チューラパンタカの白い布

これまで、中道に関する仮説によって七仏通誡偈を読み解いたが、今回はこれらの仮説に基く一つの適用例として、チューラパンタカ尊者のエピソード(において彼に示された仏陀の方便)について考察してみる。

兄からも見捨てられたと感じた弟は翌朝早く僧院を去ろうとした時、目の前に仏陀が現れ、純白の布地を手渡されたのである。そして「チューラパンタカよ、『塵垢の除去、塵垢の除去(rajoharaṇaṁ rajoharaṇan)』と唱えながらこの布で拭き掃除をはじめなさい」と仏陀は命じられた。チューラパンタカは仏陀の言葉に従い拭き掃除を始めた。やがて純白の布地が自分の汗や床の汚れなどによって汚れていくのを見て、「すべてのものは実に無常である!」と彼は生滅の真理を観たのである。

ウ・ヴィッジャーナンダ、北嶋泰観『パーリ語仏典 ダンマパダ』(ダンマパダを学ぶ会、2000-08-10)第 25 偈

このエピソードには、三蔵の版(ミャンマー版か、スリランカ版か、はたまた PTS 版かなど)によって若干のヴァリエーションがあるのか、元々断片的に要所(骨子)だけが言い伝えられていたことを、後世の註釈者が行間を補って(肉付けして)文章化したのであろうから、註釈者の見解による違いが影響することになるのは当然である。特に、白い布の扱いについて、上では「これで掃除しなさい」と言われているが、別の訳書では「布を自分の手で揉む」となっているものがある。

「チュッラパンタカよ、東の方に向かってこの布きれに『垢とり、垢とり』と言ってさわりながら、この場所にいなさい」と、神通力で作り出した清潔な布きれを渡し、約束の時間に僧団の修行僧たちにとりまかれてジーヴァカの家に行き、用意の座に坐られた。チュッラパンタカのほうは太陽を仰ぎつつ、その布きれに、

「垢とり、垢とり」と言ってさわりながら坐っていた。その布きれはかれがさわり続けているうちに汚れてしまった。そこでかれは考えた。

「この布きれはとても清潔であったが、この〔わたしの〕身体のために、以前の本性を捨ててこのように汚れてしまった。実に、つくられたものは無常なのだ」と。

中村元・監修『ジャータカ全集』(春秋社、1984-03)第 4 話(藤田宏達・訳)

僕の考察では、素直に、前者の「白い布で拭き掃除する」という平易な話であるとして、解釈することにする。後者はあまりにも意味不明すぎ、後の禅宗の禅問答のように奇をてらい過ぎた感があり、史実の生身の釈尊ゴータマ仏陀のスタンスとは、乖離している気がするからである。

中道仮説からの「拭き掃除」の解釈

修行がはかばかしく進まず、見兼ねた兄(マハーパンタカ)から還俗を勧められていたチューラパンタカは、食事の布施の招待からも外されて落ち込み、本当に還俗しようかと思うところまで行っていた。

その彼に、釈尊は、白い布を(懐から)取り出し、それで(精舎を)拭き掃除するという役目を与える。僕は「これで、その日の、他の比丘たちが食事の布施に外出中に、一人で悟って阿羅漢果まで至った」というのは註釈者による伝説化(骨子に対する肉付け部分)だと思うが、実際のところは、おそらく元々、最初の入団テスト時に、あまり才覚がないと判断されていた彼に、「拭き掃除」という沙弥か寺男のような役目を与えて、釈尊が留め置き、彼に最低限の居場所を確保したというようないきさつだったのだろうと思う。

ただ、もちろん、周囲の比丘たちの目には、そのように映ったのだが、釈尊は、そこ(白い布の拭き掃除)に(チューラパンタカ仕様の)方便も含ませていたのだ。

精舎の汚れを拭いて掃除するというのは、外的な世界(欲界)の問題(苦)を片付けようとすることで、これは我々俗世間人の生き方である。相対的な苦を、相対的な楽で解消しようと四苦八苦して人生を続けていき、続ければ続けるほど、老いて時間は経過する一方で、絶対的な意味で人生の苦は強まっていく。これが欲界という絶対苦の世界であり、それに対して、釈尊は、苦楽中道、欲界から離脱して絶対的な楽(涅槃)へと行く道を転法輪経で説かれたのである、というのが僕の中道仮説であった。

