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5月, 2024の投稿を表示しています

金田六氣(ロッキー)による原田龍二のタロット占い

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今回のニンゲンTVでは、中盤(5:34~)から、大久保駅界隈を行き当たりばったりで行き着いた占いコーナーの金田 六氣 ロッキー という手相占い師に占ってもらっている。YouTuber としても活動しており、カメラ慣れしているロッキーは、サブでタロット占いもできるようで、原田龍二と超時空さをぴは、それぞれ手相占いに引き続き、タロットでも鑑定を受けている(タロットは終盤 14:43~)。 ここで、どうもネガティブなカード展開となったのだが、ともかく 前向き ポジティブ 発言を心掛けるスピリチュアル系マインドの原田は、「思い当たる節がない」「僕(という人間)は(そもそも)理想(を持って何かを期待すること)がない(から特にトラブルはない)」とシラを切る。 ロッキーは当初、人間関係で誰かと上手く行っていないことを暗示しているのではないかと疑ったが、原田は「身に覚えがない」と答えるので、ニンゲンTVの YouTube チャンネル運営のことで、まだまだ現状に満足していない可能性について尋ねると、「それはあるかも」という形で一応締め括るが、どうも占っているロッキー自身が満足する鑑定に至っていないような表情である。 今回は、このロッキーのカード展開に基づいて、リーディング(鑑定)をハッキングしてみようと思う。プロの占い師のタロット鑑定を素人である僕が横からハックするというわけだが、(1)ロッキーは手相が本職で、タロットは余技に思われること(もちろん、プロの占い師なので、単なるタロット占いそのものではなく、コールドリーディングで不特定多数の客の実情に落とし込んでいく話術面と総合して間違いなく素人とは一線を画すプロ側の人間なのだと思うが)、(2)ニンゲンTVの動画を欠かさず視聴している僕の方がロッキー(彼もニンゲンTVはある程度知っていたようだが)よりも原田龍二の実情に詳しいので、より擦り合わせがしやすいということ。以上の 2 点から、敢えて試みる。 まず、プロ占い師であるロッキーのカード展開自体には、何の文句もないので、そのまま利用する: 金田 六氣 ロッキー が使っているタロットデッキは Liz Dean という人の“The Magic of Tarot”という本に付録のオリジナルデッキのようである( Amazon にも売っている)。 原田の鑑定で

大魔神と巨神兵 〜宮崎アニメの原風景〜

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角川の YouTube 公式チャンネルにて、期間限定(2024-05-20~2023-06-02)で『大魔神』(1966)が配信されていたので、改めて観てみた。 初めてこの作品を観た時は、当時の時代劇畑の人達が中心となって作られ、役者の演技の品の良さに衝撃を受けた。今の時代なら、こういった特撮モノの企画のスタート段階から子供向けのテレビ系の制作スタッフ・俳優陣によって作られるから、幼稚な、言ってみれば、戦隊ヒーローもののノリで、衣裳だけ時代劇風にしただけのコスプレ作品になるのがオチだろう。 そして今回の視聴は、2 度目の視聴になることもあり、冷静に、分析的に観ることができた。そして、〝瓢箪から駒〟というか、ひょんなことで、この作品が、宮崎アニメの創作上の源泉(アイデアのパクリ元)となっていることに気付いたのである。 以下、映画を既に観ていることを前提とする。 ジムシィそっくりの子役 汚ならしい身なりの貧民の子供・ 竹坊 たけぼう が登場するが、『未来少年コナン』(1978)の「ジムシィにそっくりじゃん!」と思ったのである(もちろん、ジムシィはキャラクター的には『トム・ソーヤーの冒険』のハックル・ベリーフィンが元ネタだが、ここでは見た目の印象に関してである)。そして、「あ、もしかして、大魔神って、宮崎駿の有力なパクリ元なんじゃないのか?」と思い始めたのである。僕は、ちょうど最近、『風の谷のナウシカ』のことについて色々と分析していたので、そのタイミングでそれとは無関係にたまたま観た『大魔神』が、宮崎アニメの琴線に触れるものを持っていることに、ハタと気付いたのである。 まあ、この程度なら、凡百のアニヲタが諸説、各人の思い込みを牽強付会する範囲に留まる。だが、これから挙げていくように、他にも証拠が複数見つけることができ、総合的に見て、かなり確実だと言えるのである。 巨神兵は大魔神が元ネタである で「匂うな」と思い始めて、ます最初に思い付くのが、この映画のそもそもの主役である大魔神という存在。宮崎アニメでいうと、これはもう、『風の谷のナウシカ』(1984)(原作は 1982-1994)の巨神兵しかない。 で、ここでも、「凡百のアニヲタの牽強付会の一つに過ぎぬ」と心中で反発する人もいると思うが、これにはトドメを刺す証拠がある。

