大魔神と巨神兵 〜宮崎アニメの原風景〜

角川の YouTube 公式チャンネルにて、期間限定(2024-05-10~2023-05-24)で『大魔神』(1966)が配信されていたので、改めて観てみた。

初めてこの作品を観た時は、当時の時代劇畑の人達が中心となって作られ、役者の演技の品の良さに衝撃を受けた。今の時代なら、こういった特撮モノの企画のスタート段階から子供向けのテレビ系の制作スタッフ・俳優陣によって作られるから、幼稚な、言ってみれば、戦隊ヒーローもののノリで、衣裳だけ時代劇風にしただけのコスプレ作品になるのがオチだろう。

そして今回の視聴は、2 度目の視聴になることもあり、冷静に、分析的に観ることができた。そして、〝瓢箪から駒〟というか、ひょんなことで、この作品が、宮崎アニメの創作上の源泉(アイデアのパクリ元)となっていることに気付いたのである。

以下、映画を既に観ていることを前提とする。

ジムシィそっくりの子役

汚ならしい身なりの貧民の子供・竹坊たけぼうが登場するが、『未来少年コナン』(1978)の「ジムシィにそっくりじゃん!」と思ったのである(もちろん、ジムシィはキャラクター的には『トム・ソーヤーの冒険』のハックル・ベリーフィンが元ネタだが、ここでは見た目の印象に関してである)。そして、「あ、もしかして、大魔神って、宮崎駿の有力なパクリ元なんじゃないのか?」と思い始めたのである。僕は、ちょうど最近、『風の谷のナウシカ』のことについて色々と分析していたので、そのタイミングでそれとは無関係にたまたま観た『大魔神』が、宮崎アニメの琴線に触れるものを持っていることに、ハタと気付いたのである。

まあ、この程度なら、凡百のアニヲタが諸説、各人の思い込みを牽強付会する範囲に留まる。だが、これから挙げていくように、他にも証拠が複数見つけることができ、総合的に見て、かなり確実だと言えるのである。

巨神兵は大魔神が元ネタである

で「匂うな」と思い始めて、ます最初に思い付くのが、この映画のそもそもの主役である大魔神という存在。宮崎アニメでいうと、これはもう、『風の谷のナウシカ』(1984)(原作は 1982-1994)の巨神兵しかない。

で、ここでも、「凡百のアニヲタの牽強付会の一つに過ぎぬ」と心中で反発する人もいると思うが、これにはトドメを刺す証拠がある。

原作の巨神兵の名前は「オーマ」。その名の由来は、そう、この大魔おおま神であった! 宮崎駿が「見破れるものなら見破ってみよ」と、天才的泥棒パクリストであるルパン 3 世のように、わざわざ銭形のとっつぁん宛てに残してくれた犯行パクリ声明というか手掛りというわけだ。

宮崎ヒロインの元型がここに!

この『大魔神』という作品は、善人側の登場人物たちが恐ろしく無能・軟弱であり、悪人であるが有能な左馬之助さまのすけを成敗するのに何の活躍も見せていない。全面的に大魔神の力に依存している。おおよそ、昨今のファンタジーものには、考えられないようなストーリー展開に思われる。

ただ、この大魔神への依存劇に関して、ヒロインの小笹こざさだけが、圧倒的な存在感を放っている。彼女の涙によって、大魔神は山から飛び出して、左馬之助の砦で処刑されかかっている小笹の兄の忠文ただふみと側近の小源太こげんたを救出するのである。元はと言えば、左馬之助の家臣である軍十郎が山に登って大魔神の像を破壊しようとしたので、天変地異により軍十郎たちを殺したが、そのままではそれだけあった。小笹が涙を流し、その命を捧げてまで大魔神に願おうとしたので、大魔神は動き出したのである。