中道仮説的な視点でこのチューラパンタカの「白い布」の方便を捉えてみれば、つまり、平易に「拭き掃除する」ということで、何ら問題はないのである。彼、チューラパンタカは、精舎の汚れを、布で拭き取っては、水で洗い流し、拭き取っては、水で洗い流しという形で、普通に掃除していたはずである。汚れを取るために、布を使うのだから、その布は汚れに塗れて当然である。だが、洗い流せばよい。それが掃除というものである。チューラパンタカ尊者が、その程度のことの理解力もないと思って、「布を指で揉んで、その指の手垢で汚れて、それを見て無常を悟る」という別ヴァージョンの肉付けは、あまりにも飛躍しており、尊者に対してむしろ失礼だろう。

だが、何度も何度も、拭き掃除しつつ、水洗いしているうちに、完全には汚れは取れず、白い布は徐々に灰色に黒ずんでくるだろう。

これこそが、釈尊が、転法輪経で、中道の説明として説いた、苦諦(欲界の苦)に対する集諦(苦の因である渇愛)の部分なのである。つまり、潜在煩悩(渇愛)の存在なのだ。

だから、コンダンニャ長老は、「生者必滅」の感興偈を口にして、釈尊に「悟った」と認められたし、同じパターンは、サーリプッタ長老・モッガラーナ長老の(預流果の)悟りにおいても見られる。つまり、釈尊は「このものの見方(フレームワーク)が、仏教なのだ」と、まずはそれに気付くことが、(預流果の)悟り、正見を得ることだと述べているのである(ここには、八正道だとか四念処だとかは登場しない)。

つまり、チューラパンタカも、「白い布による拭き掃除」の方便で、そのような欲界の相対的な苦楽(=精舎の拭き掃除)と、潜在的な煩悩(渇愛)(=白い布の黒ずみ)という形で、苦諦と集諦という 2 軸の構図(苦楽中道)をよく悟ったのだ。

「拭き掃除」にしても「指揉み」にしても、布の汚れていく様から「無常を悟った」としている点は同じだが、そもそも簡単な四行句すら覚えられない彼が、「この布きれはとても清潔であったが、この〔わたしの〕身体のために、以前の本性を捨ててこのように汚れてしまった。実に、つくられたものは無常なのだ」という抽象的・哲学的思考を行って、悟った、というのは尚更無理がある。

ほぼ同じ意味ではあろうが、「無常」と言ってしまうよりは、チューラパンタカも「生者必滅」に類することを悟ったと考えた方がいい。「苦因である渇愛の有無により、苦が生滅するんだなあ」といった意味であって、そうではない単に一般論(客観的事実)として「あらゆるものは無常である」という表現では、生滅の因果関係が無視されており、四聖諦的にそこがわかっているのかわかっていないのかが、判然としない。

預流果に悟った後のチューラパンタカ

招待主ジィーヴァカの所におられた仏陀は、この弟子の悟りを察知されるや神通力をもってあらわれ、次の詩偈を唱えられたのである。

塵ではなく、正しく言えば『貪』が不浄である。不浄を正しく言い当てる言葉は貪欲である。比丘たちよ、汝自身の[貪欲という]不浄を取り除くのだ。そして不浄から離れた[仏陀が]教えた正しい生活を送るのだ。

塵ではなく、正しく言えば『瞋』が不浄である。不浄を正しく言い当てる言葉は怒りである。比丘たちよ、汝自身の[怒りという]不浄を取り除くのだ。そして不浄から離れた[仏陀が]教えた正しい生活を送るのだ。

塵ではなく、正しく言えば『痴』が不浄である。不浄を正しく言い当てる言葉は愚痴である。比丘たちよ、汝自身の[愚痴という]不浄を取り除くのだ。そして不浄から離れた[仏陀が]教えた正しい生活を送るのだ。

