では特に説かれていないので、僕の前回の記事の分析では、謎のまま残されていた。 一般に、エリアーデの類型で言うところの、脱魂型シャーマニズムとしての神道であれば仏教は包含しているように思えるのだが、憑依型シャーマニズムとしての側面は仏教では包含しきれていないように(一見)思われる。包含というか、そもそも全く興味を示していない感じである。仏教は修行者自身が徳を高めて、神と同等以上の存在と化すことを目指すのであって、自分は人間のまま、徳の高い神を自分に憑依させて、その威光・御利益にあやかろう、という系統の発想はしないのだろう。 目的がないことと、技法がないこととは話が別 しかし、仏教では、自分に神を「憑依させる」などという目的を持たないからといって、そのような技法までもがないかというと、おそらく結果的に憑依につながるような修行法(神通力)も、実は包含されている。 憑依に関して最も鍵となる仏教の思想としては、「無我」思想である。仏道修行者にとって、己の心の中は無我なのだ

ダンジョンズ&ドラゴンズの 2 次元的キャラクター属性

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最近、実写化映画の第 4 作目(リブートとしては第 1 作目)が公開された『ダンジョンズ&ドラゴンズ』だが、マーベル・シネマティック・ユニバースや DC・エクステンディット・ユニバースのチープなクローンのような作りになってしまって残念だった。旧 3 部作が、直接・間接に 1 作目の監督・製作者である Courtney Solomons(2 作目は製作総指揮、3 作目は所有する After Dark Films を通じた配給権)の影響下にあって、作を進めるごとに確実にマイナー化していくのに反比例して、Dungeons and Dragons (aka. DnD) の実写映像化としてはグングン良くなっていった。つまり、ショービジネスとして敗北の道を辿りつつ、DnD というゲーム素材の実写化作品としては、どんどん良くなっていたのだが、製作する側としてはそんなつもりはなく、もっと儲けられる素材として捉えていたようで、著作権者である Wizards of the Coast の親会社の Hasbro が業を煮やしたのか、「儲かる」ポップな方向性でリブートさせた最新作だったのだろう。Box-office bomb とまではならなかったものの、期待されたほどの大した黒字ではなかったようだ。 最新作は、案の定、お安い「家族愛」を盛り込み、各年齢層用にキャラクターを一通り揃えた作りで、マクドナルドのハッピーセットのように企画されたものだった。しかし、DnD のファン層が、マクドナルドのハッピーセットに歓ぶ層ではない、例えば次郎系ラーメンを目指すようなオタク筋であったのが第 1 の敗因。しかしこれはおそらく製作者側もわかっていたことで、DnD のファン層向けに作っていたら、ショービズ的な儲けができないことは、旧 3 部作が示していたから、今回は敢えて、ショービズ的なファミリー層を狙って行くつもりだったのだろう。第 2 の敗因は、各年齢層用にキャラクターを一通り揃えたせいで、肝心の主人公の存在感が一番薄くなってしまったという点である。クリス・パイン演じるあの主人公の吟遊詩人は、単なるお安い「家族愛」要員としてしか、存在する意味がなかった。あいつは絶対に要らない。ミシェル・ロドリゲス演じる女バーヴァリアンの方がずっと少女に対する愛情がキャラクターとして演出されていた。役者の演技の問題

