地獄の原因となる邪見

貪・瞋・痴の三毒のうち、地獄と結び付きそうに思えるのが瞋=瞋恚dosaだが、本当にそうだろうか?

瞋ではなく、痴、すなわち邪見が地獄行きの鍵となっているのではないのか──というのが、今回の主旨である。


UnsplashLloyd Newmanが撮影した写真

というのも、以前『ジャータカ 147 話「はりつけにされた男」』を取り上げた時にも、引っ掛っていて、「なぜ犯罪を犯してまで妻に執着する(愛欲に溺れる)男が、(餓鬼ではなく)地獄行きなのか?」と。彼が死の瞬間まで考えていたのは、妻のことであり、どう考えれば、そこに怒りや憎悪があると言えるのだろうか?

そして今回、パーリでは結構有名な経だが、相応部の聚楽主相応の歌舞伎聚楽主経や戦士経のことを思い出して、これらも地獄行きケースだったなと考えた。戦士の方は、まあ、戦争という殺生を商売としている人々の話だから、地獄行きが瞋恚と関係していそうに思える。問題は、歌舞伎聚楽(演劇などの娯楽産業の村)の方である。彼らもまた、地獄行きとされたのである。餓鬼行きではない。

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、ラージャガハ(王舎城)のヴェールヴァナ(竹林)なる栗鼠養餌所にましました。

その時、歌舞伎村の長なるタラプタ(遮羅周羅)は、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。

傍らに坐したタラプタなる歌舞伎村の長は、世尊に申しあげた。

「大徳よ、わたしは、昔から代々の師たる歌舞伎者の大事な口伝としてこう聞いております。すなわち、〈およそ歌舞伎役者たるものは、舞台や野外劇場において、真実をまねて、人々を笑わせしめ楽しませるものであって、身壊れ、命終りて後は、喜笑天の世界に生を受けるであろう〉と。これについて、世尊は、なんと仰せられましょうか」

「もうよい、村の長よ、やめなさい。わたしにそんな事を問うてはいけない」

だが、タラプタなる歌舞伎村の長は、ふたたび、世尊に申しあげた。

「大徳よ、わたしは、昔から代々の師たる歌舞伎者の大事な口伝としてこう聞いております。……これについて、世尊はなんと仰せられましょうか」

「もうよい、村の長よ、やめなさい。そんなことをわたしに問うてはいけない」

だが、タラプタなる歌舞伎村の長は、さらに、三たび、世尊に申しあげた。

「大徳よ、わたしは……。これについて、世尊はなんと仰せられましょうか」

「ほんとに、わたしは、〈もうよい、村の長よ、やめなさい。わたしにそんなことを問うてはいけない〉といって、汝の問うことを許さなかった。だが、いまは、そのことについて、汝に説こう。

村の長よ、むかし人々は、貪欲を離れず、貪欲のきずなに繋がれていた。それなのに、役者たちは、舞台やら野外の劇場において、欲の深い場面を演じたので、彼らはいよいよ欲深になってしまった。また、村の長よ、むかし人々は、瞋恚を離れず、瞋恚のきずなに縛りつけられていた。それなのに、役者たちは、舞台やら野外の劇場において、怒りにたけり狂う場面などを演じたので、彼らはいよいよ怒りっぽい人間になってしまった。さらに、また、村の長よ、むかしの人々は、いまだ愚痴を離れず、愚痴のきずなに縛りつけられていた。それなのに、役者たちは、舞台やら野外の劇場において、愚痴のかぎりをつくした場面などを演じたので、人々はいよいよ愚かな人間になってしまった。

かかる者は、みずから陶酔し、みずから放逸にして、また、他をして陶酔せしめ、放逸ならしめるのであって、身壊れ、命終りて後は、〈喜笑〉と名づくる地獄ありて、そこに生を受けるであろう。