この説法によってチューラパンタカは阿羅漢果を得た。

ウ・ヴィッジャーナンダ、北嶋泰観『パーリ語仏典 ダンマパダ』(ダンマパダを学ぶ会、2000-08-10)第 25 偈

これ(説法で即、阿羅漢果)も伝説化された肉付け表現ではないかと思う。実際には、沙弥・寺男として拭き掃除を通じて(苦楽中道というフレームワークを正しく理解(正見)して)預流果に至ったチューラパンタカに、次に釈尊は、阿羅漢道的な教えを指導したのだという流れを示しており、これは五比丘に対して、転法輪経 → 無我相経という 2 段階構成で教えを示した場合と同様である。

チューラパンタカが考えたこと

再び、白い布が薄汚れていくのに注目したチューラパンタカが、その時考えた(であろうと思われる)ことに戻る。彼は、「無常である」などと抽象的な哲学的な思考をしたわけではない。居場所を失い、失意のどん底にいた彼に、お釈迦さまが直々に掃除係としての役目を与え、彼は喜び溢れて日々、精舎の掃除に励んでいたのである。

白い布は、何度も水洗いするうちに、薄汚れてくる。これもまた、至極当然といえば当然である。彼も一回では、それに着目しなかったかもしれない。お釈迦さまに代えの新しい白い布をもらうことも何度かあったのではないか。

しかしある時、彼は気付いてしまったのである。その布が、人の心と同じであることを。人は欲界の日常に埋没しているうちに、潜在煩悩で心が汚れ、渇愛が蓄積されていくのだということを。その薄汚れていく布と同じに。

そこで、釈尊が、法話で様々に自性などによって表現して説いている趣旨が、彼にはみるみる理解できるようになっていったのである。釈尊が説くのは、「布を汚れさせないためにはどうすればいいか」ということだと。

そしてチューラパンタカはやがて漏尽(心に汚れが流入しない状態)に至った。

釈尊の方便

だが、チューラパンタカが「たまたま」悟ったというわけではなく、釈尊が方便として仕掛けたものであったことは、単に「掃除をするように」と言ったわけではなく、「汚れよ落ちろラジョーハラナン汚れよ落ちろラジョーハラナン」と、このあまりにも有名なフレーズを唱えさせたことにある。そのようにして、生きとし生けるものは、(相対的な)苦を(相対的な)楽で解消しようとしているのだ、という欲界のあるがままの姿の暗示なのだから。

また、釈尊は、掃除によって、七仏通誡偈の最終段階である「自浄其意」に相当することを、チューラパンタカにさせたことにもなる。逆に言えば、彼に対しては、第 1、第 2 の段階の「諸悪莫作」「衆善奉行」に相当する部分は、特に強調する必要がなかったことを意味する。だから、(大乗仏教の連中のように)チューラパンタカ尊者を見下して考える者は、「彼でも悟れたのだから」と、自分も、「ラジョーハラナン、ラジョーハラナン」と念仏・題目のようにして唱えて拭き掃除でもして無念無想になろうとすれば、効果があるんじゃないかと、左脳短絡思考的に増長慢を起こしたとしても、そうは簡単に思い通りにはなるものでもないだろう。

掃除しながら、布を汚れなくすることなど可能なのか?

答:「お釈迦さまに頼んで、新しい布をもらう」(釈尊は、懐から新しい白い布を取り出して渡してくれるだろう)

その他のヒント:律蔵(釈尊が成道後、五比丘との再会前に、外道ウパカに出会うが、彼は釈尊を「あなたは白い」と評する)、長部 2『沙門果経』(第 4 禅の境地の喩えで「白い布」が使われている)。


参考

  • スマナサーラ長老『周利槃特(チュッラパンタカ)の悟り』(2003-07-12)
    マハーパンタカとチューラパンタカの続柄が、兄弟ではなく、伯(叔)父・甥と(スリランカでは?)解されているようだ。また、「指揉み」説に基いた法話である。
  • スマナサーラ長老『周利槃特(チューラパンタカ)の真実』(2019-11-16)
    質問者のマントラ説や、大乗的な他力に牽強付会して解する説は論外である。またスマナサーラ長老の回答の主旨は、知識偏重に対するアンチテーゼとしてこのエピソードに注目したものである。

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