梵網経の 62 邪見
梵網経のデジタル写経が終ったので、62 の邪見を表にして整理してみた。
スマナサーラ長老の“他宗教・他宗派イジり”に刺激されて、この際、62 見で網羅し(網で捕え)たいと思った次第。
基本的に、経典および、註釈にあるものはできるだけそのまま使い、それ以外のものは自分で適当に埋めた。
根拠 | 我と世界に対する見解 | 備考 | ||
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過去生 | 常住論 | 1 〜 数十万生の記憶 | 常住 | 現代でもよくある俗世間的な輪廻転生思想 |
1 〜 10 世界周期の記憶 | ||||
10 〜 40 世界周期の記憶 | ||||
推論による妄想 | ||||
部分的常住論 | 1 つの過去生の記憶 | 大梵天は他者と違い常住 | 大梵天は創造神であり、他者はその被造物(一神教) | |
キッダーパドーシカではない他の欲天は常住 | 不死の神々と、輪廻すべき生命の別がある(多神教) | |||
マノーパドーシカではない他の欲天は常住 | ||||
推論による妄想 | 肉体は死ぬが、精神(魂=我)は常住 | 素朴なイデア論(プラトン)・アバター思想 | ||
有限・無限論 | 有限の禅定体験 | 世界は有限 | 宇宙物理・天文学 | |
無限の禅定体験 | 世界は無限 | |||
有限・無限の禅定体験 | 世界は上下に有限、水平に無限 | |||
推論による妄想 | 世界は有限でも、無限でも、 上下有限・水平無限でもない | |||
詭弁論 | 善・不善を知らない | 間違っていたら嘘を言う羽目になる (戒)から明言しない | 現代日本の世襲職業的宗教家 | |
間違っていたら怒りを感じて心が乱れる (慚)から明言しない | ||||
間違っていたら詰問されて心を乱される (愧)から明言しない | ||||
あの世(死後の世界)の有無 化生(霊的な存在)の有無 業報の有無 肉体死後のタターガタの有無 | そもそも愚鈍・蒙昧だから まともな受け答えができない (見解の分類以前の問題) | サンジャヤ・ベーラッティプッタ (現代日本の職業的禅坊主) | ||
無因生起論 | 想の生起を遡ると 無想(有情天)に至る | 我も世界も無因で出現した | 我思う、ゆえに我あり、世界あり。 (デカルト以降の近現代的な自然科学観) | |
推論による妄想 | アージーヴィカ教 | |||
あの世 | 有想論 | 色界禅定体験 | 遍の浄色そのもの、精神状態が我である | 禅定至上主義 |
無色界禅定体験 | 無色界の精神状態が我である | ニガンタ・ナータプッタ(推論妄想) 禅定至上主義 | ||
色界・無色界禅定体験 | 色界や無色界の精神状態が我である | 禅定至上主義 | ||
推論による妄想 | 我は有色でも無色でもない | 「釈尊はアートマンを否定していない」と主張する外道 | ||
有限の禅定体験 | 有限の禅定状態が我である | 禅定至上主義 | ||
無限の禅定体験 | 無限の禅定状態が我である | |||
有限・無限の禅定体験 | 有限や無限の禅定状態が我である | |||
推論による妄想 | 我は有限でも無限でもない | 「釈尊はアートマンを否定していない」と主張する外道 | ||
色界・無色界禅定体験 | 色界・無色界の心一境性が我である | 禅定至上主義 | ||
欲界定体験 | 欲界の散乱した心の状態が我である | 遊びやスポーツに夢中になるゾーン体験 | ||
極小の遍による禅定体験 | 極小の遍による禅定状態が我である | 遍在する我と宇宙(梵)の我は一如である(梵我一如) | ||
広大な遍による禅定体験 | 広大な遍による禅定状態が我である | |||
色界第 3 禅の禅定体験 | 楽(禅支)が我である | 霊感体質(天眼通による観察)、浄土信仰(中国仏教) | ||
地獄の体験 | 苦が我である | 霊感体質(天眼通による観察)、餓鬼信仰(儒教) | ||
人間界の体験 | 楽(禅支)と苦が我である | 苦あれば楽あり。文学的人間至上主義。 | ||
色界第 4 禅の禅定体験 | 捨(禅支)が我である | 霊感体質(天眼通による観察)、苦楽超越(タオイズム) | ||
