夢の中で国王になった下僕と夢の中で下僕となった資産家の話(『列子』)

五 夢の中で国王になった下僕しもべと夢の中で下僕となった資産家の話

周の国の尹氏いんしは大いに資産をたくわえたが、彼の家で走り使いしている下僕たちは、朝早くから夜遅くまで立ち働いて休むひまもない。その中に一人の年老いた下僕がいて、体力はもう限界がきていたが、それでも尹氏はますますひどい労働を強いた。そのために昼間はうめき声をたてて仕事をし、夜はくたくたに疲れてぐったりと寝こむ有様。そのかわり、精神はうっとりとして夜ごと夜ごと夢の中で国王になり、多くの人民の上に君臨して一国の政事を統べ、立派な宮殿で遊びたのしみ、したい放題のことをして、その楽しさはくらべようもなかった。そして目がさめるとまたいつものように苦しい労働に従事していた。ある人がその仕事のつらさを慰めると、下僕はこたえた。

──人の一生はせいぜい百年、そのなかで昼と夜とがそれぞれ半分ずつである。わたしは昼間は人にこき使われる下僕の身、苦しいといえば確かに苦しいが、そのかわり夜は国王となって、その楽しみはたとえようもない。怨むことなど何もありませんよ。

ところが一方、尹氏の方は、心は俗事にあくせくとし、考えることはただもう家業のこと、身も心も疲れ果て、夜になってもぐったりと疲れて寝こみ、夜ごとの夢は他人の下僕、走り使いから力仕事とあらゆることにこきつかわれ、どなりつけられ引っぱたかれてあらゆるひどい仕打ちを受ける。眠っているもうわごとをいい呻き声をたて、夜が白みかけてやっと解放される。尹氏はそれを苦に病んで友人に相談した。すると、その友人はいった。

──きみは栄誉にめぐまれた地位におり、あり余るほどの資産をもち、常人のとても及ぶところではない。それなのに夜になると夢の中では人にこき使われる下僕となる。しかし、苦と楽とが交互に入れかわるのは、道理の必然なのだ。きみがうつつの時も夢のも安楽であろうと願っても、それは無理というものだ。

尹氏は友人のこの言葉を聞いて、それからは召使たちのノルマをゆるやかにし、己れの心配事をへらしていったところ、うなされる病気の方もみないくらか良くなってきた。

福永光司『列子(中国古典文学大系、4)』(東京都、平凡社、1973)周穆王篇二章(p261)

物質次元と霊的次元の二重レイヤー認識」について、中国思想(タオイズム)ではせいぜいこの程度の相対論に留まる。

中国思想では、水平次元での相対性を論じる次元に留まり、基本的に善・悪(聖・邪)の垂直軸に発展することがない。

仏教でも、結局、中国に入った大乗仏教や禅宗では、このタオイズム的な水平次元の思考の枠組みの中で、仏教を受容している。基本的に、輪廻思想について、思考停止して、枠外に外す形で仏教を受容しているのが特徴である。

上記、列子のエピソードのように、現実と夢とを均等に見るに留まるのが、タオイズム的な思考だが、パーリ(本物の)仏教では、むしろ夢や霊的な側を現実よりも重視すらする。

死後のより善い状態を指向するため、資産を死ぬまでにできるだけ手放そうとするのである。ジャータカで、資産家に生まれた菩薩は、多くの場合、そのようにして、とっとと資産を手放して、出家する。これは、現世(物質次元)と来世(霊的次元)を均等に見るというよりは、来世(霊的次元)=徳性をこそ重視しているためである。

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