戦国時代の先祖霊

動画の 2 話目:

このエピソードは、とある武家の直系の子孫に嫁入りした女性が離婚の危機に瀕していた頃、夢の中で夫の先祖らしき鎧武者と赤ん坊を抱えたその奥方に、血筋を絶やさないで欲しいと懇願されたというものである(結局、後に夫との仲は改善し、二人の男児にも恵まれた)。その女性自身は嫁入りした身であり、当家の歴史にあまり詳しくなかったが、その女性に歴史研究の聞き取り調査でインタビューしていた歴史専門家である話者は、その武家が、戦に負け、落城時に辛うじて、子供だけを逃がし、その子供の直系の子孫がその夫の家系であることを知っていた。──というものである。

このエピソード自体は、オカルト話とは言っても、怖い系・怨念系のものではなく、むしろ先祖が今も子孫を心配しつつ見守っているという、どちらかというとしんみりとした系の話である。

──とはいえ、ここは仏教(、もちろんエセ仏教ではなく、真正のパーリ仏教)的な観点で、メカニズム的に解析してみたいと思う。

現代は戦国時代からもはや 500 年近く経過している。しかし、このエピソードのご先祖様夫妻は、戦に負けて落命したその時から、ずっとその状態に留まり続けているのである。つまり、落城時、子供を逃がして、自分たちの子孫を絶やさないこと。その死亡時の一念(思い)のまま、ずっと現代まで残存して転生しないまま前世の自我に引きずられたままでいるわけである。

確かに、テーラワーダ仏教的には、生身の人間・畜生以外の(餓鬼・地獄・神々等の)化生の生命の平均寿命は非常に長い。というか、テーラワーダ仏教が、それらの寿命が長いと述べているのは、(お釈迦さまが言った、阿羅漢が言ったという言い伝えとして思考停止するのではなく)こういった実例に基づいていると、僕なら考える。

つまり、神通力や偶発・蓋然的に、人々が化生の生物と邂逅した様々な経験に基いて、彼ら化生の生物の様子を考察してみて、時間がほとんど経過していないことに気付くからである。

それはそうとして、一般に、先祖霊というのは餓鬼の一種とされる。このエピソードの場合、家系の守り神のようでもあるので、餓鬼と見なさなくともいいのではないか、神々の一種と考えてもいいのではないか、という風にも思えるが、やはり餓鬼の一種だと思う。

もちろん、三十三天のサッカのような欲天のデーヴァに転生した場合でも、前生の生身の時の記憶があり、子孫の心配をする、というジャータカ 450 話等の例もある。しかし、デーヴァであれば、前生の記憶があったとしても、前生の生身の状態に引きずられることはないはずである。また、このエピソードでは、「家系の存続」に対する強い執着が理由となっている。これは典型的な死後、餓鬼界に行くパターンであるといえよう。

輪廻の恐しさを目のあたりに見る

俗世間では、このエピソードのような、子孫を心配して見守る、などということは、家族愛的な美談にすらなりそうな話だろう。しかし、これが餓鬼道だと考えたら、どうだろうか? 500 年近く経っても、戦に敗れて落城して死ぬ、その時の姿のまま、その時の精神状態のままほとんど心理的時間が経過しないまま、その状態に縛りつけられているのだ。

輪廻は恐ろしい、その恐ろしい輪廻からの解脱のために修行に励む、などとは仏教では言われるが、そもそも「輪廻は恐ろしい」ということを、単なる受け売り、経典でお釈迦様が言われているから、という左脳的・耳知識的な理由、優等生的態度を取っているということ以外に、如実に、目のあたりに、輪廻を恐ろしいと実感して、「解脱したい!」と切望して、仏道修行を行っている人が、どのくらいいるのだろうか?

普通に俗世間的な価値観の中で生きていたら、家族に関することなど何らかの世俗的な価値観を心の中に抱いたまま、死ぬのが普通である。そうすると、確実に死後、その精神状態で心の状態がロックされたまま化生する。そして想像を絶するような期間、そのまま心だけが無限ループし続けるのである。

このように、生々しく、餓鬼道や(もっとひどい)地獄道に、肉体の死によって突入したくないと、切実に思えば、最低でも悪趣だけは避けたいと思うのは当然である。

そうではなくて、耳知識、優等生的態度で、善趣に行きたいとか、解脱したいとか、雲をつかむような感覚で、宣うのは、僕からしたら、本当に仏教がわかっているとはあまり思えない。

何しろ、釈尊は輪廻などの様々なことを「目のあたりに見て」説かれたのであり、一方、仏弟子は、そのように説かれたものとして経典を読まなくては、仏弟子と呼ぶのに不十分ではないかと思うのである。

女性が夫の先祖霊を夢で見たわけ

よくある餓鬼霊は地縛的なものが多いが、この女性は立場的なものが状況的に先祖の状態に近かったため、波長が合ってこのような形で見たのだと考えられる。

餓鬼供養

上のように考えてみると、先祖霊に「守られている」などと、悠長な受け止め方はするべきではないのかもしれない。むしろ、餓鬼の状態に縛り付けられているのだから、かなり苦しい状態であり、そういう意味で何らかの供養をしてあげようかと考えた方がいいのかもしれない。彼らの執着している物事を叶えてやる、ということではなしに。

日本の一般的な宗教観だと、こういう霊などを除霊・浄霊するなどということもあるようだが、パーリ仏教では、特にそんなエピソードはない気がする。お釈迦様が、餓鬼を浄霊するなどして、さっさと次の転生に向かわせる、とか寡聞にして知らない。(このあたりの設定、地蔵菩薩などが登場する大乗以降ではどう教えが狂っていったのかは知らないが)

もちろん、ヤッカなどと対話して、回心を促すということはある。しかし、餓鬼や(特に)地獄などの者に届く声など、基本的にはない。ほとんど死んだ瞬間の悪い心の状態に固着してしまっているのだから。

もう一つ考えられるのが、日本の一般的な宗教観というものは、餓鬼を見るほどの神通力のレベルから構築されたものではないということである。実際に彼らが知覚しているのは、ヤッカのレベルであり、ヤッカであれば多少のコミュニケーションと干渉は可能だろうから。幽霊を次の生に転生させることを「成仏」と言ったり、用語が無茶苦茶狂っているので、餓鬼でないもの(=ヤッカ)を餓鬼と呼んでも、用語的には不思議ではない。そもそも日本の一般的な宗教観は、無我ではなく我(魂)が転生するという、仏教からしたら正反対の外道思考の輪廻転生観なのだから。

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