四大王と四大天使

仏教の四大王も、西方(ユダヤ・キリスト・イスラーム教)の四大天使も、いずれも、地上世界の東西南北の方位に配されている点で、全く同じ立ち位置にあると言える。 とはいえ、両者の描写の方向性には、それぞれ異なりがあり、その擦り合わせをしていくと、興味深い事実を発見できたので、ここで述べて行きたい。 仏教の四大王の場合 各大王の名前が分っているものの、各大王の性格・特徴というものがはっきりしない。北の 毘沙門 ヴェッサヴァナ 天が筆頭となっているという他、これといった性質が不明である。むしろ、各大王自身ではなく、各方位と眷属となる畜生系の神獣の方が、その性質を特徴づけている。 東 西 南 北 大王 持国 広目 増長 毘沙門 神獣 ガンダルヴァ ナーガ クンバンダ ヤッカ 一方、四大元素はパーリ仏教(古代インド世界)でも西方世界と共通する概念でありながら、四大王や方位との関連付けは定かではない。 西方の四大天使の場合 四大天使の場合は、四大元素との関連付けがかなり明確である。 従来説(不正確) 東 西 南 北 天使 ラファエル ガブリエル ミカエル ウリエル 元素 風 水 火 地 天使の場合、四大元素と天使の間の関連付けは分りやすいのだが、逆に、元素と方位(または天使と方位)の関連付けが、多分に疑問が残るのである。 どう考えても、火と水、風と地が対置する元素のはずであり、それを方位に反映するのであれば、それらが対置するような方位に配するべきだと思うのである。つまり、火を南のまま水を北に配するか、水を西のまま火を東に配するか、のどちらかである。 結論から述べると、後者が正解になると思う。 修正後 東 西 南 北 天使 ミカエル ガブリエル ラファエル ウリエル 元素 火 水 風 地 理由としては、西が水と関連する方位とすることは、東洋(仏教・ヒンドゥ教・中国)世界とも共通する発想だからである。仏教・ヒンドゥ教ではナーガ(龍神=水神)や弁財天と関連付けられ、中国では西王母と関連付けられ、水の元素を司るガブリエルとの相性は非常に良い。 つまり、西=水を固定して、それに対置するように、火

鎮魂法・帰神術

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祭礼的儀式に関する部分は文化的伝統に関する部分なのでおくとして、宗教・スピリチュアリズム的に、神道の体系といえば、古神道にその実を見出すことになる。 ちなみにこの古神道の「古」は、実際に「日本書紀」等の時代から「古い」という意味ではなく、実際には幕末あたりから始まっているもので、その解釈の淵源を「日本書紀」等の古代のテキストに依っているという意味で「古」と称しているものである。そのような神道の行い方、行法そのものは要するに、「古神道」を称し始めた幕末〜明治初期から突如として始まったものである。おそらく、西洋の神智学運動の影響を直接・間接的に受けており、その神智学運動というのは、主に大英帝国期(ヴィクトリア朝)イギリスのキリスト教徒系のヨーロッパ人が、スリランカでテーラワーダ仏教と接触したことを契機としている。 古神道のルーツとして、本田 親徳 ちかあつ の本田霊学が本流として挙げられる。現代に到るまで、神道系の新興宗教のほとんどは本田霊学がルーツのようなものである(中には川面凡児や宮地神仙道のような傍流もある cf. 松岡正剛の千夜千冊 1147夜「 『鎮魂行法論』津城寛文 」)。 ところで、上の松岡正剛の記事で取り上げられている津城寛文の『鎮魂行法論』だが、その本の論旨は、望月幹巳の「 鎮魂帰神の意味世界──統合的解釈の試み── 」という論文で批判的に検証されている。 つまり、本田霊学をルーツとする神道の行法は、凡そ、鎮魂法・帰神術に帰結することができるのだが、津城はそれをシャーマニズムの観点から分析するにあたって、鎮魂法=脱魂、帰神術=憑依と二元的に対応づけたのだが、望月はそれに異を唱えている。そもそも、僕が松岡正剛の記事や望月幹巳の記事に行き当たったのは、「鎮魂法・帰神術とはなんぞや?」ということを調べていたという経緯があったためである。僕自身としては、望月の論に賛成(津城の「鎮魂法=脱魂、帰神術=憑依と二元的に対応づける」に異議あり)である。 鎮魂法とは仏教の禅定修行のことである 表面的な形はそのままではないにせよ、「魂(心)を鎮める」というネーミングからしても、禅定のことを指しているに他ならない。 例えば、仏教では、カシナ(遍。丸い円盤に色を塗ったもの)を使った色界禅定の準備技法があるが、鎮魂法では、丸い石を使ってそれを見つめて、魂(心)を

