歓喜 ─スダンマ長老の仏随念─

ここ数週間、スマナサーラ長老の法話動画を浴びるように聞いている。十数年ぶりにテーラワーダ仏教への直接的関心が再燃して、日本テーラワーダ仏教協会の YouTube チャンネルにアクセスしたところ、大量の動画が公開されていることを知った。僕の側の動機としては、父の死からの一連の気持の変化を受けた個人的なタイミングではあったが、ちょうど世間では昨今のコロナ禍の情勢を受けて、実際の会場における法話会や瞑想会などが不可能となり、代わりにオンライン法話の形となることを余儀無くされていたようであるが、却って従来のオフライン中心の形態よりも、大量・超ハイスペースで法話が増産される形になったようだ。スマナサーラ長老自身も、どこかの動画でそのような内容のことを述べておられた。

同一の動画も 2、3 回と聞いているので、1.5 倍速で BGM 代わりにして、パソコンでパーリ仏典の写経作業などしながら流していたりする。

そんな感じで、“スマナサーラ節” のようなものが自分の中ではかなり飽和状態のような感じになってきて、たとえば質疑応答でも、スマナサーラ長老が結構キツめの応答を返されることがあって、そのスマナサーラ長老の “カミナリ” の琴線というものが、「わかってきたような気」にすら、なってきたほどである。質問者は、世俗一般的な状況として見れば、結構、弱った立場に立たされていたりして、スマナサーラ長老に力付けて欲しいとか、すがりつくような感じで尋ねたりするのだが、2 人に 1 人くらいは、却って “けんもほろろ” な回答をされることもある。それは質問者の「我」を質問者の敵対者の「我」よりも正しいと、認めて欲しい、敵対者の「我」を否定して欲しい、というような「良い子ちゃん」ぶった質問だったりする。こういう場合、世俗一般的に見れば、たとえ質問者が「被害者」であって、敵対者が「加害者」であったとしても、結構厳しめの応答をされる場合があると思う。

ここのところ、パーリ仏典の読み返しなどしていて、自分の統計的な感覚として思ってきたこととして、先日のブログ記事の「六欲天」でも述べていたことだが、お釈迦様の対機説法の特徴として、出家比丘向けと、それ以外とで、定(サマタ)を中心とした道(修行)の説き方に大きな区別があるという点である。

ともかく、在家には、やんわりと、貪瞋痴が三毒であることを説き、執着を弱めることを、本人に示唆して気付かせることが中心で、特別厳しい説法はなく、生天(死後、欲天に行くこと)を説くことが主眼だと思う。厳しい精神論は在家信者に説くような印象がない。

翻って、出家比丘向けの経典では、その厳しい精神修行論がメインディッシュではないかと思うほどである。在家信者が人生を賭して来世の行き先の目標とする欲天(欲界)自体を、現世である修行中の段階から、まず完全否定している。心を色界禅定によって初禅以上に浄化することが叫ばれる。

最近はそんな風に経典のお釈迦様の対機説法を分析していたので、スマナサーラ長老の説法のされ方が、結構厳しめに感じられて、正直少々気になったりもした。

もちろん、スマナサーラ長老個人に限定されたものではなく、ミャンマーからマハーシ式のヴィパッサナー瞑想というものが世界に広がってからの、テーラワーダ仏教界の傾向という面もあるのだろうが、お釈迦様ですら、結局、道諦に属する実際的な修行論・精神論は、出家比丘にしか説かなかったわけである。それを在家の人間に対し、実際的な修行によって得られていく心の状態を前提にした精神論を説くことに、どこまで教育効果が得られるのだろうか。──と、僭越ながら、大変な難題に取り組まれているように思えてしまったりもする。

スマナサーラ長老一流のユーモアでもあると思うので、あまり真に受けすぎてはいけないとも思うのだが、長年の日本での活動で、説法ばかり熱心に聞く人が沢山いて、修行実践する人があまりいなかった(逆さにした器に水を満たそうとする喩え)、と嘆いておられた件についても、出家比丘向けの高度な内容を、(波羅蜜的に)そのレベルに達していない在家の人たちに説こうとされた結果によるものではなかったのだろうか。

昨日(2022-11-08)は、長部の『パーティカ経』を写経し終った。その時の作業の BGM として、スマナサーラ長老が禅宗の禅語についてテーラワーダ視点で解釈するという「禅語提唱」と題されたシリーズを通して聴きながら作業をしていた。日本テーラワーダ仏教協会の事務局長の佐藤哲朗氏らが長老にインタビューしながら、書籍の叩き台となる内容を採録しているような形式の動画である。

自分は、スマナサーラ長老の大量の説法動画の中で、このようなリラックスした雰囲気の長老の動画が特に好きだ。十数年前当時からお馴染の、大会衆を前にした講演会における長老の気合の入ったプレゼンテーションよりも、このようなインタビュー動画や、Q&A、ゴータミー精舎からのライブ中継による経典解説のような距離感のものが、凄く好きである。

その動画を聴きながら、写経していた『パーティカ経』は、リッチャヴィ族の王族出身のスナッカッタという、仏教から外道に転向して去って行った比丘が登場する経典である。彼は、釈尊に対し、自分に神通力を示して見せて欲しいとか、宇宙の起源話を聞かせて欲しいなどと要望する。だが、釈尊はスナッカッタに対しては拒みつつ、スナッカッタ以外の者に対して、スナッカッタの望まない形で、神通力を示して見せたり、宇宙の起源話を開示したりするのである。

