神籬(ひもろぎ)
〝縄文神道〟の泰斗(であると僕が勝手に思っている)戸矢学氏は、「神籬」について、以下のように述べている:
明治になって、政令によってほぼすべての神社に鏡を御神体として祀るよう強制されたが、それはいわば「記紀神道」であって、「古神道」ではないのだ。記紀神道は、いうまでもなく古事記神話・日本書紀神話に基づいて成立した神道であって、8 世紀初頭の頃の成立であるだろう。しかしそれ以前にすでに神道信仰が発生し根付いていたことはまぎれもない事実である。一宮は、そのほとんどが 8 世紀初頭よりはるかに古い時代に誕生している。ということは、一宮に秘められた信仰は、記紀神道ではなく、それ以前のものであろうということになるだろう。
神道では神を祀る場所を「神社」と称している。つまり神の社である。ヤシロというのはもと「屋代」と表記した。神の来臨する屋の代わりという意味である。つまり神社は「屋の代わり」であって、「屋」そのものではない。
それでは本来の「神の屋」とは何かと言えば、「磐座・磐境」「神籬」「神奈備」である。一般には馴染みのない言葉であろうが、歴史的には古くから使われている言葉であって、日本人の信仰を考える上で最も重要なキーワードである。
磐座とは、祭祀の時に神霊が降臨するとされる岩石、またイワサカは石の集合によって設けられた場所のことである。
神籬とは、神は常緑樹の森に降るとされるところから、その森をかたどったものをいう。最も古い形の斎場である。
たとえば家を建てる際に最初に行なう地鎮祭を思い起こしていただきたい。更地の中央に設営されるのが神籬である。またそのもっとプリミティブな形が、土盛りをして榊を立て、その周囲に 4 本の竹(これも常磐木の 1 種で、斎竹という)を立て、注連縄を張り巡らすものである。簡易なものであるが、神籬の本質を単純明快に表わしている。言ってみれば「臨時の簡易神社」であり「仮設の簡易神社」である。そしてこれこそは神道祭祀の原点の姿である。設営した場所が、その時だけ仮の神社となる訳だ。
いずれにしても神籬は仮設のものであって常設ではない。したがって遺跡史跡のような形で発掘されたものは皆無である。ただ記録は数多く、神道祭祀において必要最小限の設備であったことは疑う余地はない。またここに神籬が設営されたであろうという痕跡はしばしば見受けられる。
神奈備とは、際立った存在感を持つ山岳のことで、たとえばひときわ秀麗な山容の富士山や、活火山として畏れられる浅間山や御嶽山などをいう。山頂が天に近いためもあって、神が降臨する場所、また神がみずからの依り代とする場所、あるいは神そのものとして古来信仰対象となっている。
つまり「磐座・磐境」は不動・常設の祭祀場であり、「神籬」は祭祀を行なう設備であり、「神奈備」は神の降臨地・依り代である。磐座、磐境、神離、神奈備こそは神道初元の姿であって、しかも本質である。
これに対して、いかに精緻をきわめた工芸技術によって装飾されていようとも、建築物は 1 種のファッションである。むろんそれによって祭神へのより篤い信仰心を表現もし、また参詣者への神威のより良き演出ともなるのであるから、否定するつもりは毛頭ない。
ただ惜しむらくは、目の前の人知を尽くした建築物に圧倒されて、次第に神道の本質的な姿が見えにくくなっていることである。目に見えるものはなんといっても分かりやすい。社殿の立派さを、あたかも祭神の神格と同一であるかのようについ思ってしまうのはしかたのないことだが、社殿を飾り上げるという風習は仏教伽藍の移入に影響されて以来のものである。神道信仰は殿舎建築を拝むものではないのだ。
戸矢学『縄文の神が息づく一宮の秘密』(方丈社、2019-09-24)p236-249
ただ、戸矢氏は極めてれっきとした研究者である註 1ので、結局は人文系の学問的思索の範疇の〝穏当な〟見解に留まる。僕のような理系の人間が、世間で一般に霊的(スピリチュアル)な物事とされる事柄に関して、理系的に〝攻めた〟何らかのメカニズム的な説明を見出そうとする時、微妙に物足りないので、結局は、多少の補正を試みざるを得なくなる。
まず、「神籬」という言葉についてだが、当てられている漢字の「神」や「籬」の意味から由来を考えようとするのは、順番が違う。漢字はあくまでも後から輸入されたもので、当て字であり、先に「ひもろぎ」という音声言語が存在したわけである。なので、「ひもろぎ」という音声言語の面から考える註 2方が、より、ルーツとしては一次的なものに近付くことができる。
「ひもろぎ」とは「ひもれぎ(陽漏れ木)」のことで、要するに現代の言葉で言うと「木洩れ陽」のことである。註 3
戸谷氏は「縄文人が神聖視する森を表現したもの」「仮設の祭祀の場」とするが、厳密にはそうではなく、深い森の奥に開けた広場のような場所で木洩れ陽がスポットライトのように照らしたような状態になっている場所(その情景)こそが神籬(のルーツ)なのである。宮崎駿監督の『もののけ姫』のシシ神の住処や、『風の谷のナウシカ』の腐海の深層部の風景と言えば、イメージ的に伝わるに違いない。