地獄へとつながる瞋恚の正体

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貪・瞋・痴の三毒のうち、地獄行きと結び付くのが瞋= 瞋恚 dosa だが、これを言われているように、現代日本語の「怒り」や「憎悪」といった、感情的な状態の一種と捉えると、どうにも不適切なように思われてきた。「怒り」や「憎悪」は、瞋恚が感情に表出した時の一部の形態ではあるが、それが瞋恚そのもの、本体であるとは言えない気がするのである。 というのも、以前『 ジャータカ 147 話「はりつけにされた男」 』を取り上げた時にも、引っ掛っていて、「なぜ犯罪を犯してまで妻に執着する男が、(餓鬼ではなく)地獄行きなのか?」と。彼が死の瞬間まで考えていたのは、妻のことであり、どう考えれば、そこに怒りや憎悪があると言えるのだろうか? そして今回、パーリでは結構有名な経だが、相応部の聚楽主相応の歌舞伎聚楽主経や戦士経のことを思い出して、これらも地獄行きケースだったなと考えた。戦士の方は、まあ、戦争という殺生を商売としている人々の話だから、地獄行きというのは納得が行きやすい。問題は、歌舞伎聚楽(演劇などの娯楽産業の村)の方である。彼らもまた、地獄行きとされたのである。餓鬼行きではない。 かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、ラージャガハ(王舎城)のヴェールヴァナ(竹林)なる栗鼠養餌所にましました。 その時、歌舞伎村の長なるタラプタ(遮羅周羅)は、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。 傍らに坐したタラプタなる歌舞伎村の長は、世尊に申しあげた。 「大徳よ、わたしは、昔から代々の師たる歌舞伎者の大事な口伝としてこう聞いております。すなわち、〈およそ歌舞伎役者たるものは、舞台や野外劇場において、真実をまねて、人々を笑わせしめ楽しませるものであって、身壊れ、命終りて後は、喜笑天の世界に生を受けるであろう〉と。これについて、世尊は、なんと仰せられましょうか」 「もうよい、村の長よ、やめなさい。わたしにそんな事を問うてはいけない」 だが、タラプタなる歌舞伎村の長は、ふたたび、世尊に申しあげた。 「大徳よ、わたしは、昔から代々の師たる歌舞伎者の大事な口伝としてこう聞いております。……これについて、世尊はなんと仰せられましょうか」 「もうよい、村の長よ、やめなさい。そんなことをわたしに問うてはいけない」 だが、タラプタなる歌舞伎村の長は、さらに、三

夢の中で国王になった下僕と夢の中で下僕となった資産家の話(『列子』)

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五 夢の中で国王になった 下僕 しもべ と夢の中で下僕となった資産家の話 周の国の 尹氏 いんし は大いに資産をたくわえたが、彼の家で走り使いしている下僕たちは、朝早くから夜遅くまで立ち働いて休むひまもない。その中に一人の年老いた下僕がいて、体力はもう限界がきていたが、それでも尹氏はますますひどい労働を強いた。そのために昼間は 呻 うめ き声をたてて仕事をし、夜はくたくたに疲れてぐったりと寝こむ有様。そのかわり、精神はうっとりとして夜ごと夜ごと夢の中で国王になり、多くの人民の上に君臨して一国の政事を統べ、立派な宮殿で遊びたのしみ、したい放題のことをして、その楽しさは 較 くら べようもなかった。そして目がさめるとまたいつものように苦しい労働に従事していた。ある人がその仕事のつらさを慰めると、下僕はこたえた。 ──人の一生はせいぜい百年、そのなかで昼と夜とがそれぞれ半分ずつである。わたしは昼間は人にこき使われる下僕の身、苦しいといえば確かに苦しいが、そのかわり夜は国王となって、その楽しみはたとえようもない。怨むことなど何もありませんよ。 ところが一方、尹氏の方は、心は俗事にあくせくとし、考えることはただもう家業のこと、身も心も疲れ果て、夜になってもぐったりと疲れて寝こみ、夜ごとの夢は他人の下僕、走り使いから力仕事とあらゆることにこきつかわれ、どなりつけられ引っぱたかれてあらゆるひどい仕打ちを受ける。眠っている 間 ま もうわごとをいい呻き声をたて、夜が白みかけてやっと解放される。尹氏はそれを苦に病んで友人に相談した。すると、その友人はいった。 ──きみは栄誉にめぐまれた地位におり、あり余るほどの資産をもち、常人のとても及ぶところではない。それなのに夜になると夢の中では人にこき使われる下僕となる。しかし、苦と楽とが交互に入れかわるのは、道理の必然なのだ。きみがうつつの時も夢の 間 ま も安楽であろうと願っても、それは無理というものだ。 尹氏は友人のこの言葉を聞いて、それからは召使たちのノルマをゆるやかにし、己れの心配事をへらしていったところ、うなされる病気の方もみないくらか良くなってきた。 福永光司『列子(中国古典文学大系、4)』(東京都、平凡社、1973)周穆王篇二章(p261) 「 物質次元と霊的次元の二重レイヤー認識 」について、中国思想(タオ

