正念・正知

今、念処経で、研究中なのが、行住座臥の「威儀の部」のうち、行(歩行時)における正念・正知の実践である。本来は行住座臥の全てのあらゆる行動を通じて、一日中、念を継続し続けようとする目的なのだと思うので、そこから行の部分だけを取り出しても、本来の意図は満たしていないと思う。どちらかというと、次の「正知の部」の身体の動作を密に随観するものとのハイブリッドのようなものになるかもしれない。一方で「正知の部」ほど濃密にはやっていないと思う。おそらく、経行(いわゆる歩行瞑想)やスマナサーラ長老が指導されている物を動かす修行法などは「正知の部」に基くものだろう。

普通に、最寄り駅まで 15〜20 分程度歩くのに、特に歩き方を経行化するようなことはせず(というか社会生活上、公道でやるのは中々はばかられる)、普通のペースでスタスタ歩く。外形上は変えないで、その時の意識の持ち方だけを、随観でやる(正念・正知的に行う)という工夫である。

結果的に、これは、ウォーキングをやっている人たちの様子に近い。視線を真っ直ぐ前に据えて、一方で何か用事のことについて考え事をしながら歩いているわけでもなし、若い女性によくありがちだが、すれ違う人の視線を意識して目線を逸らしながらすれ違ったりするわけでもない。ただ、視線を真っ直ぐ前に据えて、スタスタと一定のペースでロボットのように歩く。

また、サングラスなどで眼の表情が隠れていると、人に奇異な感じを与えることを、さらに緩和できるかもしれない。

この時、随観状態(=正念・正知のつもり)を確立するコツを工夫している。阿羅漢でもない、我々凡夫は、無我状態に至っていないのであるから、基本的に自我意識があり、その自我意識の「中から」、外界を観て、経験・行動している。随観というのは、この外界を見るポイント(要するにこれぞ「念」だと思う)を、この自我意識の外縁ギリギリまで寄せて置くのである。そして自我意識の「中から外へ」意識を向けるのではなく、外縁の表面、外側から自分を観る(把握する)のである。これが僕の随観感覚である。

ゲームの経験がある人ならば話はわかりやすいのだが、FPS(一人称視点の射撃ゲーム)では、マウスやアナログスティックのコントローラーで、視点をポイントする。そのポインターを中心に視線が動き、その視点に導かれて、移動するのである。

スマナサーラ長老の Q&A では、「幽体離脱のような形で、自分で自分を観察しているような感覚になる」というような意見を言っている質問者もいたが、その場合はゲームで言うと FPS というよりは TPS(三人称視点の射撃ゲーム。プレイヤーのキャラクターが画面の中に表示され、プレイヤーはその背後霊のような視点でゲームを観ている)というイメージになる。自我意識の「中から外へ」ではないという点では、三人称視点も悪くはないのだが、一方で妄想に陥いる可能性もある気がする。見えている光景はあくまでも一人称視点だが、その意識の視線の方向が(自我意識の表面付近を基点として)「外から中へ」というのが、僕の意見である。

で、視野の中で視点がポイントしているのが念であり、その念ポインターに引っぱられるような感じで、手足をジタバタさせて、CG のキャラクターが動くような人工的な感じで、歩いていくのである。FPS でゲームキャラクターを移動させている感じで、自分を歩かせる。

──この場合の視野全体と、視点の関係が、(念処経ではなく沙門果経の)正念・正知の前段階として説かれている、感官の防護のコツと合致することを発見した。

比丘は、眼によって色を見る場合、その外相を捉えることもなく、その細相を捉えることもありません。

片山一良・訳『長部 戒蘊篇 I』(2003-04-21、大蔵出版)

視野全体の風景(外相)に注目しているわけではなく、単に、視野全体のどこの位置に視点(念)をポイントするかだけに関心がある。また視線の先にある特定の人だったりという視線がポイントしているターゲット(細相)に注目しているわけでもない。

ちなみに、ここで視線(念)がポイントしているターゲット(細相)に、まるで狙撃手がライフル銃のスコープで狙いを付けるように、意識をレーザーのように集中するのが定(サマディ)の例えになるだろう。一方、風景(外相)に気を取られるのは、失念=放逸であり、欲界に囚われた状態であり、キッダーパドーシカになって欲天には行けるかもしれないが、色界には行けない。

これが最近、僕が工夫している随観の確立方法である。


スマナサーラ長老の Q&A で、「身随観がよくわからない、受随観ならわかるのですが」というものがあった。

お腹の動きにせよ、足の動きにせよ、その動きを感じるのは、触覚という感覚を通じてだから、受随観ならわかるが、どうやって身随観をすればよいのか? という疑問なわけである。

これもまた、随観に関する誤解だと思う。身随観とか受随観の、「身」とか「受」というのは随観する「対象」で区別している。つまり、正念・正知=把握する対象が「身」とか「受」であればよいのであって、例えば、「身」の動きを把握するのに、触覚を通じて把握しても、何も問題ないのである。

身随観の場合は、それがただの物体として、動いたり、パーツによって構成されたりしているのを把握(正知)する。

受随観の場合は、どんな感覚であっても、楽・苦・不苦不楽という、刺激情報が発生しているに過ぎないことを把握(正知)する。

いずれにせよ、自我意識の「中から外へ」意識方向を向けて体験していては、随観状態の確立に失敗しており、このような把握(正知)にはならない。

自我意識の外縁ギリギリまで念を寄せて(正念)、自我意識の「外から内へ」身や受を把握(正知)する=随観状態にするから、その間は、不放逸の状態が保たれ、無常・苦・無我を悟る、ヴィパッサナー的発見のチャンスが生じるようになるのである。

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