やまけらし様

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山の神は 醜女 しこめ の女神とされることが多く、また 山姥 やまんば と同じものだと思われる。そう考えると、日本の山の神というのは、仏教で言うところの 神 デーヴァ というよりは、女の 夜叉 ヤッカ (英語で表現すると、オーガやトロールに当たる)であろう。彼女は、眷属として、子供のヤッカを伴っていることがあるようである。 動画 2 話目: 456:1/3:2010/10/25(月) 15:36:48 ID:oGdPkai/0 俺の家は物凄い田舎で、学校に行くにも往復12kmの道程を自転車で通わないといけない。 バスも出てるけど、そんなに裕福な家でもないので定期買うお金がもったいなかった。 学校への道はちょっと遠回りだけど街中を通る道と、若干近道だけど山越えをする道と2つあるんだが、俺は山越えで汗だくになるのが嫌だったのでほとんど街中のルートを通っていた。 ある日、学校の体育館で友達とバスケをしていて遅くなった俺は、早く帰ろうと自転車で山越えをしようとしていた。 街中に入る道と山道に入る道の分岐点にあるコンビニで飲み物を買って、いざ山越えに。 日が沈み始めた山道は結構不気味で、ひぐらしの鳴く声を聞くと心細くなってやけに不安になる。 戻って街中を通ろうかな…なんて思いつつガッシャンガッシャン自転車をこいでると急に 「も゛っも゛っも゛っ」 ていう表現しにいうめき声のようなものが聞こえ、その瞬間に何かが背中にドスッと落ちてきた。 上半身をグッと下に押し付けられるような感覚に襲われ、冷や汗とも脂汗とも言えない妙な汗が体中から噴き出してきた。 怖くて振り向けずにとりあえず峠を越えようとがむしゃらにこぎ続けてた。その間にも背中から 「も゛っむ゛む゛っ」 と変な声が聞こえている。 絶対変な物を背負ってしまった、どうしよう・・・と涙目になって自転車こいでたら上り坂の終わり、峠の中腹の開けた場所に出た。 息を切らしながら足をついて崖側の方に目を向けると、小さな女の子が居た。 457:2/3:2010/10/25(月) 15:37:39 ID:oGdPkai/0 夕日の色でよくわからなかったけど、白っぽいシャツの上にフードつきの上着とデニムスカートを穿いたセミロングの子。大体6~

神智学の元ネタを推理する

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神智学の 7 層構造のアイデア元 結局アイデア的には、カバラの「生命の木」が元ネタなのではないのかと思い付いた。もちろん、部分的に「カバラでは◯◯に相当する」などという説明のされ方は珍しくはない。神智学は、「あらゆる宗教のエッセンス」を標榜しているのだから、カバラに限らず、あれやこれやの宗教を引き合いに出すスタイルなのだから。そうではなくて、そもそもブラヴァツキーが『シークレット・ドクトリン』を著すにあたって、アイデアの骨幹的に「生命の木」の換骨奪胎がルーツになっているのではないのかということだ。 インターネットを探しても、「生命の木」と、神智学の体系を対応付けた神智学協会系の公式の資料というものは、見あたらなかったが、これはむしろ骨幹的な元ネタだけに、むしろブラヴァツキー自身によって、秘されていたのではないかと思う。大乗仏教の偽典のように、埋蔵経のような形式で、神秘めかした方が、権威を捏造できるからだ。 ブラヴァツキーが、マハトマ(クートフーミ大師とモリヤ大師)からの啓示という形式を用いていたこと、「マハトマ書簡」という、サイババのやり口のような手品を使った演出で印象操作をしていたことなど、彼女の顕示的な性格から、骨幹的なアイデアの元ネタを秘しても、不思議ではない。 神智学の 7 層構造と「生命の木」の 10 のセフィラとの対応付け 難しいのが、神智学は基本的に 7 層構造で体系付けられ、一方のカバラの「生命の木」は、10 のセフィラで構成されているという点である。 まず、最初に思い付くのが、3 + 7 = 10 ということである。セフィラの最上部の三角形=至高の 3 つ組(ケテル・コクマー・ビナー)を別枠で考えれば、残りは 7 である。この 7 が、神智学の「何でも 7 種類に分類する」ものと対応させられるのではないかと。 しかし、神智学の 7 層構造の上から 1 番目のアーディ界や、2 番目のアヌパーダカ界を、「生命の木」の 4 番目のセフィラ(ケセド)や 5 番目のセフィラ(ゲブラー)に割り当てても、全くしっくりこない。 そこでしばらく腕組みして「生命の木」を眺めていたのだが、セフィラの個数ではなく、縦方向の配置が、ちょうど 7 層構造になっていることに気付いた。これは、大発見である。上述したように、神智学で(ブラヴァツキー)は、7 層