また、ラストシーンにおいても、暴走する大魔神をなだめて山に帰らせたのも、小笹の涙とその命を投げ出そうとする行為だった。

このヒロインの思いが、大魔神のような人外のものをも動かすという発想は、宮崎駿のヒロイン像のルーツであろう。『大魔神』の小笹のようなヒロインを描きたい! それが宮崎アニメの創作の原動力ではないのか。

『未来少年コナン』(1978)のラナも、彼女が祈ると、それがコナンに通じ、コナンは超人的な身体能力を発揮して、彼女を救出する(また、ラナはカモメたちとも心を通じることができる)。

『ルパン 3 世 カリオストロの城』(1979)のクラリスも、囚われて泣くことくらいしかできないが、そんな彼女をルパンが「空を飛んで」救助する。

『となりのトトロ』(1988)のトトロは、泣くさつきに応えて、彼女に力を貸す。

このように、初期宮崎アニメのヒロイン像の黄金パターンが、この『大魔神』のヒロイン小笹に、そのルーツを見出すことができるのである。

小笹も、ラナも、クラリスも、さつきも、皆、受動的で、祈ったり、泣くくらいしかできないヒロインたちだが、では、〝闘うヒロイン〟ナウシカの場合はどうだろうか? 彼女にも『大魔神』のヒロイン小笹の影響は見られるのか?

大魔神と小笹の関係は、そのまま、巨神兵オーマとナウシカの関係と一致している。オーマは、ナウシカだけがコントロールすることができるという意味で小笹と同じ立場にあるし、また、ナウシカはオーマを操って、シュワの墓所を破壊する。つまり、小笹の願いで大魔神が城を破壊して暴れるのと、全く同じ構図である。

劇場版『風の谷のナウシカ』のルーツは大魔神

物語の序盤、『大魔神』では、地元の人々は山の神(大魔神)を怖れ敬い共存している。これは、『風の谷のナウシカ』で、風の谷の人々と腐海(王蟲)との関係と同じである。

そして、『大魔神』では、他所者である左馬之助らの一党が、信頼を裏切って、領主(花房忠清)を殺し、城を乗っ取る。同様に『風の谷のナウシカ』では、トルメキア軍が、盟約を裏切って、族長ジルを殺し、城を占領する。それぞれ父を殺された領主・族長の娘であるヒロインの姫様が、小笹であり、ナウシカである。

侵略者である『大魔神』の左馬之助一党にしても、『風の谷のナウシカ』のトルメキア軍にしても、地元の人々の意見を軽視し、山の神(大魔神)や腐海(王蟲)を怒らせ、壊滅的な打撃を受けることになる。

このように、両作品において、ストーリーの流れが構造的に同じである。ナウシカのキャラクターについて平安時代の虫愛づる姫から着想を得たとか、ギリシャ神話から名前を取ったとか、そういった断片的な話は、むしろ宮崎駿の教養高さを飾る指輪やネックレスのような情報だが、ストーリー構造面で、端的にどのような先行作品が大いに参考されたのかについては、宮崎駿やジブリは自ら公にしたがらないように思われる。

先述のように、大魔神は、ヒロイン小笹の涙と挺身(大魔神に命を捧げようとする行為)がトリガーとなって、召喚され、帰還する。よくありそうなチープな物語設定だと、「純真な心」を称賛する設定をし、小笹のような可憐な姫君ではなくとも、幼い子供であれば「心が純真なので味方する」という設定になるが、この『大魔神』の 1 作目では、そうはなっていない。あくまでも、お姫様である小笹だけが特別な存在なのであり、子供の竹坊がお願いしても、大魔神は聞き入れず、踏み潰そうとするのである。

ここで、やっと心霊トピックにも絡んだ話になるが、要するに、小笹は、大魔神を召喚・帰還させるに足る、〝生贄の処女おとめ〟なのである。単に、肉体的に処女であれば他の村娘でも誰でもいいという話でもなく、おそらく、霊的な純粋さが関係している。つまり、小笹は一種の巫女や霊能者としての資質がある、特別な存在なのである。