長部経典は五部の中では遅く成立したのでエピソード面は充実しているが、それを取り払うと、この経典は、釈尊は「貪瞋痴を削減するため」になら神通力を示したり宇宙の起源話を説いたりもするが、「貪瞋痴を削減しない・増大するため」になら神通力を示したり宇宙の起源話を説いたりはしない、という話である。

要するに、スナッカッタは、己の貪瞋痴を強める欲求によって、神通力を示してもらいたがったり、宇宙の起源話を説いてもらいたがったりしたわけだ。当然、釈尊はそこは見通しているので、拒否する。

つまり、スナッカッタに(彼の望むような形で)神通力を示したり、宇宙の起源話をした場合、スナッカッタは、それを慢のために受けとるのである。「俺の師匠の釈尊はこんな神通力をもってるんだぞ、どうだ!」と外道や世俗の人に大きな顔をしたいのである。「俺は、世間の人が知らない本当の宇宙の起源話を釈尊から直々に伝授されて知っているんだぞ!」とかである。

スマナサーラ長老の禅語に対するコメントは、ほとんど即答で、迷いなくお答えになっている印象がある。駒沢大学で道元について研究された頃の賜物によるものなのか、純粋にアドリブでもそうなのか、どちらかは知らない。だが、あたかも阿羅漢果を得た者の主観的心境から出されたような、見事な解釈に感銘を受けざるをえない。インタビュアーの佐藤氏が我々世俗人の代表として、スマナサーラ長老の数々の言行に接した体験から「これこれこういう場合には、長老のお考えはこういうお答えになるのでしょうけど」という風に、あくまでも他者心理の推理としてのスタンスで語るのと、対照的である。

我々は、スマナサーラ長老の種々の斬新な見解を知った時、スナッカッタのように、それを自己の貪瞋痴のエサにするために受け取ってしまってはいないか? 「長老はこうおっしゃっている」「テーラワーダは(大乗仏教や、他宗教と比較して)こんな凄い教えを持っている」ということを、自己の高慢(テーラワーダ仏教徒であるというアイデンティティ=自我の増長)の種として集めようとしてはいないのか?

『パーティカ経』の写経作業以前から、自分的には、定(サマタ)、心解脱ということがテーマとしていつも念頭にある。スマナサーラ長老や、長老個人に限らず、マハーシ式のヴィパッサナー瞑想のテーラワーダ仏教界における流行は、慧解脱に寄っている。『パーティカ経』の前には『歓喜経』を写経したのだが、そこにはサーリプッタ尊者の「法の推知」と呼ばれる、城門を出入りする人々を観察して城内の様子を類推する喩えが登場する。自分の場合はあくまでも世俗人レベルの「法の推知」の真似事でしかないのだが、スマナサーラ長老が阿羅漢果を得られているとするならば、慧解脱者のタイプであって、反面、心解脱はされていないのではないのだろうか、と、ふと思った。もちろん、スマナサーラ長老ご本人は、慈悲のため、ということが動機であるとは思うのだが、質問者の邪見をどうにかして吹き飛ばしたい、崩してしまって、気付かせてあげたいという思いで、邪見に基づく思考を批判されるのだが、その批判のされようが、少々荒々(粗々)しいものに感じられる。

もちろん、それでも僕のような俗世間人よりはずっと心の修行は進んでおられるとは思う。しかし、慧とは別に、心の方は解脱(完成)のレベルではないのかも、と。

慧解脱していれば、輪廻はないので、漏尽者として苦しみの生は今生限りだという点は保証される。しかし、それ以外は、有漏者と違いはないのではないか。現法楽住状態になり、今生の在り方をも変化させるには、心解脱の進み具合によるのでないか。

スマナサーラ長老の「禅語提唱」の動画も一通り再生が終わり、『パーティカ経』を写経し終った段階で、ほとんど 24 時になろうとしていたが、YouTube のお勧め動画リストの中に一つだけ見慣れないものがあった。それは富士山の方にあるスガタ冥想センターというところの住職のスダンマ長老の法話である。十数年前に、ゴータミー精舎に時折出入りしていた頃、カティナとか雨安居とかで、スリランカ系のお坊さんが多数お集まりになるような機会があるが、そういう時にお目にかかったことがあるかもしれない(もしかしてミサンガを結んでいただいたことのあるお坊さんかもしれない)が、基本的に法話を目にするのは初めてである。

──ふと、動画を再生してみて、衝撃を受けた。

当初は、(スマナサーラ長老の動画を作業 BGM にしていた流れで)“ながら再生” していたのだが、冒頭のスダンマ長老による仏随念のお経が始まった途端に、凄まじい衝撃を受けたのである。ながら視聴を止めて、動画に釘付けとなった。

(実は、同様の衝撃は、初めて、スマナサーラ長老の講演会を代々木オリンピックホールか何かで聴きに行った時に、慈悲の瞑想で受けたことがある。)

仏随念 → 四無量 → 不浄観 → 死随念 という冒頭の読経は、これが「心解脱、心の修行のパワーというものか!?」と思ってしまった程であった。

法話、質疑応答については、穏やかに進んでいったが、締めにも、読経があり、再び先程の波動が込み上げてきた。

そう、これこそが経典に頻出する「歓喜」である。

その時、スダンマ長老は、「神々を招来したので、その神々に回向いたします」とおっしゃっていた。なるほど、と思うような衝撃だったのである。すっかり忘れていたが、昔ゴータミー精舎に時折出入りしていた頃にも、折々に、そのような気配を感じる経験があったことを、思い出した。

釈尊直系の本物の比丘の中には本当に(善い意味で)ヤバイ人たちがいるのである。

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