一定の神感能力のある縄文人は、その木洩れ陽の差し込む光の中に、神を見たのである。
というのが、僕の独力で辿り着いた(思い付いた)結論である(実際に霊能力がある人に聞いて確かめたりしたというわけではないので、合っているかどうかは知らない)。
つまり、森そのものという自然物そのものを神聖視したわけではない。そうではなく、神が降臨するための典型的な環境(舞台)演出装置が神籬なのである。
そう考えると、神籬の「籬」という中国から輸入した漢字の意味する「囲い」という語義に限らず、他の場合でも、神籬(木洩れ陽のように照らされた神の降臨する場所)として機能しているものを、現代の神社においても発見することができることに気付く。
──それこそが、神楽舞台とそこに設けられた天蓋である。
天蓋
天蓋 神を呼ぶメディア
天蓋は、神楽の舞台に設けられる天井飾りである。神楽とは、神にささげる歌や踊りのことで、日本各地の神社などで太鼓や笛の奏楽に合わせて舞踊が演じられる。その際には、舞手の頭上に天蓋が、目に見えない神を呼び寄せるための目印、神の顕現を表わす舞台装置として設けられる。こうした祭具は、各地では天蓋、玉蓋、白蓋、造花、雲、大乗飾りなど多様な名称で呼ばれているが、ここでは総称として天蓋と呼んでいく。天蓋は、木や竹の枠に、和紙を裁ち折った紙垂や鳥居や明日など吉祥文様を彫り抜いた長押飾り(彫り物)などを貼りつけて制作される。白 1 色の場合もあるが、陰陽 5 行説に基づく 5 色(青・赤・白・黒・黄)の色紙が用いられることが多い。その形状はさまざまで、円形のほか 4・6・8 角形のもの、大小複数の天蓋が組み合わされたものもある。見えづらいが枠の内部には、御幣や人形、1 合 2 勺(= 1 年/12 か月の象徴)の米を入れた袋など、神々を招き寄せる具体的な場所が設けられており、遥か彼方から祭場へ訪れる神の通り道が丁寧に示されているのが興味深い。
西日本の神楽では、天蓋に網をつけて上下左右に激しく揺り動かす演目が伝承されている。中でも島根県の大元神楽「天蓋引き」では、奏楽と神歌の唱和に合わせて 3 人の引き手が 9 つの小天蓋を操り、もつれない様に躍らせる。神が宿った天蓋を激しく揺り動かすことで神遊びさせ、神威の活性化を図っているのである。
鈴木昴太(国立民俗学博物館助教)『世界の呪術と民間信仰 国立民俗学博物館コレクション』(島村一平・監修、別冊太陽 日本のこころ 326、平凡社、2025-09-25)p116-117
このように、日本各地の神楽に見られる天蓋は、神を招くための天井飾りという機能は共通するものの、その形態や飾り方はさまざまである。その多様性からは、目に見えない神を呼び寄せたい、神と一緒に遊びたいという民衆の思いが見て取れる。各地の人々は、身近で大切な神とコミュニケーションをとるために、それぞれ個性的な方法で天蓋というメディアを設けたのである。そうした想像力の一端に、各地の天蓋が展示されるみんぱくの展示場で触れていただければ幸いである。
僕が「神楽舞台も神籬の一種である」というインスピレーションを得たのは、大宮氷川神社の神楽舞台を見た時のことである。後に、『世界の呪術と民間信仰 国立民俗学博物館コレクション』が刊行されたのを図書館で借りて目を通したところ、呪術(とその道具である呪物)をテーマにしたこの本の全ページの中で、この天蓋について特集した見開き 2 ページにのみ、目が止まった。民俗学の専門家にも、神楽舞台(の天蓋)に着目するセンスを持った人がいたのだ、と。
とはいえ、鈴木昴太氏は「天蓋 神を呼ぶメディア」と題しており、儀式道具として捉えていることがわかる。それがまあ、人文系の学者としては普通の態度であろう。戸谷氏の場合と同様で、そこは理系の僕が違う態度を取る部分である。
天蓋は「神を呼ぶための道具」というよりは、「神が森の奥の広場の木洩れ陽の中に降臨する光景、その様子を、木洩れ陽の状態を、模したもの」である。つまり、神感能力のある古代人がかつて目撃した光景を再現して記憶として保存するための機能を持っている。
もっと俗な表現で言えば、霊能力者にしか視えない光景を、一般ピーポーにも視える形で模そうとしたものが、天蓋であったり、注連縄であったり紙垂であったりする、ということだ。それ自体は結局はモノ、紙キレだったりにしか過ぎないので、それら道具でママゴトすれば、本当に神が降臨するかというと、そうでもないだろう(結局はそれらの祭祀を行う人が本当の能力者かどうかによると思う)。だが、現代の神道や、民俗学が扱うのは、そういう一般人が伝統として続けている文化としての儀式や祭式だったりするから、そこが僕としてはズレていると思う部分である。