チューラパンタカの白い布

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これまで、 中道に関する仮説 によって 七仏通誡偈を読み解いた が、今回はこれらの仮説に基く一つの適用例として、チューラパンタカ尊者のエピソード(において彼に示された仏陀の方便)について考察してみる。 兄からも見捨てられたと感じた弟は翌朝早く僧院を去ろうとした時、目の前に仏陀が現れ、純白の布地を手渡されたのである。そして「チューラパンタカよ、『塵垢の除去、塵垢の除去(rajoharaṇaṁ rajoharaṇan)』と唱えながらこの布で拭き掃除をはじめなさい」と仏陀は命じられた。チューラパンタカは仏陀の言葉に従い拭き掃除を始めた。やがて純白の布地が自分の汗や床の汚れなどによって汚れていくのを見て、「すべてのものは実に無常である!」と彼は生滅の真理を観たのである。 ウ・ヴィッジャーナンダ、北嶋泰観『パーリ語仏典 ダンマパダ』(ダンマパダを学ぶ会、2000-08-10)第 25 偈 このエピソードには、三蔵の版(ミャンマー版か、スリランカ版か、はたまた PTS 版かなど)によって若干のヴァリエーションがあるのか、元々断片的に要所(骨子)だけが言い伝えられていたことを、後世の註釈者が 行間を補って(肉付けして) 文章化したのであろうから、註釈者の見解による違いが影響することになるのは当然である。特に、白い布の扱いについて、上では「これで掃除しなさい」と言われているが、別の訳書では「布を自分の手で揉む」となっているものがある。 「チュッラパンタカよ、東の方に向かってこの布きれに『垢とり、垢とり』と言ってさわりながら、この場所にいなさい」と、神通力で作り出した清潔な布きれを渡し、約束の時間に僧団の修行僧たちにとりまかれてジーヴァカの家に行き、用意の座に坐られた。チュッラパンタカのほうは太陽を仰ぎつつ、その布きれに、 「垢とり、垢とり」と言ってさわりながら坐っていた。その布きれはかれがさわり続けているうちに汚れてしまった。そこでかれは考えた。 「この布きれはとても清潔であったが、この〔わたしの〕身体のために、以前の本性を捨ててこのように汚れてしまった。実に、つくられたものは無常なのだ」と。 中村元・監修『ジャータカ全集』(春秋社、1984-03)第 4 話(藤田宏達・訳) 僕の考察では、素直に、前者の「白い布で拭き掃除する

ダンジョンズ&ドラゴンズの 2 次元的キャラクター属性

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最近、実写化映画の第 4 作目(リブートとしては第 1 作目)が公開された『ダンジョンズ&ドラゴンズ』だが、マーベル・シネマティック・ユニバースや DC・エクステンディット・ユニバースのチープなクローンのような作りになってしまって残念だった。旧 3 部作が、直接・間接に 1 作目の監督・製作者である Courtney Solomons(2 作目は製作総指揮、3 作目は所有する After Dark Films を通じた配給権)の影響下にあって、作を進めるごとに確実にマイナー化していくのに反比例して、Dungeons and Dragons (aka. DnD) の実写映像化としてはグングン良くなっていった。つまり、ショービジネスとして敗北の道を辿りつつ、DnD というゲーム素材の実写化作品としては、どんどん良くなっていたのだが、製作する側としてはそんなつもりはなく、もっと儲けられる素材として捉えていたようで、著作権者である Wizards of the Coast の親会社の Hasbro が業を煮やしたのか、「儲かる」ポップな方向性でリブートさせた最新作だったのだろう。Box-office bomb とまではならなかったものの、期待されたほどの大した黒字ではなかったようだ。 最新作は、案の定、お安い「家族愛」を盛り込み、各年齢層用にキャラクターを一通り揃えた作りで、マクドナルドのハッピーセットのように企画されたものだった。しかし、DnD のファン層が、マクドナルドのハッピーセットに歓ぶ層ではない、例えば次郎系ラーメンを目指すようなオタク筋であったのが第 1 の敗因。しかしこれはおそらく製作者側もわかっていたことで、DnD のファン層向けに作っていたら、ショービズ的な儲けができないことは、旧 3 部作が示していたから、今回は敢えて、ショービズ的なファミリー層を狙って行くつもりだったのだろう。第 2 の敗因は、各年齢層用にキャラクターを一通り揃えたせいで、肝心の主人公の存在感が一番薄くなってしまったという点である。クリス・パイン演じるあの主人公の吟遊詩人は、単なるお安い「家族愛」要員としてしか、存在する意味がなかった。あいつは絶対に要らない。ミシェル・ロドリゲス演じる女バーヴァリアンの方がずっと少女に対する愛情がキャラクターとして演出されていた。役者の演技の問題