そう、つまり、この小笹の設定がルーツとなっているわけだから、宮崎アニメのお姫様ヒロインたちの設定でもあることになる。

大魔神は、そもそもが人外の魔神であるために、たとえ小笹が召喚に成功したといっても、そう簡単に御せるものではない。これは「心霊あるある」だろう。相手は神なのだから、人間の下僕になどなるはずがないのだ。大魔神は、神婚により、小笹を嫁(巫女)として受け入れたので、自分の嫁(の係累である兄を含む)を守るために暴れたのである。だから、敵である左馬之助側の人間だけを殺して、そうではない町人を殺さないなどといった、人間側の細かい事情など、知ったことではない。別に正義の味方ではない(幼稚な子供向けヒーローものではない)のだ。自分の嫁を守るという、個人的理由で動いているだけである(ここが、ヒーローものの作品に通暁する偽善性がなくてむしろ良い)。──そうして、暴走が始まる。

大魔神を演じた橋本力は、目をカッと開けたまま演技したので、充血して眼が真っ赤になったという。この設定が、『風の谷のナウシカ』において、王蟲が怒ると眼が赤くなり、普段は思慮深い性質なのに、怒りに我を忘れると、暴走して森を出て死ぬまで暴走が止まらない、という大海嘯の設定のルーツとなっている。つまり、大魔神は、巨神兵のみならず、王蟲の設定(もちろん、大元は『デューン』のサンドワーム、見た目はモスラに由来するが)にも取り入れられているのである。

さらに、王蟲のこの性質は大魔神が元ネタなので、暴走が始まると、話が通じなくなる。だから、劇場版において、ナウシカは、自分の命を挺して、王蟲に跳ね飛ばされ、(一旦)死ぬことによって、暴走を止める。『大魔神』で、ラストにおいて、小笹が、大魔神に踏み潰されそうになる竹坊をかばって身を投げ出すエンディングと同じパターンを踏襲したのである。

宮崎アニメのヒロイン=神に嫁した巫女

つまり、宮崎アニメのヒロインたちの〝キャラ立ち〟の秘密は、単に彼女らがお姫様的なキャラクター設定というだけでなく、心霊的な意味で、巫女として、人外の魔物(それも魔神級のとてつもない化け物)と(彼らの霊的な嫁になる等することで)心を通じる、霊能的な特殊性にあったということになる。ナウシカが、王蟲たちと心を通じることができるだけでなく、巨神兵オーマとも心を通じることができたのは、要するに、彼女が霊能力者だったからである。『風の谷のナウシカ』は、表面的には SF の皮を被ってはいるものの、ナウシカというのは要するに霊能力者なのである(同様のことが、『機動戦士ガンダム』(1979)にも言えて、『未来少年コナン』のテレパシー少女ラナがルーツとなるヒロイン・ララアと主人公アムロが繰り広げるニュータイプ同士の戦闘は、実際のところ、霊能力を駆使した戦闘なのである。つまりニュータイプというのは霊能力者に他ならない)。

そんな宮崎アニメのヒロインは、一般人としては幸せにはなれない宿命さだめにある。神に操を捧げたわけだから、人間の男と結婚する普通の幸せを得ることはできない。これもまた「心霊あるある」の話で、男女を問わず神霊と深い仲になった場合によく言われることである。例えば、原作版の『風の谷のナウシカ』ではナウシカはアスベルと結ばれる流れになることはなく、森の人たちに同行して腐海の奥に去って行く。ナウシカは森(腐海)に捧げられた〝生贄の処女おとめ〟なのだから。

『大魔神』のヒロイン小笹も、おそらく、兄の忠文は無事に家を再興してお殿様となったのであろうが、彼女の方はそのまま生涯結婚せず、信夫しのぶの跡を継いで、大魔神に仕える巫女となったのではないかと思われる(そうしないと、「私の命を捧げます」と言った約束を反故にしたということで、再び大魔神の怒りを買いかねないし、誰より小笹自身がそのように考えて、率先して巫女となる生涯を選んだものと思われる)。

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