悪貨は良貨を駆逐し、紙きれとなる

ここのところ、YouTube で岡田斗司夫と山田玲司にハマっている。あくまでも、無料で視聴できる範囲だが。

まず、岡田さんが面白いのは、あの「黒さ」。今は YouTube ベースなのでかなり猫をかぶっている感じがするが、もともとニコニコ動画主体だった頃はもっと黒オカダ全開バリバリだったんじゃないかと思わせる(自分は最近岡田さんの動画を観るようになったので、実際は知らないが)、時折ふとした拍子に見せる毒舌。

ちなみに、いつの話かわからないが、過去のある選挙では、岡田さんは、期日前投票で共産党に入れてきたと明言していた。消去法的にアンチ与党票として「他に選択肢がないでしょ!」というような言い方をしていたから、必ずしも共産党そのものは支持してない感じ。一方でアンチ自民であることはほぼ確実。「二世三世議員に票を入れるのは、入れる側の選挙民の側がアホすぎる、タレント議員の方がはるかにマシ」という趣旨の発言をしており、世襲議員が一番多いのは自民党。

山田玲司さんのことは、岡田斗司夫の YouTube 動画を観ていたら、お勧めによく登場し、二人で対談している動画などを観たのがきっかけで知った。彼の本職は漫画家で音楽活動もされているようだが、僕は彼の作品を読んだことがない。漫画と音楽を中心とする日本のポップカルチャーに造詣が深く、戦後の世代論を軸にした各種分析は圧巻。

山田さんの場合、あまり政治的発言は目立たないが、どちらかというの日本社会については、かなり悲観的な感じに見受けられ、本来権力に逆らうロックミュージシャンという出で立ちからも、右というよりは左寄りのリベラル肌な気がする。


岡田斗司夫と山田玲司も、それぞれ仏教や宗教についてもたまに語っていることがあるが、そちらについては、自分的にはあまり聞くべきものがあるようには感じなかった。日本人のインテリ層のテンプレートのような、東洋西洋の相対化の中での東洋的なるものの一つとして日本の仏教や精神性を位置付ける考え方。自分にとっては陳腐な考え方の域を出るものではない。

最近、ふと、無神論というか唯物論者というのは、死後、無色界に行くのではないかという気がした。悪い意味で、である。もちろん、三悪趣ではないのだが、どうも無色界というのは、瞑想で一過的に散策する境地としてはいいとして、死後の転生先として行く場所としては、「いかがなものなのか」もしれないと。

まあ、現代人の多くは無神論的物質主義の中で人生を生き抜ける。悪業を犯して三悪趣に陥ることがなかった場合の、善良な人の天国の行き先として、無色界に行く人は、僕の理論で言うと、少なくはないのかもしれないということだ。

しかし、仏教でも無色界というものは瞑想の境地として以外はあまり好んで語られているようには思えず、キリスト教でも、悪事によって地獄行きになることを恐れるというだけではなく、一方で実在を実感するのが難しい神への信仰を保ち、無神論にならないように努力しようとする。これらは、無色界行きを避けようとする動きではないか。


例えるならば、仏教と、仏教外の異教(キリスト教等)との関係は、通貨の円か米ドルかというような違い。どちらを信奉するかというのは、円高とか円安とか、為替的な相対的な価値の変動は生むだろう。そういう良し悪し論、私はどちらを選びます論はありうる。

一方、上座部仏教か、大乗仏教かという関係性は、あるその通貨に対して、正札・偽札という関係にあたる。別な喩え方で言うと、「悪貨は良貨を駆逐する」でもいい。

上座部では、元々純金 100% だった金貨(仏の教え=仏教)が、段々と(半分くらい?)銀が混ぜられてきて劣化しつつあるような時代に、ブッダゴーサという非常に重要な高僧が登場し、貨幣の劣化をその時点で完全に凍結させた。彼が次世代仏の弥勒菩薩だと言われる所以であろう。これ以上、悪貨に良貨を駆逐させないようにした。

大乗では、金にどんどんと銀を混ぜて銀貨にすりかわり、銀にどんどん銅を混ぜて銅貨にすりかわり、最後には、ただの紙ペラに印刷しただけの物質としてはほとんど何の価値もない、記号的な存在となってしまった。もちろん、一応、その時代その時代の通貨の発行主体である国家(仏教派閥)は釈尊から各地に分派して継承された道統のものではある。しかし、何でも「空」(色即是空)と言って龍樹らを輩出した大乗は、最後には貨幣(仏陀の真言たる教え=仏教)までも空虚な紙きれにしてしまった。悪貨は良貨を駆逐した。


釈尊は、本来、独覚仏である。しかし、「ただの」独覚仏に留まらない、「王」としての資質が、彼を正自覚仏という特別な独覚仏としたのである。王としての資質があるので、それが世俗の権力方面に向かえば転輪王となり、宗教方面に向かえば(転輪)法王となる。

本来、独覚仏は、世間から孤立している。特に、正自覚仏と区別された意味での独覚仏というものは、その点が強調されている。教えを他人に説いて広く世間に布教する資質がないということになっている。しかし、よく、仏教経典を研究すると、必ずしも完全孤立しているわけではない。独覚仏が、弟子を採って、その弟子を独覚仏(阿羅漢)にするようなケースも伝えられている。つまり、「教え」という形で一般に広く普及させる情報として言語化し、修行方法を体系化するような部分が、ただの独覚仏と違って正自覚仏がずば抜けている部分なのである。

つまり、独覚仏は宗教的に言ってそれほど珍しい存在、仏教世界の専売特許的な存在ではないとも言える。僕は、例えば中国の老荘思想的な仙人というのは、独覚仏たちだと思っている。

