仏随念・法随念・僧随念(フィクショナル仏教)
自分は仏随念・法随念・僧随念的な一環としての思索行為として、史実としての生身の存在であるお釈迦様(仏)や、その説法記録としての経典(法)、仏弟子たちの伝統(僧)といったものを考えている。そのカスタム版仏教像というのは、伝統的な仏教とはそのままでは相容れないものではあるので、世間的には仏教フィクションと呼ぶべきものだが、いつか何らかの形(小説等)でまとめて発表できればいいかなという程度の考えである。
さて、以前、スダンマ長老の法話を拝見した感想の記事の中で、一般の在俗信徒向けの法話では、修行者向けの法を前提とした話をするのは、ちょっとどうなのかなと思うという感想を述べた。これはスダンマ長老のその法話と、スマナサーラ長老の法話とを比較した結果の話で、スマナサーラ長老の長年の日本テーラワーダ仏教協会での活動が、主に、瞑想指導を中心としていることに因んだものである。
自分には、特にスマナサーラ長老を批判する意図は、全く、ない。僕個人は、そのスマナサーラ長老の法話が非常に興味深く、浴びるように再生して繰り返し拝聴している。というか、長老のスタンスというより、協会側の長老に対する要請のスタンスによるものだろうと思う。初代会長の故・鈴木一生氏ら、実際に瞑想修行に興味があった人たちが、スマナサーラ長老に瞑想指導をお願いしたりして立ち上がって行ったのだろうから。
ただ、たまたま、最初に拝聴したスダンマ長老の法話が、非常に穏健な、世俗で暮らす在俗信徒の、世俗での人生を過ごすにあたっての、心構え的な法話であったことから、「ああ、やっぱり、これが、仏教の信を温めるというものだよなあ!」としみじみ感じたのである。スマナサーラ長老が、禅寺での座禅修行ばりに、質問者に厳しい、仏教的な一段高い視点からの警策のような返しを時折される場合があったのと、対照的に感じたのである。
で、実際のところ、出家以外の一般の人間も瞑想修行するという流れは、ミャンマーのマハーシ式の流行辺りから始まって、今の欧米でのマインドフルネス流行に至っているのだと思うので、そういう意味からも、このことをスマナサーラ長老個人や、日本テーラワーダ仏教協会のスタンスだけに帰するのは、やはり無理があるわけである。
そして、なぜ、そこに思い至ったかというと、最近、経典の多読も行っているため、やはり、お釈迦様ご本人が、対機説法で、相手によって法話の色合いが、かなり違っているということに改めて着目していたからである。
大ざっぱに分けると、まず大きな違いは、在俗人か、沙門(出家修行者)かという違い。そして沙門は沙門でも、相手が、邪見の強い外道の場合は、また扱いが違う。大別するとまずはその 3 つだろうか。
昨日、西澤卓美さんの zoom 法話動画を視聴していて、アナータピンディカ長者の臨終において、サーリプッタ尊者が説法を行ったエピソードについての話題が出ていた。僕も元から知っている経(中部 143『アナータピンディカ教誡経』)だし、さらにスマナサーラ長老の解説もあったと思う。死にかかっているアナータピンディカ長者に対して、サーリプッタ尊者は、修行者向けの六処論などの高度な話を開示する。法話を聴いたアナータピンディカ長者は泣き出す。サーリプッタ尊者に同行したアーナンダ尊者は、長者が生に対する執着から悲しくて泣いているのかと勘違いするが、長者は悲しいのではなくて、お釈迦様の法話では聴いたことがなかった、在俗信徒向けではない出家比丘向けの高度な内容の話を初めて聴けたので、感動し、また一方で、これまでずっと聴けなかったことが残念で、という風に答える。
自分は経の細かい話は憶えていないのだが、西澤さんの解説によると、アナータピンディカ長者の願いによって、以後は、在俗信徒と出家比丘を区別することなく、修行の話も説くようになったという。
──しかし、僕は、ここで、お釈迦様と、サーリプッタ尊者の、決定的な差異というものを意識したのである。そして、在俗信徒と出家比丘を「区別した」お釈迦様と、「区別しなかった」サーリプッタ尊者、これを対立的に比較したとしたならば、どちらがより適切か? 当然、その答は明らかであろう。
