ありがとう 松本零士先生『劇場版 銀河鉄道999』YouTube 期間限定公開
既に公開期間は終了したが、松本零士の訃報を受けて、YouTubeで『劇場版 銀河鉄道999』が期間限定で公開されていた。その機会に観賞して、パーリ仏教的に、いくつか考察したことがある。
『銀河鉄道999』は原作漫画やテレビアニメと、劇場版とでは違いがあるし、またさらに劇場版の続編『さよなら銀河鉄道999』にせよ、一旦完結した後の時を隔てて構想された続編であるエターナル篇でも後付け的に設定が変更されていっている面もあるため、この記事では基本的に、『劇場版 銀河鉄道999』をベースとするものとする。
(以下、ネタバレ含む)
- 機械化人間たちは、ヤッカ(地上にいる神霊・デーモンの類)である。
- メーテルの母である女王プロメシュームは他化自在天(魔)である。
- 機械化母星メーテルで部品化された人々は楽変化天である。
- メーテルは楽変化天である。
- メーテルの父であるドクター・バンは無色界梵天である。
- 機械化母星メーテルがメーテルの本体であり、その崩壊と共に、実際にメーテルは(一旦)死んでいる。
- アルカディア号に意識を移したトチローは、梵天になった。
- キャプテン・ハーロックや、クイーン・エメラルダスは、沙門の一種である。
- まとめ
機械化人間=ヤッカ(夜叉)
この作品の中心テーマは、「永遠の命」vs「有限の命」である。機械化人間=永遠の命、生身の人間=有限の命という構図である。そして、松本零士は、「永遠の命」自体を否定してはおらず、本音ではむしろ肯定的に思われる。その「永遠の命」に対する肯定と憧憬は、主人公の星野鉄郎とその母との間の会話、アルカディア号に意識を移したトチローに表現されている。
しかし実際には、読者である我々も作者自身も、現代の技術力では機械化による半永久的な命は達成不可能であるから、物語のドラマ上、「永遠の命」を否定し、「有限の命」を正解として、「有限の命」でいいのだと、「有限の命」の方がいいのだと、納得できるようにする方に、大人の事情的に物語を価値観付けているのである。
もし、大人の事情でなく、本当に「有限の命」こそ素晴しいのであれば、(作者松本零士自身の投影でもある)トチローがアルカディア号に魂を移すことで命を存続させている件は明らかに反している。そして「永遠の命」を良いものと語った鉄郎の愛する母の考えにそもそも反している。
結局、機械伯爵に母を殺されたという、個人的な私怨を、無理矢理に機械化人間対生身の人間という人種問題(レイシズム)にすり替えているだけなのである。機械化人間は一般的には「永遠の命」ゆえ、生身の人間に冷淡な傾向があることは事実だが、中にはクレアやリューズ、そしてメーテルのように、鉄郎に好意的な人々もいるのである。
つまり、物語の構成的に色々と誤魔化してはいるが、銀河鉄道999 は「永遠の命」が悪いという話にしたいわけではないのである。「何だかんだで、『有限の命』でもいいよね」と、色々と理由をつけて、言い聞かせて、納得しようとする形で、ヒューマンドラマが描かれているだけで、「永遠の命」自体のメリットを直接否定する理由は一つも示せていないのである。
機械化人間たちは、ヤッカ(地上にいる神霊・デーモンの類)である
さて、物語の中心テーマが「永遠の命」だということを踏まえた上で、「パーリ仏教的の知見から分析すると、機械化人間たちは、ヤッカ(夜叉)に相当する」という本題に戻ろう。「永遠の命」とはいうものの、実際には、「半永久的」ということであり、不死身ではない。つまり、生身の人間からしたら、ほぼ永遠というだけであり、これはパーリ仏教で言う、人間・畜生以外の化生(梵天・欲天・餓鬼・地獄)の生物に相当する。化生の生物は、生身の人間・畜生に比べて、非常に長命である。また、ヤッカという名称は、狭義には(四王天の支配下にある)地上の化生を指すが、時には三十三天の王サッカを指すなど、広義には化生の生物を指すと考えていいと思う。要するに、住む場所が違ったり格が違ったりするが、広義にはヤッカというのは日本語でいう神霊全般を示す。
