転法輪経の中道
Chris Falter / CC-BY-SA-3.0 以前にも、『 中道─涅槃の在り処─ 』という記事を書き、概ね「中道とは、(位置的に)色界のことである」という仮説を述べたことがあった。僕にとって、『転法輪経』は、(パーリ仏教に邂逅してから)15 年来、ずっと引っかかっている経典で、この経典の「引っかかりポイント」をクリアできない限り、やれヴィパッサナー瞑想だ、マインドフル瞑想だ、四念処だ、などと、瞑想修行に容易に進む気にはなれないのである。というのも、この『転法輪経』からどうやって四念処の瞑想修行につながるかが、謎だからだ。 『転法輪経』は、釈尊の悟りからサーリプッタ・モッガラーナの両大長老の帰属に到る教団の成立の過程を記録した、律蔵の大品に含まれる。経の一字一句まで実際の初転法輪の当時のまま記録されているとは思わない。大雑把に、釈尊がバラナシで五比丘に再会し、苦楽中道によって悟った四聖諦を説き、コンダンニャ長老が「生者必滅(生ずるものはすなわち滅する性質のものである)」との感興偈を述べ、預流果に至った(と釈尊に認定された)ということは確かだろう。四聖諦の一つ一つの項目、たとえば苦諦について、生老病死・愛別離・怨憎会・求不得・五取蘊と、苦を列挙している部分は、辞書的な定型句がずらずらと並んでいるだけであり、本当にそのような語り口で初転法輪時に、釈尊が言ったのかは疑問である。口誦で伝えられたという特性によって、註釈的な辞書的定型句が「苦諦といえば○○」という形でに自動的に続けられたのだと思う。そもそも、現在伝わっているこのような文章構成だとすると、「初めも、真ん中も、終りも良く」と言われる釈尊の語り口からはほど遠くなる。 だから、『転法輪経』は、要するに、「四聖諦の教説によって、コンダンニャ長老が『生者必滅』との感興偈を述べ、預流果に至った」ということが、ポイントだと思う。このポイントからズレる要素は、上述のように、註釈的な定型句がそのまま本文と融合したものであり、経の主旨の把握のためには、まず無視すべきである。たとえば、四聖諦の最後の道諦(は八正道であるという部分)は、非常に浮いている。コンダンニャ長老の「生者必滅」の感興偈に、八正道は何ら関連していないのである。明らかにこの感興偈は集諦と滅諦を受けている。「なるほど、八正道か、これならば覚れる...