仏教と神道の関係性

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動画 1 話目: 270:俺の体験した話1:2009/07/07(火) 00:27:42 ID:MDJEHio50 俺の体験した話。 俺のじいちゃん家は結構な田舎にあって、子供のころはよく遊びにいってた。 じいちゃんは地元でも名士?っていうのかな、 土地を無駄にいっぱい持っててそれの運用だけで結構稼いでたらしい。 だからじいちゃんとばあちゃんはちっちゃな畑で自作するだけで暮らしてた。 土地をめぐってやくざとトラブルになることもあったけど…この話と関係あるかは判らん。 俺が小学5年生のときのこと。 俺と弟(二歳下)は毎年夏休みになるとじいちゃんちに1~2週間泊まるって習慣があった。 けど俺らはまだガキだったから、じいちゃんちの障子を破ったり、クレンザーまき散らかしたり、 ひどいいたずらばっかやってた。 俺の両親はそれに激怒して一度出入り禁止にされそうになったんだけど、 じいちゃんたちは俺ら兄弟をえらく可愛がってたらしくて、やめるなって逆に両親を説得してた。 まあそれでその年も泊まりに来たんだけど、そのときの話。 じいちゃんちの家の裏には畑があって、その隣にちょっとした林(雰囲気は森)がある。 で、森の真ん中には池があって、鯉を飼ってた。 弟が釣り好きだったんで近くの湖で鯉を新しく釣ってきて入れることもあったんだけど、 そんな時じいちゃんたちはえらく喜んでくれた。 まあ結構釣る→入れるって感じでがんがん追加してたんだけど、池が鯉で一杯になることは決してなかった。 じいちゃんたちは「猫が食べちゃうんだよ」って説明してたし、俺らもそれで納得してた。 あるとき、森の池を釣堀に見立てて釣りをしようって話になった。 俺は釣りに興味はなかったけど、じいちゃんたちに「裏の池には絶対一人で行くな」 って言われてたから弟についていった。 俺んちは結構熱心な仏教徒で無益な殺生はタブーだったんで、釣りっていっても キャッチアンドリリースか鯉こくとかにして食うかが基本、子供ながら無駄に殺したり はしなかった(だから弟も鯉を殺さずに池に持っていってた)。 271:俺の体験した話2:2009/07/07(火) 00:29:19 ID:MDJEHio50

物質次元と霊的次元の二重レイヤー認識

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我々は、物質次元( 色 ルーパ )と霊(魂)的次元( 名 ナーマ )の二重のレイヤーで世界を認識する。 物質次元のレイヤーが(我々から見て)前面(手前側)にある。霊的次元のレイヤーが(我々から見て)背面(奥側)にある 物質次元のレイヤーのオパシティ(不透明度)が通常は 100%(で奥の霊的次元のレイヤーは見えていないの)だが、夜や、雨天や、眠って夢を見ている時など、環境や 24 時間の生活のサイクル等で多少は変動する。また、体質的・先天的に、物質次元レイヤーのオパシティが恒常的に低下して(奥の霊的次元のレイヤーが透かし見えている)いる人がおり、いわゆる霊感体質と呼ばれることになる。瞑想に熟練して、後天的に、意識的にコントロールして、このオパシティを自在に変動させられる人もごく稀にいる。 二重レイヤーなので、(オパシティの問題で)見えていようが・いまいが、霊的レイヤーでの物事は、万人に共通である。つまり、霊的に鈍感な人であっても、同じ霊的影響は見えている人と同様に受けうる。 ただし、過敏な人は、意識しているがゆえ、そのことによる拡大再生産ループ(悪循環)が起こりやすい。同じ体験(心霊スポットに行く等)をしても、鈍感な人が、その場・その時限りの一過性の影響で済むのに対し、敏感な人は、ずっと影響が尾を引いて残り、長引き、場合によっては悪化する。 霊的レイヤーのカテゴライズ 地獄 餓鬼 人間 欲天 梵天 畜生 五蘊 行 想 色 想 行 受 神智学 (destructal) エーテル 物質 メンタル コーザル アストラル 梵天・欲天は善い行・想、地獄・餓鬼は悪い行・想 神智学では物質の上にエーテル体を想定しているようだが、ここでは物質よりも一段低レベルなものとして再設定した。というのは、神智学ではエーテル体を、幽霊が肉体の死後比較的短い期間(49 〜 60 日程度)留まることの多い説明として設定している。つまり、幽体のことであるが、にもかかわらず、物質的肉体よりも一つ上位の層として設定するのは非合理的である。幽体は、物質的肉体の、影や残存思念・痕跡のようなものであるから、物質よりもさらに低位のものとするべきだと思うのである。すると、人間界よりも低位の餓鬼界と上手く相応する。 従っ