お釈迦様は、徹底的に、対機説法の塊のようなお方である。その結果が、アナータピンディカ長者(らの多くの典型的な在俗信徒たち)には、「修行の話を説かない」という帰結だったに過ぎない。
そして──このあたりから僕の仏随念・法随念・僧随念的思索、フィクショナル仏教の領域に入ってくるのだが──、サーリプッタ尊者が、「法将軍」の称号で呼ばれるが所以、法というのは、お釈迦様本人よりも、サーリプッタ尊者による貢献が多大なのではないか、ということなのである。
お釈迦様は、成道以後、ひたすらあるがままの現実を前にして、仏陀として生身一つで生き抜くことだけに 100% 全力投球されていたというか。だから対機説法で、目の前の相手に、過不足なく、必要十分なことを伝える。相手が、正見が必要ならば、正見だけを説く。それで終わり。八正道があって、そのうちの一つに正見があって……なんて、経典にあるような、周りくどい常套句は踏まない。
ところが、相手によっては、正見を説いたり、相手によって、正念を説く。生身の仏陀のそんな様子を側で見ていて、拾い集めて行って、整理して、情報として、修行システムとして、体系化する。仏教を「仏教」という宗教体系化したのは、実は、サーリプッタ尊者その人が大貢献したのではないかと。だからこそ「法将軍」と呼ばれたのではないのかと。
経の多くは基本的にお釈迦様ご自身が教説として体系だって説き、たまにサーリプッタ尊者が説いたものも、お釈迦様から追認されて、仏説と見做される、という今あるような経典の建前とは、かなりドラスティックに違った仏教像なわけだ。
スマナサーラ長老の別の法話で聴いたエピソードで、「律」に関するものがあった。お釈迦様は元々「律」自体も制定されるつもりはなかった。ある時、サーリプッタ尊者に「お釈迦様の教えが、仏滅後にも、できるだけ長く存続するには、どうすればいいか」と問われ、「律だ」と答えられた。そこで、サーリプッタ尊者が、「それならば律を制定しましょう」と言うと、お釈迦様は、「それは待て。律を制定するかどうかを、決定するのは、仏陀の役目である」と答えた。結局は、律を制定することになるのだが、なぜ、律が必ずしも、実際に制定すべきかどうか限らないのかというと、時代的に、人々が荒れておらず、律をわざわざ制定せずとも、勝手にモラルが守られる時代であれば、必要がないから──という話だった。
このエピソードからもまた、サーリプッタ尊者が、生身の仏陀という存在とは別に、情報・体系としての「仏教」というものの確立に努め、それによって世間に流布し、後世に伝えることに注力・貢献していたことが伺えるわけである。
言うなれば、生身の仏陀が、あるがままの今ここの現実と常に生身で向き合う対機説法の塊のような、教えの内容を体現する“歩く仏教”のようなお方であったという、史実の生身の存在であるお釈迦様像を歴史推理的にありありと思い描くのが仏随念。法将軍サーリプッタ尊者がいなければ、現代の我々に「仏教」が伝わってはいなかったのだという独自の推理に至るまで頭から離れず思いを馳せているのが法随念。という感じ。
元の話題に戻るが、では、なぜ、アナータピンディカ長者の臨終の説法において、サーリプッタ尊者は、お釈迦様の説法スタンスに逆らうような真似をしたのか? フィクショナル仏教では、これについても、一応の納得行く解答は用意してある。詳細は今は開示しないが、アナータピンディカ長者とお釈迦様との間に親交があった時期と、アナータピンディカ長者の臨終の時期との間には、一定の年月の隔りがあるということ。サーリプッタ尊者は、お釈迦様の在俗信徒に対する説法スタンスのことを知らなかったのである。アナータピンディカ長者に言われて、初めて知ったのである。
僧随念的には、中でも特に重要なのは、サーリプッタ尊者、マハーカッサパ尊者、アーナンダ尊者、ラーフラ尊者、そして(僧にダメージを与えた)デーヴァダッタである。仏典的に、お釈迦様と彼ら弟子たちとの関係は繰り返し述べられているが(ただし常套句的ではある)、弟子たち同士の横の関係性があまり明瞭ではないケースが多い。そのあたりを推理することが、フィクショナル仏教的には重要である。