しかるに、もし彼が、〈およそ歌舞伎役者たるものは、舞台や野外の劇場において、真実をまねて、人々を笑わしめ楽しませるものであって、身壊れ、命終りて後は、喜笑天の世界に生を受けるであろう〉との考えをいだくならば、それは、彼にとって間違った考えである、とわたしはいう。村の長よ、間違った考えをいだく者には、ただ二つの道がある、とわたしは説く。それは、地獄への道か、畜生の道かである」

そのように、世尊が仰せられた時、タラプタなる歌舞伎村の長は、声をあげて泣き、涙をながした。

「だから、わたしは、〈もうよい、村の長よ、やめなさい。そんなことをわたしに問うてはいけない〉といって、汝の問うことを許さなかったのである」

「大徳よ、わたしは、世尊の仰せられたことを悲しんで泣くのではありません。わたしは、ながい間、累代の師たる役者たちのために、〈およそ歌舞伎役者たるものは、舞台や野外の劇場において、真実をまねて、人々を笑わせ楽しませるものであって、身壊れ、命終って後は、喜笑天の世界に生を受けるであろう〉と、だまされ、欺かれ、迷わされていたと思うと、それが悲しいのであります。

素晴らしいかな、大徳よ、素晴らしいかな、大徳よ、たとえば、大徳よ、倒れたるを起し、覆われたるを露わし、迷えるものに道をしめし、暗闇のなかに燈火をもたらして、〈眼あるものはこれを見よ〉というがごとく、かくのごとく、世尊はさまざまの方便をもって、法を説きたもうた。ここに、わたしは、世尊に帰依したてまつる。また、法と比丘僧伽に帰依したてまつる。大徳よ、願わくは、わたしは、世尊の御許において、出家することを得、比丘戒を受けたいと思います」

かくて、歌舞伎村の長なるタラプタは、世尊の許において、出家することを得、比丘戒を授けられた。そして、彼は、比丘戒を受けると、まもなく、ただ独りしりぞいて、放逸なることなく、精勤し、専念して住したので、久しからずして、良家の子の出家の本懐たる無上にして究極の聖なる境地を、みずから知り、みずから証して住し、〈わが迷いの生涯はすでに尽きた。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、もはやふたたびかかる迷いの生を繰返すことはないであろう〉と知るにいたった。

かくて、長老タラプタは、聖者の一人となった。

増谷文雄『阿含経典』(筑摩書房、1979)

ちなみに、歌舞伎聚楽も戦士も、いずれも、「地獄または畜生」に行くとされている。この後者の畜生行きに関しては、見(見解・価値観・思想)に関するもので、彼らが本当は地獄行きに相当するにも関わらず、彼らの一族の言い伝えに従って天界行きと思い込んで盲信していた場合、間違った考え(邪見)に陥っているから地獄行きと言われている。また邪見との関わり方によって(脳筋・体育会系的に猿真似しているだけの場合)は畜生行きの場合もある、と。

ポイントは、「喜笑」と呼ばれる境地に行くことは、彼らの一族の側も釈尊の側も認識としては同じだが、その「喜笑」と呼ばれる境地が、天界なのか地獄なのかという認識で異っているという点である。邪見を抱いている外道にとっては「地獄が天国に見えている」という話にもなっている。

こう考えると、ジャータカ 147 話の妻に執着しながら処刑された男が地獄行きであることの説明にもつながる。彼は、妻への愛欲に目が曇ってしまっている状態で、これもまた邪見に染まった状態の一種なのである。

つまり、地獄者(外道者)にとって、地獄(邪見)は地獄(邪見)と見えていないし、自覚することはできない。地獄的な悪い境地であると自他にあからさまに見えている境地は、悪趣は悪趣でも、地獄界以外の、畜生界や餓鬼界と考えるべきなのかもしれない。

第 2 のオプションである畜生行きについて

僕の最新の考察(仮説)では、瞋恚と地獄を結び付ける以前の考え方(当初の記事作成は 2023-06-05)を見直し、地獄と結び付くのは邪見、(それゆえ)三毒の中では愚痴だと思うようになった。

