父の死 8 諸行無常

早朝、夢を見た。運動会などのイベント会場に設営されているようなテントの下に設けられたテーブルの席についており(時間帯は日没間もないくらいの感じだろうか)、向かい側の席は今は離席しているがおそらく友人のYがいるのが、背もたれに掛けられた上着でわかる。それぞれの席に抹茶クリームのショートケーキのようなものが置かれており、Yが戻ってくるのを待って食べずにいる。テーブルの向こう側(Yの席の側)から真っ直ぐにこちらに近寄ってくる老人が現れる。野球帽タイプの帽子をかぶっており、往年のプロゴルファー杉原輝雄のような背格好の老人は、特に身なりが汚ならしいだとかいうわけではなかったが、色褪せ古ぼけた雰囲気から自然と浮浪者だと思った。それでテーブルの上のケーキを食べたいのだろうなと思ったので、僕の分を半分取り分けてあげようと、紙の皿か何かないかと探そうとした。しかしケーキを見つめながら真っ直ぐ歩いてきた老人がそのままではYのケーキに手を伸ばしそうだったので、ちょっと待ってと制止して、どうすればいいかなと思っているうちに、Yの席の隣に給仕が置いていたか何かした、取り分け元のケーキの皿を老人は触りながら、ケーキに触れて、指に付いたケーキを舐めたりして食べようとしている。ほとんど僕のことは見ておらず、ケーキのことしか念頭にない様子であった。

目醒めた瞬間思ったのが、この老人は餓鬼であろうということである。そして、顔からして父には似ていなかったが、餓鬼化していて顔に面影がなかっただけであり、可能性として父であったとしても不思議ではないかもしれないと思ったのである。そう考えると、それが父であれ誰であれ、このような者が夢を通じて自分に近づいて来るのであれば、誰であれ、そのような者は供養せずにはいられないと思うと、さめざめと泣けてくるのだった。

夢の中の自分が彼に全く嫌悪感を抱かず、すぐにケーキを分け与えねばと思ったのが救いだが、どうせなら取り分けるとかではなく自分の皿丸ごとさっさと与えていればと、対応の仕方の至らなさを感じた。


上の夢をメモして、寝直してから次は、ついに父が登場する夢を見た(父の生前から、自分の夢には、上の弟と母は比較的良く登場するのだが、父や下の弟はあまり登場しない。とはいえ、上の弟にしても母にしても、それぞれの実際の人物そのものを表しているというよりも、自分の性格のある側面を仮託しての自作自演劇として登場している場合がほとんどだろう)。

とても明るい屋外で、グランドキャニオンのようなとある断崖絶壁に父と車でやってきた。断崖絶壁の向こう側(下)は海なのか陸なのかわからない。ただ今いるこの断崖の上が非常に高い場所であるということは確かである。絶壁の脇にさらにメサのような上が台地になった岩山が突き出しており、そこには建物があって人も住んでいる。そこに登って記念写真でも撮ろうということになっている。その台地と反対側の絶壁の脇の上空には、白い丸い月が浮かんでいるのが見え、よく観ると、実は新月間近の細い月なのだが、なぜか昼間にもかかわらず、隠れているはずの部分までも白く見えているのである。しかし良く見ていると、それは絶壁脇に建った商業施設の建物の大型テレビに映し出された映像であることがわかる。父が絶壁の縁から少し内側に立った灌木に内側方向にもたれかかっているが、体の弱った父が木から体を滑らせてよろめくと断崖から転落しかねないので、こちらに来るように言う。登山にあたって車の中からカメラを持ってこなければと思う。明るいポップな感じの BGM を背景に夢が醒める。

上の夢を見て、父が餓鬼界に行った可能性もあるのかと思っていたので、次に突然父が登場する夢を見ることになり、つまり先の夢で登場した餓鬼は父ではなかったようだ。以前の推理では、人間界に転生したのかなということだったが、この夢は、舞台からして須弥山の中腹の天界(四王天あたり。メサの上の台地は三十三天であろうか?)のようである。(僕の独自説だが)目醒め間際に聞く BGM は天界の伎楽神ガンダルヴァの影響である。


上の夢と、父の転生以外に関連するのか、今日はついにタイ料理店Dの最後の日である。ビル3Fの天界の隠れ家のようなその店と今日でお別れである。開店一番乗りで行き、まだ他のお客さんもいなかったので、タイ人シェフ夫妻にお願いして、一緒に写真を撮らせてもらった。

父の死と、10 年来通った上座部仏教徒味溢れる地元のタイ料理レストランの(駅前再開発による)閉店(、そしてマンションのそばの蝉の楽園だった巨木の林の伐採)。僕の内と外に同時に訪れた、「諸行無常」を痛感せざるを得ない転機となる出来事が一度に起った。自分の周囲の愛しいものとの別れを、他人事ではなく我が事として直面することとなった。しかしこれは、次は自分が愛しいものを見送る側ではなくて、いよいよ自分自身がこの世界から別れを告げる側の人間となる、そんな風に考える人生のステージに突入し始めたのだなと思わざるを得ないのである。

(2021-09-30 15:55)

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