七仏通誡偈から読み解く戒・定・慧

絶対苦(欲界)絶対楽(中道)
色界・無色界出世間
相対楽(欲天)鎮伏解脱(梵天)安息解脱(涅槃)
相対苦(悪趣)

(諸悪莫作)

(衆善奉行)

(自浄其意)
凡俗向け善男女向け出家修行者向け
  1. 諸悪莫作(戒)は、相対苦から相対楽へと向かうこと
  2. 衆善奉行(定)は、欲界から離脱・遠離・解脱すること
  3. 自浄其意(慧)は、欲界からの解脱を鎮伏(一時的なもの)ではなく、安息(恒久的なもの)にすること

1. 諸悪莫作(戒)

心が欲界に囚われている人(おそらく俗世間の一般の人々はこの状態)の場合は、(五)戒によって、最低限、他の存在に迷惑をかける相対的な悪を行なわないようにすることで、相対的な善の境地を確実にする努力をする(ことを、諸仏は勧めている)。

(個別人それぞれの波羅蜜等の特殊事情を除いた)一般論として、欲界に心が囚われている俗世間人が(欲界を脱した出家修行者向けに諸仏が説いている)「自浄其意」の真似事をすることは、無駄でもあるし、場合によっては弊害もあるだろう。

欲界というものは、別名「悪魔の領域」であり、ここで形だけ聖者の真似事をしても、〝妄想の中での悟り〟という思い込みだけが増大する事態に陥るのが関の山である(cf. 中部 25『餌食経』)。

そうではなかったとしても、大は小を兼ねるという考えで、本来は阿羅漢道のための修行法であるヴィパッサナー瞑想をしたとしても、「小中学校の算数も覚束無い人間が、大学受験用の数学にいきなり手を出す」ようなものである。努力が空回りして、何の悟りも得られずして挫折して人生を終える人が大半だろう。

2. 衆善奉行(定)

戒を無理なく守れる、〝善家の子女〟が、欲界からの離脱をする(ことを、諸仏は勧めている)。

「家」というのは欲界で暮らす状態を意味するから、「善家」というのは、欲界の善趣、つまり、欲天と人間界(の善い境涯)の者(善男女)を指す。

現代、色界・無色界の禅定の境地というものが、誤解・看過されている場合があるが、単なる「禅定」ではなく、あくまでも「色界・無色界の禅定」でないと意味がない。そこを見過して、単に禅定だと思っていると、「欲界禅定」に堕してしまう可能性が高い。

そんなわけだから、座禅瞑想して、集中していくこと、恣意的に作り出す状態だと思っていたら、多くの人々は単なる「欲界禅定」を作っているだけだろう。

そうではなく、欲界からの遠離・離脱によって達するのが、「色界・無色界の禅定」である。この状態によって苦(絶対苦)を超克しようとすることから、中道とも呼ばれる。

正覚仏の出現前のジャータカの菩薩たちは、出家修行者として生涯を終えると、梵天界に赴く。これは欲界から離脱していたからである。ただし、これは鎮伏解脱なので、梵天界での寿命が尽きると、再び欲界に戻ってきて、輪廻は続く。また、釈尊の無色界瞑想の師であった、アーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタたちもやはり、このような中道の境地には達していた(cf. 中部 26『聖求経』)。彼ら(ジャータカの菩薩や無色界瞑想の師たち)は中部 25『餌食経』における〝第 3 の鹿の群〟で喩えられている。

3. 自浄其意(慧)

中道にあり、欲界から離脱している出家修行者が、色界禅定下において、ヴィパッサナーによって、潜在煩悩(渇愛)を根こそぎにする(ことを、諸仏は勧めている)。つまり、ヴィパッサナー瞑想は、阿羅漢道向けに説かれたものである。

渇愛は、潜在している煩悩であるから、欲界に在る者に見ることはできない。釈尊は、中道(色界禅定)によって、〝眼が生じ〟、〝家の作り手〟(=渇愛)を見破ることができた(ダンマパダ 153~154 偈)のである。

つまり、サマタヴィパッサナーと併置して呼んだりして、誤解が生じる元となっているが、これら二者は対立するものではなく、色界禅定の状態こそ、観を可能にする状態であり、両者は表裏一体の関係となって(中道を成して)いるのである。対立関係にあるのは、欲界禅定と観の間についてである。


欲界からの離脱

じゃあ、「欲界からの離脱」のために色界禅定って「どうすればいいの?」という風に考えるかもしれないが、先述したように、基本的には、そのように恣意的に「作り出す」状態ではないと考えるべきである。そのような左脳的短絡思考の人は、基本的に、欲界に心がバリバリに囚われている傾向の人である。〝悪魔の領域〟(掌の上)で踊らされるのがオチであろう。

多分、色界禅定と言うと、「四無量」いわゆる「慈悲喜捨の瞑想」を思い浮かべる人も少なくはないだろう。もちろん、結果的に、四無量の禅定状態に達しているのであれば、問題はない。だが、四無量「のつもり」で慈悲喜捨をテーマにして瞑想したからといって、それが本当に四無量の禅定状態に達するということとは、別問題である。それも、欲界にいる人は常に、〝悪魔の領域〟(掌の上)で踊らされるリスク下にある。

