とある仏教瞑想メソッド論を読んだ感想

スッタニパータの 4 章 と 5 章が最古層であることは定説になっているようだが、4 章の方が 5 章よりも古いのかどうかということは、定説なのか一部説なのかを調べていたら、ほとんど情報は見つけられなかったのだが、その作業の副産物として、とあるブログに行き着いた。

元のスッタニパータの件とは関係ないのだが、そのブログで述べられていた仏教の瞑想メソッド論(「上座部とミックスメソッド:主体の問題」)が少々ひっかかる内容だったので、僕なりの感想を述べたい。

基本的にここで述べるのは、当該ブログ記事を読んだ、僕の感想であり、当該ブログの記述についても僕の感想として「こんな風なことを言っているように思えるが」ということであり、実際に当該ブログの作者(morfo 氏)の意図を外している可能性は十分にあるし、ともかく目的としては、僕の感想を述べることにある。そのつもりで読んでいただきたい。実際の当該ブログおよびその作者 morfo 氏を批判したりする意図はなく、単に、僕の感想と、自分の感想の内容の各要素に対する反駁である。

当該ブログによる仏教のバージョン UP ヒストリー

  1. 上座部(パーリ三蔵)
  2. 大乗中観派(般若系経典)
  3. 大乗唯識派(唯識系経典・如来蔵系経典)
  4. チベット密教(金剛乗や任運乗)
  5. 欧米新仏教・morfo 氏自身(諸派の交流と現世肯定)

大乗から見た仏教史では、上座部が「初転法輪(第一話)」、空性を説く中観派・般若系経典が「第二転法輪(第二話)」、肯定表現で説く唯識派・唯識系経典・如来蔵系経典が「第三転法輪(第三話)」とされてきました。

その延長上で考えれば、金剛乗や任運乗が「第四話」であり、諸派の交流と現世肯定を特徴とする欧米新仏教(当サイトも一応、この困難な立場です)が「第五話」だと言えます。

このように、5 段階にバージョンアップしていく形で分類されているが、僕的には、1 から 2 へのバージョンアップの段階で「?」となってしまった。

このようなバージョンアップの論拠として、山下良道氏の「仏教1.0」「仏教2.0」「仏教3.0」といった表現を借りながら説明しているようなのだが、

大乗が生まれたことには必然性があって、それは、上座部は「本当の主体」に関する教説が不十分だったからだと。

大乗仏教は、如来蔵派の「仏性」に関する教説で、これを解決したということでしょう。

「本当の主体」とは、例の、外道の執着して止まない「アートマン(真我)」そのまんまでは?

もちろん、そこで言われているのは、認識の主体・客体という関係での「主体」を意図しているのはわかる。しかし、バラモン教たちのような外道にしても、別に、魂とかオカルト的な意味だけでアートマンのことを言っているのではなく、こういう認識論としてもアートマンを論じていると思う。そしてその上で、(大乗以前の)仏教は否定して「無我論」の立場を取っているはず。

なので、僕の感想としては、「上座部に不十分なところがある(主体に関する説明が乏しい)」という、最初の前提が有効に機能していないように思われるので、バージョン 2 以降へ進む必要性が感じられない。2 以降、バージョン 5 までは、要するに、その主体の扱い方をどんどんバージョンアップさせているわけで、バージョン 1 から 2 へ進む最初の一歩でつまづいていると、すべて砂上の楼閣のように感じられる。

山下良道氏のワンダルマとはこんな感じのもの(伝聞と感想)

  • 禅宗(曹洞宗) → ベトナム禅宗のティクナット・ハン → ミャンマーのパオ式瞑想
  • 主体も客体(対象)もない状態が「涅槃」
  • 上座部ではヴィパッサナーは対象を認識するものとされるので、主体と客体は別々の状態である
  • 上座部はヴィパッサナーという心を見る瞑想法がある(が、「本当の主体」を説明する教説がない)。大乗は「本当の主体」を説明する教説をもつ。この両者を止揚していいとこ取りすれば仏教をアップデートして完璧じゃん?

「本当の主体」を否定しているのに、教説が不十分も何もないように思われる。

それはいいとして、『主体も客体(対象)もない状態が「涅槃」』なのか? 主客未分の状態というのは、普通に、ごく普通に、ただの禅定状態のことではないのか? 主客未分の状態というのは単なる禅支の「心一境性」のことでしょ?

山下氏は経歴からしても、生え抜きの禅宗の人で、テーラワーダの方にシフトして行ったとはいっても、結局ベースは禅宗の考え方・思考フレームのままで、テーラワーダ的な素材を調理していたように感じられる。禅定状態で、認識している対象を、これは何なんだろうかと、ひたすら思索していくような。

そもそも同じ仏教を名乗っていても、目的からして、丸っきり違う、明後日の方向を向いている気がする……。

山下氏、morfo 氏、いや大乗以降の大乗系仏教は……。

そもそも龍樹の空論がいけない

そう、山下氏にも、morfo 氏にも、彼らに非はない。龍樹がいけないのだ。龍樹の空論がいけないのだ。般若心経が間違っているのだ。

仏陀釈尊を含む阿羅漢は、念が連続作動している状態になっているんじゃないかと思う。この場合、妄想が膨らむ余地がない。この「状態」を表して「空」と呼ぶ。別に、「空」や「無」を心の中に、禅定の対象(業処)として作り出しているわけではないのである。ところが、龍樹が空論でやらかしたことは、心を空にする「状態」の方ではなく、心に「空・無の状態」を業処のように描くことである。言葉では似ていても、この二者に決定的な違いと、後者に致命的な問題があるのだが、それをやらかしたのが、大乗仏教というやつだ。

以上、(他人や他人の文章を引き合いに出したのも含めて)全て、(それら対して主観的に感じた)僕の感想である。

仏教の目的

最後に感想ではないことを一言。仏教の目的は「迷いの生存」に終止符を打つことにある。「より高い・より勝れた境地」を目指すことにあるのではない。空論で「迷いの生存」に終止符を打つことができるのであれば、どうぞ。如来蔵で「迷いの生存」に終止符を打つことができるのであれば、どうぞ。金剛乗や任運乗で「迷いの生存」に終止符を打つことができるのであれば、どうぞ。諸派の交流と現世肯定による欧米新仏教で「迷いの生存」に終止符を打つことができるのであれば、どうぞ。

僕には、そのためには、パーリ仏教で必要十分な気がしている。

エピローグ

「願わくば、欲天や梵天にいる仏弟子(釈尊の直弟子)にそのあたりのことをインタビューしたいものだ」などと、友人に漏らしたところ、早速回答が得られた──かもしれない。そう、あくまでも僕の心の中での出来事として。

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