無我を悟る

今朝 9 時前に目が覚めた。今日は元々、11 時前に外出する予定であり、1 時間もあれば身支度には十分なので、すぐに起床すると、1 時間強の空き時間が生じてしまう。そういうこともあって、あと 30 分〜 1 時間程度二度寝できればいいのになと思って、寝床でごろごろしつつ、他に何もしようがないので、入出息からの身随観をやってみたりした。

十数分経ったのだろうか? 結局、寝入ることはできず、むしろ起床のタイムリミットが近付くことによって、本格的に潜在意識から心が“戦闘モード”となり、「起きてしまおう」という気持ちで染まる。先程の、「二度寝できればいいのにな」という思いが、嘘のようである。

その時、ふと、「これが無我ってことなのか」と思った。まるで炊飯器が予約時間に合わせて、自動で起動するように、精神が周辺の状況に合わせて、自動で変化していく様が、今経験しているこのような心の変化なのだろうな、と。

いや、もちろん、このようなアイデア自体は、別に今回が初めてではない。寒い季節、朝、中途半端に目覚めて寝転んでごろごろしていて、脳体温が下がり、十分に脳に血行が上昇していない状態で、鬱っぽい気分になることがある。しかし、一旦、意を決して起き上がり、シャワーを浴びていると、血圧・脳体温が上昇し、嘘のように、ただひたすら今日一日の行動で心が一杯になって鬱状態が吹っ飛び戦闘モード(躁状態)になってしまっているのである。

ただ、これまでは、1 日 24 時間、1 週間 7 日間、常時が放逸だったので、例えば躁状態になっている時には、鬱状態の自分が思い出せないのである(その逆もしかり)。自分自身のことであっても、現在と断絶している他人事のような視点での知識ベースの比較考察しかできないのである。それは、冬に夏の暑さの気怠さが思い出せないように、逆に夏に冬の身体の縮こまるような思いが思い出せないように、である。

しかし、今朝の場合、その一瞬前の「もう少し寝ていたい」気分と、一瞬後の「戦闘モードが起動されていく」気分の切り替わりに、気付いたのである。だから、それが、まるで、自分(の心)ではなく、心というソフトウェアが、プログラム通りに、条件に従って活動しているだけに過ぎない、という様相(=無我相)をキャッチすることができたのである。

なぜ、キャッチできたかというと、それは随観(脇っちょから観察)していたからに他ならない。

自分という意識の中から物事を観ていたら、それは要するに、放逸なので、随観(ヌパッサナー)が確立できているとは呼べず、このような「無我(相)を発見する」というヴィパッサナーの「一つの作業」に成功することはできなかっただろう。


スマナサーラ長老の法話を拝聴していて、どこかで「無常・苦・無我のどれかの相を発見したら、それが悟り」という風におっしゃっていた印象があった。なので、「無常・苦・無我」に気づけるというのは、もっと大事おおごとな、エポックメイキングな出来事なのかなと、僕の側で勝手に誤解していたのだと思う。そもそも「悟り」と言っても、スマナサーラ長老は、預流果の悟りなのか、阿羅漢果の悟りなのかを毎回、(話の脈絡があるので)わざわざ詳しく区別して話されるわけではない。とはいえ基本的には、聖断解脱(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果の悟り)という意味で「悟り」という用語を使われているケースが多いように思われる。

しかし「悟り」という言葉には「心解脱」という、一時的な禅定状態を指す場合すら含まれる粗い表現なので、「無常・苦・無我のどれかの相を発見したら、それが悟り」というのは、聖断解脱ではなく、もっと瑣末な発見のことをおっしゃっていたとも考えられる。

聖断解脱(というエポックメイキングな出来事として)の意味で考えるならば、何らかの寂滅や涅槃のような状態を経験するということが、判断材料になるのではないか。今回の僕のこの「無我の発見」には、そういうものがあったわけではない。一方で、「今ここ」の自分の状態と乖離した、思考概念上の「思い付き」「発見」ではなく、随観によって気付いたもの(正念)を、「ああ、これが無我に該当するってことなんじゃないのか?」と追認(正知)した感じなので、多分、ヴィパッサナーとしては間違っていないと思う。