とある仏教瞑想メソッド論を読んだ感想

スッタニパータの 4 章 と 5 章が最古層であることは定説になっているようだが、4 章の方が 5 章よりも古いのかどうかということは、定説なのか一部説なのかを調べていたら、ほとんど情報は見つけられなかったのだが、その作業の副産物として、とあるブログに行き着いた。 元のスッタニパータの件とは関係ないのだが、そのブログで述べられていた仏教の瞑想メソッド論(「 上座部とミックスメソッド:主体の問題 」)が少々ひっかかる内容だったので、僕なりの感想を述べたい。 基本的にここで述べるのは、当該ブログ記事を読んだ、僕の感想であり、当該ブログの記述についても僕の感想として「こんな風なことを言っているように思えるが」ということであり、実際に当該ブログの作者(morfo 氏)の意図を外している可能性は十分にあるし、ともかく目的としては、僕の感想を述べることにある。そのつもりで読んでいただきたい。実際の当該ブログおよびその作者 morfo 氏を批判したりする意図はなく、単に、僕の感想と、自分の感想の内容の各要素に対する反駁である。 当該ブログによる仏教のバージョン UP ヒストリー 上座部(パーリ三蔵) 大乗中観派(般若系経典) 大乗唯識派(唯識系経典・如来蔵系経典) チベット密教(金剛乗や任運乗) 欧米新仏教・morfo 氏自身(諸派の交流と現世肯定) 大乗から見た仏教史では、上座部が「初転法輪(第一話)」、空性を説く中観派・般若系経典が「第二転法輪(第二話)」、肯定表現で説く唯識派・唯識系経典・如来蔵系経典が「第三転法輪(第三話)」とされてきました。 その延長上で考えれば、金剛乗や任運乗が「第四話」であり、諸派の交流と現世肯定を特徴とする欧米新仏教(当サイトも一応、この困難な立場です)が「第五話」だと言えます。 このように、5 段階にバージョンアップしていく形で分類されているが、僕的には、1 から 2 へのバージョンアップの段階で「?」となってしまった。 このようなバージョンアップの論拠として、山下良道氏の「仏教1.0」「仏教2.0」「仏教3.0」といった表現を借りながら説明しているようなのだが、 大乗が生まれたことには必然性があって、それは、上座部は「本当の主体」に関する教説が不十分だったからだと。