機械化人間というのは、結局、人間に対する、ヤッカを示していると見ることができるのである。
もちろん、松本零士が「パーリ仏教の知識を背景として、銀河鉄道999 を構想した」と言うつもりは、毛頭ない(たとえ、意識的にせよ無意識的にせよ、松本零士に仏教の宗教観的な影響があるとしたら、あくまでも和製仏教のものでしかないはずである)。そうではなくて、フィクションを構想する場合でも、世の中の読者に説得力のある物語構造にしていくと、結局は一定の構造に収束していくこととなり、それが結局、パーリ仏教によって 2500 年前に既に説き明かされている六道輪廻構造と類似することになっても、決して不思議なことではないのである。
鉄郎の母を人間狩りで殺し、死体を剥製にして飾った機械伯爵の残虐性は、狭義のヤッカ(悪鬼)の性質をよく示している。現代の日本やキリスト教の宗教観で言うと、悪霊(デーモン)の類でありオカルト話でも、通常の幽霊と違い、祈祷師や神主や仏僧ではお祓いができない強力な怨霊に相当する。パーリ仏教では、幽霊=餓鬼が有害だとは見做されておらず、人間を食べたりして危害を加えるのはヤッカである。
(一方で、クレアやリューズのような鉄郎に好意的な機械化人間の場合は、パーリ仏教のヤッカでも、樹神や門神などの人間に対して友好的なタイプのものに相当するだろう。)
そしてもう一つ(僕のパーリ仏教についての知見からすると)、化生の生物(広義のヤッカ)は生身であった時の生前の記憶を保っているという点が挙げられる。一方で、生身の生物に転生した場合は、通常、前世の記憶が途切れる。つまり、「生身(人間・畜生)→化生」の場合は人格的な連続性が保たれ、「化生→生身(人間・畜生)」や「生身(人間・畜生)→生身(人間・畜生)」では人格的な連続性が保たれない。
つまり、銀河鉄道999 において、「生身→機械の身体に魂を移す」ということが、「生身の人間が死んでヤッカに化生して転生する」のと同じことを意味することになるのである。
パーリ仏教以外の宗教観
和製仏教と神道をベースとする現代日本の宗教観のみならず、西洋のキリスト教等の宗教、要するに非パーリ仏教の世界において全般的に該当するのだが、思想のベースにあるのが、常住論的宗教観であるという点である。そしてその常住論的宗教観を出発点として、反宗教観としての唯物主義がある。パーリ仏教は、この両者を、典型的な邪見に基づく妄想に過ぎないとして長部経典の第 1 経である梵網経で斬り捨てている。
もちろん、パーリ仏教でも、「名・色」という風に、精神と肉体の二元性で捉える見方もする。しかし、一般的に非パーリ仏教徒は、邪見により、この精神を魂=アートマン(個人の人格の本体)と考える。そこを出発とするのが特徴である。宗教を信仰する人々であっても、宗教を否定する唯物主義者であっても、ここは共通している。彼らの間で対立しているのは、魂というものが、肉体が滅んでも存続する(常住する)のか、肉体が滅んだら魂も滅ぶ(断滅する)のかという点に過ぎない。これに対して、パーリ仏教徒は、最初(肉体が滅ぶ前)から、精神すら自我(魂)であると見做さない。要するに無我。
松本零士の描く銀河鉄道999 の機械化人間の是非を巡るメインテーマも、所詮は、非パーリ仏教的価値観の典型として、「魂」という発想についての疑いは皆無であり、その疑念の余地のない、魂の器としての生身の肉体と、機械の身体との問題として描かれているのである。
機械化人間はいわゆるサイボーグではない
