仏教との関わりについてあれこれ考え中
父の死から 1 年経ち、相続や登記など、一通り片付いたのを機に、15 年ぶりくらいに仏教(=テーラワーダ)への関心が顕在化している。
15 年前当時は、純粋に仏教徒という在家の立場でしか仏教のことについて考えていなかった。父を亡くして、今や自分の番だと思うようになった。俗世間での人生を築くことではなく、残りの時間を、どう、より善く死ぬために使うかということだ。
老衰して、1、2 年で死ぬような病を宣告される状態になってから、仏道修行をしようとしても、一般的には手遅れだろう。このまま「在俗信徒として」の立場でより善い死に方を目指すか、「仏弟子として」の立場で仏道修行を目指すかという分岐点に、時期的にそろそろ今、差し掛かっていると思う。
ちなみに、「仏弟子として」というのは、出家比丘になるという意味ではない。自分にそのような資格がある自信はないし、そんなつもりも今のところない。ただの他人事の一仏教サポーターに終わるか、自ら仏道修行を行ってブッダの教えを我が身で実証しようとする行動をする側になるかどうかという話の問題である。
後者の道を選ぶとしたら、そろそろ時期的なタイムリミットが近付いていると思うのである。身体が弱って肉体的な死を目前にしてから、急に思い立っても一般的には手遅れになると思う。経典を読む限り、一般的にはそういう考えで、叱咤激励されているように思われる(cf. 悪魔の正体 相応部『Sambahulasuttaṃ 衆多経』を読む|スマナサーラ長老のパーリ経典解説)。
在俗信徒としてより善く死ぬ場合
この場合は、布施が一番のポイントだろう。「布施」といっても、愚かな世間のイメージのそれとは違ってテーラワーダ仏教では、仏教団体への金品的な寄付を単純に意味しない。世間に奉仕して、いかに自分の欲を離れられるかがポイント。
布施に成功し(=より善く死ね)たら、四王天〜三十三天あたりに行けるかもしれない(cf. アナータピンディカ長者は兜率天)。あくまでも期待できるのは欲天。梵天はアスリート(一定レベル以上の修行を達成した者)にしか行けない。
今生では人間でも過半数は次生で悪趣に戻りかねないという話をどこかで聞いた気がするが、だとしたら今の境涯と同等程度の人間界でも全然成功だと思う。
仏道修行者(サマナ)としてより善く死ぬ場合
止(サマタ)・観(ヴィパッサナー)を実際にこの身を以って修行するしかない。
現代の我々は、パーリ仏典だけでも全体を総括的に眺めることができるが、在俗信徒向けの教えと、出家比丘向けの教えとでは趣旨が違っている。なので、経典情報の集め方と読み方に、視点角度を変える必要があると思う。出家比丘向けの教えでは、そもそも在俗の状態=欲界に留まること自体を根底から否定する教えがベースとなっている。欲界では、どんなに善行をしても、所詮は、魔の領域なのである。そこを抜けるために必須となるのが、サマタである。
一方、ヴィパッサナーは、欲界・色界・無色界を含む 3 界=世間からの出離、出世間のための修行となる。サマタなしの欲界でのヴィパッサナー的思考の真似事は、単なる戯論哲学妄想したなんちゃって似非智慧みたいなものに陥いる(悪魔の思う壺)。
大体、哲学的には四聖諦や無常・苦・無我とか、経典を読んでいれば、一定の中核となる概念は見えてくる。問題はその体得、サマタを通じた実証である。必要条件としてのサマタを育てることがまずは喫緊の課題になる気がする。
サマタ修行が一定程度成功すれば、四向四果いずれかの解脱には失敗したとしても、梵天界行きが期待できる。
というわけで、現在は、『清浄道論』など読みつつ、サマタ修行について研究中……