七仏通誡偈から読み解く戒・定・慧

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絶対苦(欲界) 絶対楽(中道) 色界・無色界 出世間 相対楽(欲天) 鎮伏解脱(梵天) 安息解脱(涅槃) 相対苦(悪趣) 戒 (諸悪莫作) 定 (衆善奉行) 慧 (自浄其意) 凡俗向け 善男女向け 出家修行者向け 諸悪莫作(戒) は、相対苦から相対楽へと向かうこと 衆善奉行(定) は、欲界から離脱・遠離・解脱すること 自浄其意(慧) は、欲界からの解脱を鎮伏(一時的なもの)ではなく、安息(恒久的なもの)にすること 1. 諸悪莫作(戒) 心が欲界に囚われている人(おそらく俗世間の一般の人々はこの状態)の場合は、(五)戒によって、最低限、他の存在に迷惑をかける相対的な悪を行なわないようにすることで、相対的な善の境地を確実にする努力をする(ことを、諸仏は勧めている)。 (個別人それぞれの波羅蜜等の特殊事情を除いた)一般論として、欲界に心が囚われている俗世間人が(欲界を脱した出家修行者向けに諸仏が説いている)「自浄其意」の真似事をすることは、無駄でもあるし、場合によっては弊害もあるだろう。 欲界というものは、別名「悪魔の領域」であり、ここで形だけ聖者の真似事をしても、〝妄想の中での悟り〟という思い込みだけが増大する事態に陥るのが関の山である(cf. 中部 25『餌食経』)。 そうではなかったとしても、大は小を兼ねるという考えで、本来は阿羅漢道のための修行法であるヴィパッサナー瞑想をしたとしても、「小中学校の算数も覚束無い人間が、大学受験用の数学にいきなり手を出す」ようなものである。努力が空回りして、何の悟りも得られずして挫折して人生を終える人が大半だろう。 2. 衆善奉行(定) 戒を無理なく守れる、〝善家の子女〟が、欲界からの離脱をする(ことを、諸仏は勧めている)。 「家」というのは欲界で暮らす状態を意味するから、「善家」というのは、欲界の善趣、つまり、欲天と人間界(の善い境涯)の者(善男女)を指す。 現代、色界・無色界の禅定の境地というものが、誤解・看過されている場合があるが、単なる「禅定」ではなく、あくまでも「色界・無色界の禅定」でないと意味がない。そこを見過して、単に禅定だと思っていると、「欲界禅定」に堕してしまう可能性が高い。 そんなわけだから、座禅瞑想して、集中し

デーモン化しつつある男

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半神半獣の牧神(デーモンの一種) Courtesy History of Science Collections, University of Oklahoma Libraries. 「サテュロス」「パン」「フォーン」などと呼ばれているが、いずれも半神半獣の姿をした牧神であり、同じものを指している。下半身が山羊で、上半身は人間だが、頭(額)には 2 本の角が生えている。 ちなみに、ディズニーアニメの『ピーターパン』もパンの一人であるが、パンとしての本来の姿を偽った、まるでエルフか何かのような人間的な姿で描かれており、『ピーターパン』のキャラクターイメージから、本来のパンの特性を逆に類推するのは適切ではないだろう(ピーターパンのキャラクターイメージは、あくまでもピーター個人の特長とすべきである)。 半「神」とはいっても、この場合の神は Demon(日本神道のアニミズムの神も基本はこれに類する)すなわち「鬼神」であり、一神教的な God(「天の父」的な絶対神)の系統ではない。 彼らは、その角笛で、牧羊などの家畜の群を煽り、パニック(まさしく「パン」を語源とする単語)に陥らせる。つまり、「群集心理を煽る」ことを性とする(cf. パーリ経典相応部の村長相応の『 2. ターラプタ(舞踊者)経 』)。 沖縄編で再び炎上するニンゲンTV ニンゲンTVが、沖縄のユタの霊場(修行場)である恩納村のアフシマノ嶽(SSS)で撮影した 動画 が炎上し、再編集を余儀なくされ、公開延期の事態となった(→ ニンゲンTV「 沖縄編一時休止のお知らせ 」2024-05-03)。 ユーザーのコメントにも見られるように、「神島編」以来の〝やらかし〟との呼び声も高い。 「神島編」においても、今回の「沖縄編」においても、いずれも〝やらかし〟の中心にいた人物。それがデビルマンならぬアマノマン──天野D──ニンゲンTVのチーフディレクターである(ニンゲンTVには他に 2 人のディレクターの肩書を持つ人たちがいるが、小山Dなどはカメラマンとしての仕事が主であり、おそらく天野Dこそがチーフとして、主導的にディシジョンメイクしている存在であろう)。 やらかし 1:米軍基地の存在に苦しみ続ける沖縄で、よりによって米軍ジャケットを販売する古着マニアの天野D この