無想論 | 色界禅定体験 | 遍の浄色そのもの、精神状態が我である | 禅定至上主義 | |
無色界禅定体験 | 無色界の精神状態が我である | ニガンタ・ナータプッタ(推論妄想) 禅定至上主義 | ||
色界・無色界禅定体験 | 色界や無色界の精神状態が我である | 禅定至上主義 | ||
推論による妄想 | 我は有色でも無色でもない | 「釈尊はアートマンを否定していない」と主張する外道 | ||
有限の禅定体験 | 有限の禅定状態が我である | 禅定至上主義 | ||
無限の禅定体験 | 無限の禅定状態が我である | |||
有限・無限の禅定体験 | 有限や無限の禅定状態が我である | |||
推論による妄想 | 我は有限でも無限でもない | 「釈尊はアートマンを否定していない」と主張する外道 | ||
非有想非無想論 | 推論による妄想 | 遍の浄色そのもの、精神状態が我である | 有想でも無想でもないという考え方自体が 推論による妄想の一種であろう (大乗仏教の空論やヒンドゥ教のマーヤー論) | |
無色界の精神状態が我である | ||||
色界や無色界の精神状態が我である | ||||
我は有色でも無色でもない | ||||
有限の禅定状態が我である | ||||
無限の禅定状態が我である | ||||
有限や無限の禅定状態が我である | ||||
我は有限でも無限でもない | ||||
断滅論 | 肉体死 | 物質的肉体が生命の全て | 多層型生命観(大乗仏教の唯識論や神智学) | |
欲天の死 | 物質的肉体〜欲天の体が生命の全てである | |||
色界の死 | 物質的肉体〜色界の体が生命の全である | |||
空無辺処の死 | 物質的肉体〜空無辺処の体が生命の全てである | |||
識無辺処の死 | 物質的肉体〜識無辺処の体が生命の全てである | |||
無所有処の死 | 物質的肉体〜無所有処の体が生命の全てである | |||
非想非非想処の死 | 物質的肉体〜非想非非想処の体が生命の全てである | |||
現世涅槃論 | 欲界における五欲の快楽 | あの世とは他ならぬこの世のことであり、 重なっている | 豚の人生 | |
色界第 1 禅の快楽 | アジタ・ケーサカンバリン サイケデリック LSD ヒッピー文化 | |||
色界第 2 禅の快楽 | ||||
色界第 3 禅の快楽 | ||||
色界第 4 禅の快楽 |
- 註釈が、ニガンタ・ナータプッタを、無色界禅定体験に基くものに配当する一方で、推論・妄想としていることから、推論・妄想というのは、十分条件を示しているものではなく、必要条件である。つまり、推論・妄想を根拠とするものとカテゴライズされているものは、他の根拠がありえないという意味であり、他の根拠は、推論・妄想をも含むことができる。
- 神智学は、全体として断滅論を意図している思想ではなく、アバター思想の体系だろうが、ここでは単に、エーテル体やアストラル体などの分類を、断滅するものベースで行ったという解釈である。
- 梵網経で網羅されている「62 見」というのは要するに邪見のことであり、お釈迦様自身の見解である正見は含んでいない。
- この経を「見解を持つこと自体を否定することを説いた経である」と解するのは、短絡思考的誤解であり、結局は邪見に陥っている。
- 邪見が邪見であるゆえんは、そもそも、62 見が、現世の我と世界を 100% 肯定することを「暗黙の」前提として出発して(過去生やあの世への見解に至って)いることによる。「暗黙」ではなく、そのことに正念(サティ)があれば、釈尊の言われるように、自ら如実に知りながら、しかし、執着しないことになる。つまり空性である。
- だから、単に、62 見を、自ら如実に知らずに、妄想に過ぎない(空即是色だ、マーヤーだ)と、否定・拒絶しているのは、仏教のつもりで仏教ではなく、これもまた実は邪見であり、大乗仏教の陥った罠である。
──という風に解してみた。
しかし、凄いね。梵網経というたったひとつの経典を丁寧に読み込んだだけで、あれだけ凄そうに喧伝されている大乗仏教の空論を含めた諸々の邪見を、僕ごとき悟ってもいないペーペーのテーラワーダ仏教徒が経典を振りかざしてたったひと撫でしただけで、秋霜烈日の如く消し飛ばせるとは(別名を「最上の戦勝経」とも言うらしい)。こんな凄まじい経典を説いた仏陀のご威徳というものを、推して知るべし。