中部 127『アヌルッダ経』で示されているように、「無量」でない場合は、それは「大いなる」禅定と呼ばれるもので、(限定され、汚染された)欲界禅定となることが示唆されている。単に慈悲喜捨のフレーズを唱えるだけの形式的な「のつもり」瞑想の場合、大いなる心解脱=欲界禅定となる可能性を潰し切ることはできないだろう。

そもそも、転法輪経や四聖諦に、四無量(慈悲喜捨の瞑想)は説かれておらず、身受心法(四念処)も、正知(実況中継)も、説かれてはいない(だが、コンダンニャ・サーリプッタ・モッガラーナの各長老は、「生者必滅」の感興偈を口にし、預流果に達したのである)。そこに説かれているのは、四聖諦と中道である(cf.「転法輪経の中道」)。

このことに関する大きなヒントは、初転法輪によって預流果に達した五比丘に対して、さらに阿羅漢道のために説かれたとされる、『無我相経』の教説である。この経こそが、主に、七仏通誡偈の「自浄其意」(三学の「慧学」)に対応する内容である。

五蘊のそれぞれに対して、無常なものに対する取(欲取・慢取・見取)によって苦をもたらしており、非我化することによって取を解消している。

つまり、『無我相経』はいわゆる三法印「無常・苦・無我」が釈尊の教説において最初に登場した重要経典であり、その上その 3 者の関係を端的に示していることになる。

四聖諦で言われている通り、取は苦そのものであるが(苦諦)、取の(外)縁となっているのが無常であり、(内)因となっている渇愛(集諦)が我、ということなのである。

当然、『無我相経』で説かれているのは、我からのアプローチで、非我化することで苦因である「渇愛を滅ぼす」という、正断解脱としてのヴィパッサナーを説くものである。

苦の縁である「諸行の無常性」から取を解消しようとするアプローチも可能だが、こちらは正断解脱にはならず、鎮伏解脱となる。無常を実況中継して「今、ここ」を見るという、正知による瞑想は、主にここに脚光を当てたものと思われる。

もちろん、苦諦的な(外)縁に対するアプローチにしても、集諦的な(内)因に対するアプローチにしても、いずれも中道なのである。そもそも、今現在、欲界に心を囚われている人が、いきなり、ヴィパッサナー瞑想をしようとしても、失敗する蓋然性が高い。鎮伏解脱により、まずは色界禅定の状態を確保してからでないと、どの道、集諦レベルの、潜在煩悩を扱うヴィパッサナー瞑想による正断解脱にはならないのだ。

中道というのは、そのように、鎮伏解脱から正断解脱へとシームレスに移行する道のことである。

また、四念処は、身受心法のうち、身随観(身不浄)・受随観(一切皆苦)・心随観(諸行無常)は鎮伏解脱に対応し、法随観(諸法無我)は正断解脱に対応しているものと思われる。身(色蘊の生老病死)は欲取、受(受蘊の愛別離・怨憎会)は見取、心(行蘊の求不得)は慢取に関係し、法(想蘊・識蘊)は非苦非楽の潜在煩悩(渇愛)に関係しているものと思われる。このように、『四念処経』は『無我相経』を念処(禅定の場合の業処のようなもの)の観点から再構成したものであるという見方ができる。

つまり、中道の観点からは、いずれを選んでも間違ってはいないものの、欲界に囚われている人が、いきなり阿羅漢を目指すような真似(七仏通誡偈の「自浄其意」=三学の「慧学」に相当するヴィッパッサナー瞑想)は避けるという意味で、集諦(渇愛の非我化)や法随観は、後回しにするべきである。べきであるし、そもそも背伸びをしたがる心理は、〝悪魔の領域〟(掌の上)で踊っている可能性が高い。

欲界に心が囚われている人のタイプは、欲取(貪)・慢取(瞋)・見取(痴)の 3 種があるので、それぞれに合わせた念処を非我化するアプローチで、まずは「鎮伏解脱による色界禅定」という地歩を固めるのがいいと思う。善人であれば、欲取は地居天に、慢取はマノーパドーシカに、見取はキッダーパドーシカに赴く性向がある。しかし、欲界に囚われているのに、阿羅漢道の真似事をする増長慢に陥いる場合、悪魔に踊らされて、下手をすると却って悪趣に堕ちかねないので、ともかくは「鎮伏解脱による色界禅定」という地歩を固めるべきだろう。

つまり、「座禅して、瞑想して」という固定観念で、恣意的な意識を作ろうとするのではなく、四念処のうちの身・受・心という、日常生活の(正業)、そして人生の中での(正命)、置かれた状況において(正精進)、欲取・慢取・見取から生まれる苦、相対的な苦ではなく、絶対的な苦(苦諦の苦)を、「苦諦のそれである」とキャッチし(正念)、全身で受け止める(正定)。絶対的な苦(正見)として受け止められた場合は、遠離する。遠離して、色界禅定を得る(正思)。対して、相対的な苦(邪見)として受け止めている場合は、当然、遠離しないので、欲界の内側に留まり、相対的な苦に対する瞋恚と、相対的な楽に対する貪欲を募らせるのみである(邪思。cf. 相応部受相応 36-6『矢』「比丘たちよ、なぜなら、その聞をそなえていない凡夫は、欲楽の他に苦受の出離を知らないからです」)。

これが「欲界からの離脱」ということである(正語)、というのが僕の仮説である。

(四聖諦の道諦=八正道というものは、「(涅槃解脱のための)手段」ではなく中道の「段階」を示しているというのが、僕の仮説であるが、それについてはまた別の機会に譲ることにする)

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