神籬や、(天蓋含む)神楽舞台といったものの存在は、かつて(今も?)、神を目撃した神感能力のある能力者が存在したことの、証拠として保存されているのである。そして、後世にも、もし別の神感能力のある能力者が見たのならば、それが、「何の光景を模しているのか?」ということが自身の経験に照らしてわかるわけで、これを残した者が、能力者であったことを確認することとなる。
要するに、神籬が表現しようとしているのは、西洋で言うところの halo すなわち仏教の言う後光と同様のもので、西洋の宗教画や仏像美術などでも表現形式として使われているが、表現形式として市民権を得て定着してしまっているので、必ずしも作者が霊視能力を持つと言えるわけではない。
また、後光と違い、神籬は、上から下へランプシェードのように照らしているという特徴がある。これはむしろ、仏教の伝承で、王族がその頭上に(下僕によって)白傘を掲げられる、という話との共通性の方が感じられる。
縁ちえの言う神柱との関係
神社の本殿には神柱というものが存在し、それが視えていると語る霊能者縁ちえ。
(神柱に関する話題は 5:23~15:57)また、別の動画(3:30~6:52)にも神柱に関する追加の話題が出ている。
柱という表現からすると、まるで夜天に上空に向けて照射されているパチンコ屋の宣伝用のサーチライトのようなものが屹立している様子を想起してしまうが、実際にはどのような形状で縁ちえには視えているのだろうか? 色は、シャボン玉のような極彩色(サイケデリック)な半透明のものだと述べているが。
神籬に関して僕が類推するイメージからすると、それは柱のようなものではない。あくまでもランプのシェード(傘)のようなものから下に向けて照らされていて、舞台にスポットライトが当たっているのを感じるだけであり、照らされて心象的に明るくなった舞台の様子から「その上に照明があるのだろう」と間接的に類推するだけで、光そのものを直接知覚するものではない。なので「神籬の、囲われた紙垂付きの注連縄(天蓋部分)の、その上部を貫いて何か光柱のようなものが立っている」というイメージではない。むしろ、天蓋がドラえもんの道具の「どこでもドア」や「通り抜けフープ」のような出入口(ポータル)になっていて、そこからワープして(天界・神界からの)光が注いでいるといったイメージがしっくりくる。我々人間の物理的な現実空間に、柱状の光が立体的な高さを持って上空に向って続いて存在しているというイメージではない。
縁ちえの「神柱」なるものは、むしろ、神道のというよりは、ヘブライ(旧約聖書)の「(天使が昇り降りする)ヤコブの梯子」ではないかと思う(ヤコブは夢の中で見たわけで、現実に視たわけではないが)。彼女は、神様がそれを使って地上に滞っている死者の亡霊を天に誘導する、と表現してもいる。まあおそらく、縁ちえの場合、アストラル空間に存在するルートを、現実の天空に重ね合わせて共感覚によって知覚している、といった解釈であれば、神籬の別の側面を捉えているだけで、指し示しているものについては「神柱」にしても「神籬」にしても、結局は同一のものなのかもしれない。
註
- おそらく、神道の専門家サイドの見解としては戸矢氏のものが、我々門外漢にとっての最良のファイナルアンサーではないかと思う。著書を読む限り、神道業界関係で見られがちな、「日本スゲー感動ポルノ語り」的なキモいネトウヨ的傾向(センチメンタリズム)を最大限排除しつつ、真に神道が秘めている価値を示そうという真摯な態度を感じられる。
- ただし、音声言語を重視するといっても、ヘブライ語と似ているとかいう系の思考は愚の骨頂である。そういうおかしい脳味噌を持ったムー愛読者や都市伝説系 YouTuber の類の連中と一緒にしてはならない。
- ちなみに、残りの言葉の僕の音声面からの解釈については、「いわくら」は「磐蔵」と当てた方がより適切で、石舞台のようになった所というよりは、岩山の洞穴をこそ表わすと解釈すべきである(これが山自体を御神体として神聖視する用語)。山を女性神として見て、いわくらをその女陰・子宮に相当すると考える、とすれば、山の神を女神と考える理由の合理的説明にもなる。「かんなび」は「神の火」または「神の陽」であり、「神の火」とすると厳密には火山の噴火の火そのものや火山雷を指し、富士山などの山自体を指すわけではない。「神の陽」とした場合は朝夕に山にかかる太陽の様子を示している(古代社会にとって暦を把握する上で極めて重要な風景である)。いずれにしても山自体を神聖視する言葉ではなく、火や太陽を御神体として神聖視することをルーツとする言葉である。以上が縄文神道に関する理系的に〝攻めた〟僕流の独自解釈である。
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