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六欲天

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パーリ仏教に興味を抱くようになって以来、ずっと謎だったのが、六欲天のことについてである。 色界や無色界の梵天世界については、禅定の状態と各世界の対応関係が明確である。一方、六欲天は何なのか? もしかしたら、論蔵には界論があるから、そこに説明を見つけることができるのかもしれないが、現時点まで論蔵には縁がなくアクセスしたことがない。少なくとも経蔵を読んでいる分にはともかく謎。 ──が、最近、禅定のことについて研究していて、段々とわかってきたかもしれない。 要するに、欲界禅定というのは、魔道であり、仏道に敵対する道。欲界のトップに魔天(第 6 天=他化自在天)が位置付けられていることの意味が、そこにある。 世俗人が世俗的な人生を送って、無自覚に、結果的に、欲天に転生するのは構わないのだろうが、修行して意図的な訓練で禅定を作り出して目指すべき境地では、決して、ない、のだろう。 魔にも、悪魔だけでなく、善魔もいるのだろう。だから、悪魔はあくまでも第 6 天の一部勢力であるとされる。この第 6 天というのは、要するに、信仰の対象となる宗教的な神の世界である。 魔(他化自在天)は、周囲の存在を自己のファンタジー世界に巻き込む、マインドコントローラーのことである。宗教や政治や経済などの、カリスマ指導者たちのそれである。オウム真理教の麻原彰晃を考えてみよ。自分の取り巻きをホーリーネームで呼び、◯◯省大臣だとか、妄想プレイワールドを築いていたではないか。さすがに、彼自身が他化自在天という高度な存在だとは言わないが、ほぼ確実に第 6 天魔の精神の影響下にあったと言えるのではないか。(追記: 2023-04-09 のスマナサーラ長老の経典解説 で、麻原についてのコメントがあり、快哉) 麻原の場合は大変わかりやすい槍玉に挙げやすい例だが、このような反社会的な失敗例ではなくても、広く一般的に、各界のカリスマ的な勢力は、第 6 天に該当する存在であると言えよう。 スマナサーラ長老が、アブラハムの一神教や、ヒンドゥー教、大乗仏教の捏造した化け物(架空存在)の如来・観音に対する信仰などを、冗談めかしながらもボロクソ言うのも、結局、それらの精神活動が、魔の領域に属する性質のものだからだ、と考えれば、至極真っ当なものに思える。 欲界禅定というのは、神のイメージを思い描いて、自分の心の中...

仏教との関わりについてあれこれ考え中

父の死から 1 年経ち、相続や登記など、一通り片付いたのを機に、15 年ぶりくらいに仏教(=テーラワーダ)への関心が顕在化している。 15 年前当時は、純粋に 仏教徒 という在家の立場でしか仏教のことについて考えていなかった。父を亡くして、今や自分の番だと思うようになった。俗世間での人生を築くことではなく、残りの時間を、どう、より善く死ぬために使うかということだ。 老衰して、1、2 年で死ぬような病を宣告される状態になってから、仏道修行をしようとしても、一般的には手遅れだろう。このまま「在俗信徒として」の立場でより善い死に方を目指すか、「仏弟子として」の立場で仏道修行を目指すかという分岐点に、時期的にそろそろ今、差し掛かっていると思う。 ちなみに、「仏弟子として」というのは、出家比丘になるという意味ではない。自分にそのような資格がある自信はないし、そんなつもりも今のところない。ただの他人事の一仏教サポーターに終わるか、自ら仏道修行を行ってブッダの教えを我が身で実証しようとする行動をする側になるかどうかという話の問題である。 後者の道を選ぶとしたら、そろそろ時期的なタイムリミットが近付いていると思うのである。身体が弱って肉体的な死を目前にしてから、急に思い立っても一般的には手遅れになると思う。経典を読む限り、一般的にはそういう考えで、叱咤激励されているように思われる(cf. 悪魔の正体 相応部『Sambahulasuttaṃ 衆多経』を読む|スマナサーラ長老のパーリ経典解説 )。 在俗信徒としてより善く死ぬ場合 この場合は、布施が一番のポイントだろう。「布施」といっても、愚かな世間のイメージのそれとは違ってテーラワーダ仏教では、仏教団体への金品的な寄付を単純に意味しない。世間に奉仕して、いかに自分の欲を離れられるかがポイント。 布施に成功し(=より善く死ね)たら、四王天〜三十三天あたりに行けるかもしれない(cf. アナータピンディカ長者は兜率天)。あくまでも期待できるのは欲天。梵天はアスリート(一定レベル以上の修行を達成した者)にしか行けない。 今生では人間でも過半数は次生で悪趣に戻りかねないという話をどこかで聞いた気がするが、だとしたら今の境涯と同等程度の人間界でも全然成功だと思う。 仏道修行者(サマナ)としてより善く死ぬ場合 止(サマタ)・...

