鎮魂法・帰神術

祭礼的儀式に関する部分は文化的伝統に関する部分なのでおくとして、宗教・スピリチュアリズム的に、神道の体系といえば、古神道にその実を見出すことになる。

ちなみにこの古神道の「古」は、実際に「日本書紀」等の時代から「古い」という意味ではなく、実際には幕末あたりから始まっているもので、その解釈の淵源を「日本書紀」等の古代のテキストに依っているという意味で「古」と称しているものである。そのような神道の行い方、行法そのものは要するに、「古神道」を称し始めた幕末〜明治初期から突如として始まったものである。おそらく、西洋の神智学運動の影響を直接・間接的に受けており、その神智学運動というのは、主に大英帝国期(ヴィクトリア朝)イギリスのキリスト教徒系のヨーロッパ人が、スリランカでテーラワーダ仏教と接触したことを契機としている。

古神道のルーツとして、本田親徳ちかあつの本田霊学が本流として挙げられる。現代に到るまで、神道系の新興宗教のほとんどは本田霊学がルーツのようなものである(中には川面凡児や宮地神仙道のような傍流もある cf. 松岡正剛の千夜千冊 1147夜「『鎮魂行法論』津城寛文」)。

ところで、上の松岡正剛の記事で取り上げられている津城寛文の『鎮魂行法論』だが、その本の論旨は、望月幹巳の「鎮魂帰神の意味世界──統合的解釈の試み──」という論文で批判的に検証されている。

つまり、本田霊学をルーツとする神道の行法は、凡そ、鎮魂法・帰神術に帰結することができるのだが、津城はそれをシャーマニズムの観点から分析するにあたって、鎮魂法=脱魂、帰神術=憑依と二元的に対応づけたのだが、望月はそれに異を唱えている。そもそも、僕が松岡正剛の記事や望月幹巳の記事に行き当たったのは、「鎮魂法・帰神術とはなんぞや?」ということを調べていたという経緯があったためである。僕自身としては、望月の論に賛成(津城の「鎮魂法=脱魂、帰神術=憑依と二元的に対応づける」に異議あり)である。

鎮魂法とは仏教の禅定修行のことである

表面的な形はそのままではないにせよ、「魂(心)を鎮める」というネーミングからしても、禅定のことを指しているに他ならない。

例えば、仏教では、カシナ(遍。丸い円盤に色を塗ったもの)を使った色界禅定の準備技法があるが、鎮魂法では、丸い石を使ってそれを見つめて、魂(心)を対象に固定するというような行法を行ったりする。川面凡児に至っては、瞑想して光が見えてくる云々と、仏教ではニミッタ(似相)としてよく知られているものを言っている。要するに、神道のいわゆる鎮魂法というものは、禅定修行の一種であるということがわかる。

帰神術

問題は、帰神術の方である。これについては、仏教との対比で考えようとすると、簡単には思い当たるものがない。神懸かりなどというような技法を修行するということは、仏教では基本的に聞かない。

その上、「鎮魂法・帰神術」というように、並列的に呼称されている割には、実際にテキスト(友清九吾『鎮魂帰神の原理及応用』等)を読んでも、帰神術に関する具体的な行法の情報が書かれていないのである。

つまりこれが津城寛文が件の論文で陥った罠であり、望月幹巳が批判している点に関わってくる問題である。

「鎮魂法・帰神術」と言った場合に、「鎮魂法」と「帰神術」を、シャーマニズムの「脱魂」と「憑依」のような対極的な関係にあるものと考えてはいけないのである。

「鎮魂法・帰神」と呼ばずに、「鎮魂法・帰神」と、後者に「術」の字を使っている点に注目しなければならない。つまり両者は対等の関係にある対極的なものではない。「法>術」という意味合いで、使い分けられている。

さらに、仮に「鎮魂法・帰神」だとして、「鎮魂法=脱魂」、「帰神法=憑依」であるならば、集合論的に「鎮魂法」≠「帰神法」である(∵「脱魂」≠「憑依」)。

しかし、実際には「鎮魂法・帰神」であり、集合論的に、「鎮魂法」⊃「帰神術」(帰神術は鎮魂法の部分集合)であると、僕は考える。

鎮魂法(禅定)の派生物としての帰神術

つまり、帰神術というのは、鎮魂法(禅定)の派生物としての応用的な技術なのである。これはちょうど、仏教で禅定修行の副産物として神通力を得るのに、そのまま相当する。

そう考えると、何のことはない、帰神術というのは神通として仏教的に分析すればいいのであり、天眼・天耳・他心等の神通として捉えればいいのである。

帰神術の自感・他感・神感の別

帰神術は自感・他感・神感の 3 法に分別され、自感法は行者自らが神懸かりになって神と対話、他感法は審神者によって神主が神懸かり状態にされて神と対話、神感法は人為によらず(神の側の)自発的な現象として神懸かりになることを指す。

帰神術が神通の類だと看破すれば、行法的には、本来、自感法こそが本命であることがわかる。自感法の対極にあるのが(他感法ではなく)神感法であり、これがいわゆる巫覡ふげきの類の憑依型シャーマニズムにあたる。この場合もちろん、自感法が脱魂型シャーマニズムである(これがシャーマニズムの二元論的観点の適切な適用の仕方である)。

そして、その脱魂型シャーマニズムと、憑依型シャーマニズムという、本来は二元論的なものを、止揚させた、シャーマニズム的行法の粋とでも呼ぶべきものが、他感法である。

自感法を習得して高位の神々との交流に達した行者(脱魂型シャーマン)が審神者として神界から神を引き寄せ、目の前にいる別の憑依型シャーマン(神主)に憑依させるのである。このことによって、脱魂型シャーマンで自己完結する自感法とは違って、その場にいる第三者に対する「神の言葉」の客観性を担保できるようになる。自感法の場合は、結局、行者の自己申告によることとなるから、行者の主観が混ざることが避けがたい。憑依中においては自我を失ってしまう、憑依型シャーマンを介して第三者に向って「神の言葉」を伝達することで、審神者の主観が混ざる余地を潰しているのである。

一方、憑依型シャーマンの方は、これはこれで、単独では、あまり使い物にならない。いわゆる、イタコやユタと同じで、霊媒体質であるから、通常は地上世界にいる霊を対象とし、憑依させる相手を選べる余地は限られている。高位の神々のいる神界に赴いて、彼らと接触する能力は、脱魂型シャーマンの能力であり、鎮魂法(禅定)で相当に修行を積んだ人間でないと不可能である。このように、審神者こそが神界からこの地上世界に神を連れてくるのであり、一方の神主(憑依型シャーマン)は拡声器としての役割でしかない。

大本教で帰神術を行わなくなったのも、神界に赴いて自ら高位の神々を連れてくることのできる、審神者として高い能力を持った人間が、出口王仁三郎以降、ほとんど輩出できなかったためである。

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