獣神界としての四大王天

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1. 四大王天 、2. ナーガ(龍神)族の研究 に続く一連の考察の続き。 日本では基本的にナーガ(龍)を代表として取り上げるのが論じやすいが、ナーガ固有の話というよりは、ナーガを代表とする畜生系神獣(もちろんこの場合の「畜生」には人外という意味で人型ではあるものの夜叉も含む)に共通の話という部分が多いと思う。 四大王天は、現代的なネーミングで呼べば、「獣神界」とでも呼ぶべきものかもしれない。 現代に一般に伝わっている仏教の宇宙観とは違うかもしれないが、僕が独自に培ってきた仏教的宇宙観では、畜生界というものは水平の円盤状に四方に向って拡がっており、人間界と単純に同じ範囲の世界を共有しているわけではない。人間界の上下に存在する欲天・梵天界と餓鬼・地獄界とは、内外という形の相対的位置関係となっており、次元(軸)が異なっている。つまり、餓鬼・地獄界とは同じ悪趣ではあっても、下方世界の餓鬼・地獄界と、外方世界の畜生界という意味で、悪趣としての〝悪さ〟の性質が異なっているのである。 そしてこの「四方に拡がる」という性質が、四大王天の名前とそのまま結び付いているのである。単にスメル山の東西南北の山の斜面を表すのみならず、本来、この水平方向に円盤状に拡がる、自然・原始的な精霊世界のことを意味している。 仏典においても、神(デーヴァ)としての境地は、四大王天と三十三天は別々の境地としてはっきり区別されている一方、物理空間的には、同じ世界を共有している。同じスメル山の山頂と、東西南北の領域という、支配領域の違いにすぎない。そして、三十三天の王サッカは四大王を配下に従えており、さらに四大王は、それぞれ各方位で代表される畜生系神獣(ヤッカも含む)を配下に従えている。 そんなわけなので、四大王天というのは、基本的には、畜生系神獣たちの棲む霊的な世界と考えてよいだろう。そのトップで神獣たちを統括している四大王たち四大王天の神々自身は、(1)畜生ではなく人間系の神なのか、(2)それとも畜生たちの神レベルの存在が例外的に進化して人間系の姿や性質を備えるようになっているのか、どちらかわからないが、おそらく(1)であり、直接人間以外の畜生が神になることは通常は難しいだろう。しかし、人間であっても、無数の過去生においてナーガなどの畜生系の神獣であったことの影響によって、四大王天

四大王天

結局、四大王天と三十三天というのは、神としての存在の境地のレベルは異っているが故に、区別はされているものの、空間的には共通しているように思われる。人間界と畜生界が共通の物理世界を認識しているようなものである。 つまり、そこに棲む〝生ける者〟の違いには注目しないで、空間的に考えれば、同じ一つの場が舞台となっている。それは、スメル山と呼ばれる一つの霊的な富士山のような形をした巨大な山体である。頂上には三十三天の住まう領域があり、山体の東斜面がガンダルヴァの領域、北斜面がヤッカの領域、西斜面がナーガの領域、南斜面がクンバンダの領域となっている。ガンダルヴァ(鳥人)・ナーガ(龍人)・クンバンダ(魚人)は言ってみれば神獣の類であり、ヤッカは獣というより人型だがいわゆる鬼神であって、いずれも人外の魔物である。つまり場の観点からすれば、、三十三天も四大王天も、同じ一つのスメル山という場を、山頂セクターを区別して三十三天と呼び、東西南北のセクターをそれぞれ四大王天の各領域として認識している、セクター分けに過ぎないのである。 この霊的なスメル山は、おそらく、裾野の方で人間・畜生界の存在する物質的な地球と重なり合っており、地下にまで続いて行っている。そもそも、このスメル山の構造は、地球の北半球の物理的な構造に由来するものだと、僕は考えている。つまり、三十三天のある、スメル山頂というものは、物理的な北極点に由来するものだが、あくでも霊的な相対的な位置関係を意味するものなので、実際に地球上の北極点に行ったからといって、三十三天そのものに辿り着けるわけではない。 スメル山の裾野が物理的な地球の地下にやや入った地中に、ナーガの王国がある。一方、物理的な地球のやや上、樹木の高さのあたりに、ガンダルヴァたちが棲み、転輪山を囲む果てしない外洋の大海原の中にクンバンダが棲む。スメル山の北の裏側の影の領域にヤッカが棲む。 四大王とは? では、それら東西南北の各方位の神獣たちを支配する、四大王とは、何なのか? 以下は僕の〝未だかつて聞いたことのない〟勝手な思い付きなので、何の権威もない話だが、四大王たちが、ガンダルヴァ等の畜生系の神獣だという話は聞いたことがない。僕は、「彼ら四大王自身は、三十三天の神である」と思うのである。そしてむしろ、三十三天の王であるサッカに次ぐ、将軍が、この四大王たちな