父の死 15 自動車の名義変更

先日、ようやく不動産の相続登記が終り、今日は後回しにしていた自動車の名義変更を行ってきた。 準備段階として国土交通省の 移転登録についての説明 と 自動車登録業務実施要領 を参照した。以下のものを用意し、 法定相続情報一覧図 遺産分割協議書(捺印された各人の実印に対する印鑑証明書の添付は不要) 車検証 相続人の実印と印鑑証明書 500 円 管轄の陸運支局に行き、窓口で指示された申請書に記入して手続した。 ポイントとして、陸運局自体は国の出先であり、自動車税は都道府県が徴収するので、窓口(建物)が別々にあり、陸運支局の窓口から指示されて、記入した申請書を持って都道府県税の窓口に行き、500 円の収入印紙を購入するとともに、そこでまた別の用紙を記入・提出した(おそらく、自動車税の請求先の更新のため)。それから改めて陸運支局の窓口に戻って、申請書を最終提出し、新しい名義の車検証を受け取って、手続が終了した。

仏教の無我論とアージーヴィカ教の主張

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今日、アーチャン・チャーの本(『無常の教え』(星飛雄馬・訳、2013-11-01、サンガ))を初めて読んだ。その中で、何度か繰り返し出てくる、「無我」についての彼の説明で、「無我」と「不死」を結び付けた解釈があった。 私たちを構成するあつまりを、ブッダは五蘊(pañca-khandha)と呼びました。五蘊は、肉体のあつまり(色蘊)、感受作用のあつまり(受蘊)、概念またはその概念を作るはたらきのあつまり(想蘊)、受・想・識を除いた他の全ての心のはたらきのあつまり(行蘊)、認識作用のあつまり(識蘊)の 5 つからなります。この 5 つが、私たち人間なのです。存在するのは、ただこの五蘊のみなのです。「人」というものは、本当はどこにも存在しません。人とは、単に地(paṭhavī)、水(āpo)、火(tejo)、風(vāyo)のあつまったものにすぎません。これら四大のあつまりを、施設(paññatti)として「人」と呼んでいるのです。死王は「人」を見つけ、捕らえることはできません。死王が追うことができるのは、やがて粉々となり、散じることとなる地、水、火、風のみです。それらの中には、いかなる「人」も見出すことはできません。 自らの身体が空であると知るとき、私たちはその中に住することなく、死王は私たちを捕らえることはできません。私たちは、もはや死なないのです! 違いますか?「私たち」というもの、我(attan)が存在しないとき、私たちは死なないのです。ブッダは、無我(anattā)を説きました。けれども、この無我についての話を聞くときには、どうか注意をして聞くようにしてください。この無我という言葉の本当の意味は、私たちの世界のどこに「人」というものが存在するのか? ということなのです。この世界には、地、水、火、風の集まり、そして空が存在します。現象は空ですが、私たちはそれらを慣習的に「私」とか「私のもの」と呼んでいます。そして、そこから自己に対する執着が生じます。やがて、地、水、火、風が散じるとき、私たちは死にます。私たちは、四大を自分自身であるとして生きているからです。そのとき、四大は私たちにとって空ではなく、自己そのものであり、それゆえそれらが散じるとき、私たちもまた死ななければならないのです。そして、私たちは死を嘆き、涙を流さなければならないことになります。ブッダ...

AquaSKK

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Mac で SKK と言えば、 AquaSKK (4.7.4) OS 側の完璧な設定方法は次の通り: 設定 > キーボード > 入力ソース 入力ソースの設定 1. 英語は [@] ASCII を追加 2. 日本語は [ア] カタカナ、[あ] ひらかな、[英] 全角英数、[カナ] 半角カナ、[あ] 日本語(※1)を追加(※2) 3. ABC を削除 本当は削除したいのだが、以前の macOS ではできたが、Big Sur ではできないようだ。 4. [あ] 日本語 を削除 macOS 標準の旧ことえり系はローマ字入力もかな入力もすべて削除可能。 5. 以上で(英語を除いて)SKK のみの入力モード間での切り替えとなる。 ※1 [A] ABC は macOS デフォルトの英語用キーボード ※2 AquaSKK 統合は選択しない その他 メニューバーに入力メニューを表示:ON(設定 > キーボード > 入力ソース) caps lock ⇄ control の入替:「設定 > キーボード > キーボード」の右下の「修飾キー」において設定 入力ソースの切り替えショートカットキー:デフォルト(Control + Space)(設定 > キーボード > ショートカット) 文頭を自動的に大文字にする:OFF(設定 > キーボード > ユーザ辞書) 辞書ファイルの管理 普通に辞書登録していってもいいのだが、この場合はユーザー辞書(~/Library/Application Support/AquaSKK/skk-jisyo.utf8)に蓄積されてしまう。ユーザー辞書は、過去の変換実績からの変換候補の表示順序のデータを記憶することが本来の目的であり、純粋な辞書ファイルとしては、未整理で見辛い。 そこで、自前の辞書ファイル ~/.skk-jisyo(テキストファイル)に手動でエントリーを追加することにしている。Aqua-SKK の環境設定のデフォルトではこのファイルの辞書の種類は EUC-JP になっているので、UTF-8 に変更している。 自前で辞書ファイルを作成・編集する場合に、フォーマットは、各エントリーが「ひらがな /平...