ジャータカ 147 話「はりつけにされた男」

ジャータカをデジタル写経していて、ちょっとショックを覚えた話に遭遇した。147 話の「はりつけにされた男」である。

ジャータカで、来世で地獄行きになるケースというのは、大抵が、デーヴァダッタの役どころであり、要するに仏敵レベルの相当極端な、ある意味分かり易い極悪人の悪業の場合である。

そうではなくて、一般的な人々で来世に地獄行きになるケースというのがあまり挙げられていないように思われる。また、一般的な悪人の例が出ても、その生で悪い結果になって命を落とすとかであり、死んでさらに来生で地獄行きになった、という表現がされているのは(デーヴァダッタや異教徒のような仏教教団と敵対する分かり易い極悪人の場合を除いて)、あまり憶えがない。

ところが、このジャータカ 147 話では、一般人の男が、女(妻)への愛執のあまり、女に望まれるままま、王の庭園から花を盗もうとする犯罪を犯し、死罪となる。その結果、単に男は現生で刑死するばかりでなく、来生で地獄に落ちた、とされているのである。


もちろん、所詮はジャータカであるし、ただ一つの話で、こうだったからといって、それを基準に一般化して適用しようとするような重要視の仕方をするようなものではないかもしれない。しかし、この話が、特に、三蔵やジャータカの中で異質なもの、異端な考えを述べたもの、というものでない限り、基本的には、仏教の考え方を敷衍して語られている物語の一つであるはずである。

つまり、一般論的に、愛欲というものは、地獄行きの原因となる、有力な業だということになる。


これまで、自分は、地獄行きというのは、瞋恚(怒り)が原因という風に単純に考えていたので、ぱっと見、怒りとは無縁そうな、女への愛執を抱きつつ、処刑されて死にゆく男が、地獄行きになるという、この話のケースに、ちょっと不意打ちを喰らったような気持になったのである。

だって、世間のメロドラマなんて、「(あの人への)愛のためになら死ねる」なんてのがほとんど金科玉条みたいではないか。あまりにも、地獄行きが溢れ返っている状況ではないか。


そもそも、このジャータカでは、男自身は犯罪行為を渋るものの、愛する妻にせがまれて、結局は、道徳観念よりも、愛する者を喜ばせることを優先してしまうのである。つまり、「愛は盲目」という状態が、地獄行きをもたらしたのである。

このメカニズムからすれば、「(身内の)女子供を守るため」という大義名分で、自分を犠牲にして、社会から犯罪紛いの悪どい金儲けをしたりする企業戦士、お国のために出兵して戦争に直接加担する行為(太平洋戦争時の日本や、事あるごとに世界中のあちこちに派兵して軍事介入するアメリカ主導する NATO、今のロシア・ウクライナの戦争)だって、厳しい。皆、愛する者のために、自分は悪業に手を染めながら、世間から利益をもぎ取ったり、他者を殺戮したりする。しかし、どんなに「愛する者のために」とか「神国のために」などと、大義名分を喧伝したところで、それは地獄行きの免罪符とはなりえない。

愛のために盲目になる。そこが、おそらく、瞋恚と原理的に同じということなのかもしれない。新興宗教などの「狂信」状態と同じというか。こういう人たちにとって、愛にせよ、信仰(≒神に対する愛)にせよ、盲目(という瞋恚に駆られた、我を失ったバーサーク状態)になるための自己正当化手段に過ぎないわけである。(同じ三毒同士でも、貪欲は瞋恚とは排他的な要素で、盲目になるのとは反対に、あれもこれも目に入って心を奪われ、手放そうとしないのだろう。)

いわゆる、表面的には「怒り」だけでなく、要するに「情念深い」というのが、不味そうなのである。テレビドラマで俳優がやってることが、この「情念深さ」の演技である。怒りの表現だけでなく、喜びにしても、何にしても、喜怒哀楽、わざとらしく、できるだけ視聴者の心にさざなみを起こすように努力する。俳優の側は結局、仕事で、技術としてやっていることだが、それを歓迎して喜んで視聴するのを好む視聴者の方は、どうなんだろうか? ああいうのに価値を認めて、歓迎する。そんな価値観は、本当に良いことなのだろうか、仏教的に?


そんなようなことを考えたりして、ちょっとショックを受けたエピソードであった。

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