松本零士以降の時代の SF ではサイボーグが描かれたものは珍しくはないが、基本的に脳は生身のままであったりと、そうでなくても、士郎正宗の『攻殻機動隊』のように、情報(ソフトウェア)と記憶装置(ハードウェア)という形で脳を捉えたものであったりする。しかし、銀河鉄道999 の場合は、意識を情報として捉えているものではなく、かなり「魂=自我」寄りである点で、一般のサイボーグの観念とは異なっている。そのため、機械の身体から、冷凍保存された元の生身の身体に戻ったりすることも可能とされているし、トチローは単に彼の記憶をアルカディア号のコンピューターに送ったというわけではなく、彼の魂(自我意識)が宿った形になっている。銀河鉄道999 の世界で機械化によって移されるのが情報であるとしたら、機械の身体と元の生身の身体の二人の人間が同時に存在できることになるが、元の生身の身体は抜け殻になってしまうことから、これは情報ではなく魂を移動させていることになり、サイボーグの観念とは違うのである。
銀河鉄道999 の機械化人間というコンセプトをよくあるサイボーグ化と思って考えると、機械化人間がヤッカであるという発想には結び付かないだろう。しかし、意識情報はそのまま身体を機械化する通常のサイボーグ化ではなく、銀河鉄道999 の場合魂が生身の肉体から抜けて別の機械の肉体に転移しているのだから、これは人間が死んで化生してヤッカに転生するのと同じだと気付くことができるわけである。
女王プロメシューム=他化自在天(魔)
メーテルの母である女王プロメシュームは、メーテルを手先として使って夢見る若者を騙して機械化母星メーテルに連れて来て、彼らを魂のある機械として機械化母星メーテルの部品にする。これはパーリ仏教で言うところの、一種の他化自在天(魔)の力に相当すると言ってよい。他者をマインドコントールにより自在に操るのである(cf. 六欲天)。
また「六欲天」の記事で考察したように、これは一般の盲信的世界観をベースとする宗教と対応しており、それらの宗教構造・組織に身を捧げて狂信的に盲信する状態が、惑星の機械の部品となって身を捧げる銀河鉄道999 の設定とよく対応しているのがわかる。このような狂信状態に導く、マインドコントロールする側が他化自在天であり、他化自在天にマインドコントロールされる側が楽変化天であると言えるのかもしれない。
機械化母星メーテルの部品化された人々=楽変化天(または……)
機械化母星メーテルの他の部品化された人々は、女王プロメシュームによって機械に変えられているので、楽変化天に相当すると考えることもできる。
一方で、彼らの自由意志が介在していないので、むしろ宗教的妄想によって狂信状態に陥った地獄の住人と解釈することもできる。ドクター・バンに扇動されて反機械化運動という激しい憎悪・復讐心に囚われているとすれば、その解釈でもよい。
メーテル=楽変化天
メーテルも同じく機械化母星の部品であるが、他の部品化された人々との立場の違いは、同じ機械化母星メーテルの部品であっても、メーテルは女王プロメシュームの実の娘であるので機械化母星の頭脳・心臓部としての部品の地位を与えられている点。
メーテルは、母プロメシュームによって、様々な(通常の機械化人間とは違う生身のような特別製の)身体を与えられ、身体が老化(老朽化)すれば新しい身体をもらい、永遠の命を保ってきた。つまり、他化自在天によって自由な身体を取り替え引き換えしており、その点からも彼女自身は楽変化天のようなものである。
より一歩進んだ解釈をすれば、機械化母星の頭脳・心臓部としての部品の地位を与えられているメーテルは、その意識を人格化したアヴァターとしての分身をプロメシュームから与えられていると考えることもできる。つまり、本来的には、機械化母星の頭脳・心臓部の部品であるメーテルの方が本体であり、鉄郎と行動を共にする人型の身体をもったメーテルの方が分身・アヴァターのはずである。彼女がドクター・バンのペンダントを自分の手で投げ入れて機械化母星メーテルを破壊することができなかったのも、当然である。
