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脱欲界──欲界からの解脱──

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Unsplash の K. P. D. Madhuka が撮影した写真 先日まとめた仏教の六欲天についての 考察 のその先の話として、欲界そのものからの離脱(解脱)について考えてみる。 身 口 意 善業 地居天 (四大王天+三十三天) マノーパドーシカ (夜摩天+兜率天) キッダーパドーシカ (楽変化天+他化自在天) 悪業 餓鬼 畜生 地獄 欲界に囚われた心(精神)の持ち主(要するに凡俗)は、善にせよ悪にせよ、カルマ(欲)に基いて行為(業)を行うので、必ず、カルマを積み続ける。彼ら在家の世俗人は基本的に完全に欲界に囚われた思考回路の持ち主なので、価値観の全てが、善悪の区別にある。大乗(非仏)教を始めとして、本物の仏教以外の外道異教は、基本的にその善悪の区別において、各価値観モデルを競い合っている。これが、スッタニパータにおいて、「俗世間における論争の生じる」とされる構図であり、「聖者では鎮まる」とされるところのものである。 仏教の聖者とする人々は、善にせよ悪にせよ、カルマを伴なう行為(業)にほとほと嫌気が指した思考回路を持つ人々であり、まずはその段階で大きく、世俗人(外道異教の聖職者を含む)と思考回路的に根底から違っている。「何が善か」という、善の具体的内容を思い描くことなどから離れているのである。なので、仏教において、〝善〟という用語を、情報伝達のために世俗諦として語る場合には、メタな形で用いており、不悪(不貪・不瞋・不痴)という否定表現で言われたり、善悪を含めたカルマの世界である欲界から丸々離れる(解脱する)ことを指して使われる。 今回の僕の仏教仮説では、このように、欲界から離れた(解脱した)聖者の世界・境地として、色界・無色界の梵天界を捉え、従来語られ・思われているような「座禅瞑想して禅定状態に入ることで行くのが、色界・無色界の梵天界である」という捉え方とは、別のイメージで捉えようとするものである。 客体論と主体論 今回の考察では、欲界(世俗の世界)をひとまとめにして捉え、脱欲界(である色界・無色界の梵天界)と対比することで、出家者の世界である梵天界をはっきりと浮き彫りにしようと思う。 まず、欲界に心が囚われている世俗人は、価値判断の思考回路的に、当たり前のように客体論で客観的...

yt-dlp で macOS Safari の cookie を使う

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macOS において、yt-dlp で、Safari の cookie を使う方法。 コマンド: yt-dlp [URL] --cookies-from-browser safari 次のようなエラーが出る場合: ERROR: [Errno 1] Operation not permitted: '/Users/XXX/Library/Containers/com.apple.Safari/Data/Library/Cookies/Cookies.binarycookies' 解決方法:システム設定でターミナルのフルディスクアクセスを許可する 参考: https://github.com/yt-dlp/yt-dlp/issues/7392