そもそも、『ジャータカ 147 話「はりつけにされた男」』の男にせよ、歌舞伎聚楽主経の芸人や戦士経の戦士の場合にせよ、彼ら当人が激怒に駆られた状態の中、死を迎え、地獄に赴くというわけではない。つまり、瞋恚と地獄行きは関係がないことになる。

むしろ、彼らは、邪見に染まった状態で死を迎えているのである。その結果としての地獄行きだということである。

そして、歌舞伎聚楽主経や戦士経では、「地獄または畜生」ということで、畜生が第 2 のオプションとして示唆されている。これはどういうことかというと、邪見に染まった主義・思想・信念を、特に何も考えず「周囲の人間がやってるから」と、右に倣え的な日本社会というか、脳筋体育会系というか、サイコパスというか、まだ分別のつかない子供が大人のやっていることを無邪気に猿真似しているような状態の場合で、本人自身の見(主義・思想・信念)というレベルにすら達していない場合であり、この場合は保身(慢の執取。利己的な遺伝子。生存本能。動物は怒りや怯えなどの感情に支配されている。瞋恚)だから畜生行きというわけである。

例えば、第二次大戦時の日本社会において、国全体を戦禍へと引っ張り込んだ軍部や日蓮主義者どもは明らかに彼ら自身が邪見に染まっていて、彼ら自身にとっては(愛国心という名の)正義感そのものによる行為だったろう。このような邪見が死時に働くと地獄行きとなる。一方、一般国民の側は第二次大戦は「軍部の暴走だ」「一般大衆は騙されて、大政翼賛していただけだ」と被害者面することもできるが、それでもその当時、社会の雰囲気に呑まれて右に倣えで非国民扱いされるのが嫌だったりして、戦争に迎合していたのであれば、死時の悪業として働く場合、邪見による地獄行きは避けられても、保身による畜生行きは免れないということになる。

道教(老荘思想)に代表される中国系の東アジアでは、乳幼児や動物のような、無邪気な状態を理想視する発想があるが、これは、邪見による地獄行きを忌避したいのだろうが、半面、保身による畜生行きによる回避策を採っている形になり、(仏教からすると)不完全な智慧(教え)ということになるだろう。


間違ったことに対しては、リアルタイムで「No!」と言える理性的な態度を取れないと、地獄行きは免れたとしても畜生行きは免れないことになるのである。

例えば卑近な例で言うと、昨今、自民党の安倍派が汚職で粛正を受けているが、安倍元首相が非業の死を遂げて、過去の人となってからこういう流れになるのでは、駄目なのである。リアルタイムで、安倍派が力を持って日本を動かしていた時に、No! を言えていなければならない。ロシアのプーチンがクリミア半島に侵攻した当時に、今のウクライナ戦争の準備に繋がる、安倍政権のプーチン政権への支持と経済支援による売国的な行為を徹底的に糾弾すべきだったのである。同じことは、かつてマスメディアに扇動されて民主党に政権を奪取させた当時の民主党を支持した有権者たちについても言えるし、ジャニーズ問題や、松本人志問題についても言える。リアルタイムで支持してた奴らが、後で風向きが変ってから掌返しするのは、立派な大人としては恥ずべき行為である。

つまり、このような、間違った歴史選択に関しても、それを主導した主犯格の人々を、後になってから「間違っていた」「騙された」と蜥蜴の尻尾を切ることは容易いし、その主犯格の連中自体は「邪見に染まった人々」ということになるが、その他の人々も対岸の火事では済まされず、その時迎合していたのであれば、「感情に踊らされた大衆側共犯者」というケースに該当してしまうことになる。


このように、(地獄・畜生の)両方の側面から見て、悪趣行きにならないように、リアルタイムに自分の態度を慎重に選択するべきだということを、相応部の聚楽主相応の歌舞伎聚楽主経や戦士経は「地獄または畜生」という表現で伝えているのだろう。

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