宮崎正弘『明智光秀 五百年の孤独』
YouTube でたまたまこちらの動画 を見かけたのがきっかけで興味を持って読んだ、宮崎正弘『明智光秀 五百年の孤独』(徳間書店、2019)。 動画の印象では「織田信長によって日本がキリスト教化の危機にあり、それを憂えた明智光秀による義挙が本能寺の変の真相である」ということで、「明智光秀と反キリスト教化」「織田信長とキリスト教」を結び付ける説に新鮮味を感じたので、どういうことなのかと思ったわけである。 織田信長とキリスト教の関係 まず、「織田信長とキリスト教」の関係について。これは特に期待したようなものではなかった。織田信長がキリスト教に寛容だったことや、一方で一向宗や比叡山と対立していたことはなどは従来から知られている話である。信長は宗教に興味があったわけではなく、鉄砲等の実益からキリスト教の宣教師たちに寛容だっただけ。基本的にイデオロギーには無頓着な信長だっただけで、キリシタン大名のように、特に日本をキリスト教化しようと意欲していたわけでもない。動画の印象では、実は信長もキリシタン大名だったという隠れた事実を説いているのかと思ったが、実際はそうでもなく、著者の宮崎の説に何ら目新しいものはない。 著者の国粋主義的イデオロギーの明智光秀への投影 一方、著者の宮崎は、明智光秀の本を書いても、結局は著者自身は(保守右翼系の)イデオロギーの人である。明智光秀を国粋主義的イデオロギーの人として捉え、評価するというのがこの本の主旨と言っても過言ではないだろう。実際の明智光秀の歴史的考証が主旨というより、ともかく、明智光秀を通して国粋主義的イデオロギーを説くのが、この本の主旨のような印象を受けた。 つまり、信長は天皇を頂点とする日本の精神文化というイデオロギーに無頓着で、結局は、織田家の権力を伸張すればいいという感覚だった。しかしその一方で、キリスト教が日本人の精神に浸潤し、一方で万世一系の皇室がないがしろにされることに対しても、信長はこれといった禁忌感は抱く性質の人間ではなかったし、そのような危険人物であると、明智光秀や細川藤孝、公家・皇室は思った。であるから、暗殺・クーデター等の手段に訴えてでも、未然に阻止せねばならない。つまり、明智光秀の本能寺の変は、大塩平八郎や西郷隆盛に類せられる義挙であると。 つっこみどころ 宮崎は、義挙の人として...