ドクター・バン=無色界梵天
ドクター・バンは、メーテルのペンダントの中に魂を宿した状態となっており、基本的には、身体のない状態、要するに魂だけの状態のようなものである。これは無色界梵天に対応する気がする。
パーリ仏教では欲天の他化自在天・楽変化天はどちらかというと忌避されるが、同様に無色界梵天も忌避される。世俗の宗教は他化自在天と縁が深いが、一方で唯物主義というのは、無色界梵天と縁が深いのではないかと、僕は考える。
唯物思想というのはマルクス主義ひいては共産主義と関係が深い。かつてのソビエトや、現在の中華人民共和国では、宗教を敵視し、徹底的に弾圧する(ex. 中国政府によるチベット弾圧)。
このように、世俗の宗教と唯物主義は敵対関係にあり、どちらかというと唯物主義側が世俗の宗教側を攻撃する。
つまり、銀河鉄道999 の世界で、機械化主義のリーダーである女王プロメシューム(世俗の宗教=常住論)と反機械化主義のリーダーであるドクター・バン(唯物・マルクス主義=断滅論)が敵対するのは当然である。左翼の学生運動のように、ドクター・バンがメーテルに陰で指示して、同志を部品として機械化母星に送り込み、彼が機械化母星の心臓部に投げ込まれることで、一斉蜂起して、機械化母星メーテルが崩壊するというのは、唯物思想によって、他化自在天のマーヤーによるマインドコントロールから解かれ、部品としての楽変化天としての人生から覚め、死没するということを意味する。
パーリ仏教的には、もちろん、ドクター・バンも、彼の同志の部品化された人々も、単に死んで次の別の人生に転生したと見る。しかし、銀河鉄道999 は、日本の非パーリ仏教的な宗教観をベースにしているので、単に「死んで彼らの人生は終った」という物語的な扱いになる。つまり、死んで尊い犠牲になって、女王プロメシュームをやっつけることに貢献したという扱いで思考が止まる。
機械化母星メーテルの崩壊と共に、実際にメーテルは死んだ
先述したように、メーテルは機械化母星メーテルの頭脳・心臓部としての彼女が本体であり、人型の身体はその分身・アヴァターに過ぎない。従って、彼女もまた、ドクター・バンや同志の部品化された人々と同様に、機械化母星の崩壊時に、死んだのである。
非パーリ仏教的な宗教観からすると「人型のメーテルが残っているのだから、死んではいないじゃないか(ひいては、機械化母星が本体ではなく、人型が本体と考えられるのではないか)」という意見になる。しかし、先述したように、それでは、メーテルが、ドクター・バンを心臓部に投げ込めなかったことの説明ができなくなる。
パーリ仏教的な思考をすれば、簡単に解決できる。つまり、死んで、次に転生する。メーテルは(一旦)死に、アヴァターだった人型の方の身体に、転生したのである。
アルカディア号に意識を移したトチロー=梵天
機械化されたという点では、トチローも同じだが、彼の場合は人型ではなく、アルカディア号という宇宙戦艦である。ここが一般のヤッカや欲天の神と違うところである。彼は人型の身体を失ない、一般の五欲を享受できない身体となっている。つまり、これは梵天を意味している。もちろん、パーリ仏教的には、梵天も人の姿を持っているから、そのままではないのだが、銀河鉄道999 の世界では、一般の人間としての五欲を享受できない身体になっているという意味で非人型の宇宙船が梵天に該当すると考えればいいのである。さらに、アルカディア号は、宇宙海賊ハーロックの一味を守る揺り籠のような存在であり、そういう点でも梵天の立場が相応しい。