基本的に、(正自覚仏以外の)独覚仏は、個人の資質に特化しているので、自分自身と似たようなタイプの弟子を選んでマンツーマンで教える程度の教え方しかできないのだと思う。

大乗仏教の禅宗というのは結局、中国の高名な禅僧たちのエピソードからわかるように、あれは正自覚仏の教えの流れにあるというより、元から中国にあった老荘思想的仙人文化=独覚仏文化が、後から(北方の大乗伝来とは別ルートの南方経路で)伝来した正自覚仏の仏教カルチャーによってアイデンティティを後付けてまとったようなものに思われる。独覚仏教であって、正自覚仏教ではないとでも言おうか。

そして正自覚仏たる釈尊の話に戻ると、彼の教えは、人々を独覚(阿羅漢)に導く教えであり、「正自覚仏」に導く教えではないという点である。上で分析したように、釈尊は彼自身は自分自身と向き合った結果、独覚に至る。それは他の独覚仏と何の違いもない。そして、彼自身は、自分の悟りは、俗世間に人々にショックを与えてしまうネガティブなものであり、相容れないものであるから、このまま死んでしまおう、と考えたわけである。死ぬというのは、その場ですぐに死ぬという意味なのか、そのまま「世に埋もれたまま」残りの生涯を世捨て人として生きようという意味なのか、どちらでも受け取れるが、もちろん独覚仏や老荘思想の仙人のことなどを考えてみると、後者であろうことがわかる。

そこに梵天サナンクマーラが登場し、「王」たる資質を持つ釈尊が、世に埋もれるべきただの独覚仏ではないということで、「法王」として教えを広く世間に向って(※ただし、万人ではない。世間のうちの資質のある人々に限定されている点には留意)説くべきだと説得して、釈尊は翻意するわけである。翻意によって後の仏教が成立することになったのはいいとして、そもそも釈尊個人としては、そのようなネガティブな思いを持っており、むしろ独覚や老荘思想の仙人の例に漏れず、世捨て人的であった点に着目することが重要である。

重要なのは、仏教はこのように、それぞれの人を「覚り」(独覚、阿羅漢)に導く教えであって、決して人を「王」の器に導くものではないという点である。王というのは、ゼロサムゲーム的な、人と人との競争比較によって成立しうる立場であり、一人のチャンピオンと残りの敗者によって成立する。その「王」になるための教えなどというものが、仏教であるはずがない。そんなものを尊い教えとするのは阿修羅や魔神の教えでしかない(その行き着くところは超人化が仏教修行だとする思考である)。

大乗仏教では、今や仏陀の教えが失われ、仏弟子という形では覚れない時代になったので、仕方がないので、自分たちが自ら正自覚仏となることを目指して、「王器」(波羅蜜)を磨くために修行するのだそうだ。


弟に、「岡田斗司夫と山田玲司の YouTube がすごく面白い」という話をした。その流れで、「ただ、仏教については、日本の文化教養人によくある感じでかなり陳腐で残念だった」と言ったら、日本の大乗仏教だろうがキリスト教だろうがそもそも宗教にほとんど無知な弟は、苫米地英人氏の名前を出して、仏教について僕と「似たようなことを言っている」と言う。苫米地氏が葬式仏教的な日本の仏教のあり方を否定している点は共通しているかもしれないが、その程度にしか過ぎず、全く大乗仏教的でしかない苫米地氏については、僕は以前から(仏教面では)否定的な印象を持っていたので、正直心外だった。まあ、ほとんど無知な弟にいきなり仏教的な内訳の話が通用するはずもなかったのだが……。

改めて苫米地氏のことを調べてみると、大乗仏教で天台宗に僧籍もあるとはいえ、大乗か上座かということ以前に、仏教・宗教として酷い部類の人だと思う。いわゆる無神論者、物質主義者が、大乗の空論を盾にして結局のところ信仰性を否定する部分を全てとして仏教を評価している感じ。彼のイスラーム等の他の宗教に対する批判的なものいいからもそれは明らかだと思う。要するに彼は本来的には、信仰否定の物質主義唯物論者なんだと思う。

そこで、岡田斗司夫さんのことを考えてみると、彼は山田玲司さんの言うところの「物質文明主義バンザイのドラえもんののび太世代」であり、苫米地氏は岡田さんの 1 学年下で、基本的に同世代。岡田さんもどちらかというと本来 SF オタクで、どこまでかはわからないが、無神論や物質主義者的な観点で、宗教に冷めたコメントを投げ掛けることを散見する。その彼が最近、「キリスト教よりも仏教が良いように思えてきた」などと発言していたので、何となく、苫米地氏と似たような路線じゃないかという気がしている。

そんな岡田斗司夫が、SF オタクだけあって、基本的には各種コンセプト内容に注目する人なのに対し、山田玲司という人は社会や文化、カルチャーといった中で、人がライフスタイルとしてどのような生き様をするのかという着眼をする。そんなわけだから、山田玲司さんは普通に日本仏教の親鸞が面白いとか言ったり、世代的にもスピリチュアリズムやヒッピームーブメントやヨガ的な、カルチャーとしての宗教や仏教の捉え方ぽく、これもみうらじゅんなどに近い感じで、「宗教を宗教として」という切り口とはちょっと外れている気がする。

SF オタクの岡田さんや、サブカル評論家の山田さんならではの、従来のありきたりな仏教論とは違う、斬新な仏教論を期待したのだが、そのあたりについては、穏当な話に留まるという感じだった。

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