キャプテン・ハーロックやクイーン・エメラルダス=沙門
世間のルールに囚われず、自由に宇宙を往来するキャプテン・ハーロック一味や、クイーン・エメラルダスは、パーリ仏教世界の「沙門」に相当すると見做すことができる。
ハーロックは多くの仲間を引き連れているので、菩薩や正覚仏陀的である。一方、エメラルダスの方は孤独なので、ヒマラヤに籠もる仙人や独覚仏陀的である。
まとめ
機械化人間というのはヤッカ(化生の生物)であり、生身の人間である主人公星野鉄郎による、彼ら悪霊・悪鬼との闘争の物語が銀河鉄道999のメインテーマである。さらに鉄郎個人の復讐劇を左翼のマルクス主義的学生運動化することで、社会的な闘争として大げさに風呂敷を拡げている。
一方で、プロメシューム・メーテル母娘の、機械化人間としての特殊性は、彼女らが一般の地上のヤッカではなく、天神的存在という点である。彼らの場合、地上に存在する身体は、分身・アヴァターでしかなく、本体は星そのものという天体的存在である。
プロメシュームすなわち、他化自在天(魔)は、各種の俗世間的な宗教のカリスマ的盲信の首謀者的存在だが、その手下としての楽変化天すなわちメーテルがそのようにして妄想的ファンタジーによって若者を騙して宗教組織の有能な歯車として人生(肉体生命)を捧げさせていたのである。
一方で、メーテルの父ドクター・バンは、(肉体生命だけではなく、化生としても)身体がなく魂だけのような存在であり、いわゆる無色界の生物である。無神論者が死後に行きそうな境地であり、宗教的妄想ファンタジーにとっては相性が悪く、妄想ファンタジーによって繋ぎ留められていた機械化母星メーテルを構成する(他化自在天によって部品にされた)奴隷的な(楽変化天)の生物たちの妄想が、ドクター・バンによって吹き飛ばされてしまい、その楽変化天としての生命を保てなくなり、死没し、機械化母星は崩壊したのである。メーテルもその部品の一つではあるものの、母のプロメシュームによって、頭脳の部分としての立場が与えられていた。なので、単に死没して別の生命体になるというよりは、鉄郎との関係性による人格を引き継いで連続性を保ったまま転生することが可能だったと言える。
つまり、パーリ仏教的な(無我ベースの)輪廻転生の概念が文化・社会的に存在しない、現代日本の宗教観(魂=個我ベースの輪廻転生観)がベースとなる銀河鉄道999では、肉体または機械の身体にせよ、器としての身体が死ねばその中の魂が失われてしまうという前提で描かれている。なので、転生しても、人格的連続性がなければ、それは死んで消滅してしまった存在という扱いである。機械化母星メーテルの崩壊時に、犠牲になった部品化された人々とドクター・バンは(仏教的には死んでかつ転生したことになるが、人格的には不連続的であり)銀河鉄道999の世界観的には単に死んでこの世界から退場したという解釈になる。一方、メーテルも本当は仏教的には死んだのだが、転生して同じ人格的連続性を保った状態で転生したので、銀河鉄道999の世界観的には死んでいない(この世界から退場していない)という解釈になる。
このあたりはやはり、魂という形の常住論的発想でしか、転生というものを理解できない非(パーリ・テーラワーダ)仏教的宗教観による二因者的知性の限界なのである。彼らにとっては、魂が失われるのが、死ということである。魂(名色の名)も無常だという発想の輪廻転生観であれば、魂による人格的連続性を前提とした死生観や輪廻転生観に囚われることはない。囚われなければ、機械化母星メーテルの崩壊とともに、メーテルも(一旦)死んだと見做せるのである。
(「パーリ」とは「正典・聖典」の意である。対語となるのは、「偽典・邪典」ということになるだろう。つまり、パーリ仏教と、非パーリ仏教というのは、そのような関係性にある。)