ともかく、元々の僕には勘違いがあって、「ヴィパッサナーして、(無常・苦・)無我を発見できたら(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果のいずれかの)聖者の悟り」という思い込みがあったから、そのままいくと、(1)僕のこの発見は典型的なただの悟った妄想症候群、(2)僕はもしかしたら(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果のいずれかの)聖者の悟りに達してしまったのかもしれない、という 2 択で自己評価する他なかったことになる。

やはり、何か、「ドキャーン!」(スマナサーラ長老風)と、無常・苦・無我という、何かわけのわからない、抽象的な・高尚な・聖なる概念が、ガッと閃いて、全身全霊で、神の啓示を受けた預言者か何かのように、脳裏に出現するというイメージの前提があると、今回の僕の発見はそれに該当しないないから(1)という自己評価になる。

また僕は(2)の自己評価をするタイプではない。元々仏教に関して、「私は預流果になりたい」「私は阿羅漢になりたい」とか、要するに「私は聖者(と世から認められる存在)になりたい」というタイプの性格ではない。在家信者として、何がしかの聖者を拝ましてもらうだけで、お腹一杯、十分過ぎる、という感じである。また、そもそも、スマナサーラ長老の瞑想についての話でよく出てくる、名色の生滅が見えてくるとか、そういう超絶レベルの無常の認識をするための訓練としての瞑想は結局ピンと来なかったので、長らく実践していない。だから、自分が、出家修行者のための瞑想修行とは、程遠い存在だと知っている。

とはいえ、最近は、経典を中心に、スマナサーラ長老の動画を拝聴したり、西澤卓美さんの動画を視聴したりして、経典に対する自分の理解を多角的に確認しているので、(1)の自己評価も間違っているということがわかってきたのである。「随観」というものを正しく理解していれば、このような発見の一つ一つこそが、ヴィッパサナーで行なっていく、正しい観察であると、思うしかないのである。

従来僕は、スマナサーラ長老の話から、「ヴィパッサナーで、一直線に、無常・苦・無我という“聖なる何物かの概念”を 4 回(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)発見してゴールに至る」という風に思っていた。だが僕のその理解の方が間違っていたのである。

これはおそらく、日本の大乗仏教の禅宗にある「悟り」のイメージ、それ一つを得れば宇宙的・普遍的な影響力を持つ「何がしかを」悟るという前提で、ヴィッパサナーでの「悟り」を受け取ってしまっていたからである。つまり、OS が大乗仏教のまま、OS の上で実行するエミュレーターアプリでテーラワーダ仏教を実行していたような形だ。

例えば、出自的に、macOS や Linux などの UNIX 系 OS の系譜を正統派とすれば、Windows は UNIX 文化を剽窃し・真似パクった亜流・偽物・紛い物の系譜である。しかし、今では、Windows の上で、Linux などの OS をエミュレーションして実行することは可能である。

そのように、看板上は、同じ仏教を標榜するもの同士。大乗仏教 OS の上に、テーラワーダ仏教 OS をエミュレーションして実行することも可能であろう。問題は、しかし、それでは「テーラワーダ仏教の悟り」には達せないのである。


西澤卓美さんが、四念処について、非常にわかりやすいお話をされていて、四念処で何をやっているのかというと、庭の雑草取りのように、煩悩を都度、取り除いていく、という作業なのだと。「ヴィパッサナーで、一直線に、無常・苦・無我という“聖なる何物かの概念”を計 4 回(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)発見してゴールに至る」という一直線に進んで行くエポック的な道のりのイメージとは全く違う。非常に地味で、平面的なイメージである。

しかし、今回の僕の「無我の発見」はまさしく、この作業にピッタリ当て嵌まる。たった一本の雑草を処理しただけの話だということだ。

とはいえ、無常・苦・無我という 3 相に絡む発見をしたから、通常の随観ではなく、結果的にヴィパッサナーレベルの発見をできた。地下に埋まった雑草の根や種に相当する、随眠煩悩を処理できたことになる。

このような平面的なイメージで、あちらこちらと探して摘んでいくからこそ、四念処のように身・受・心・法と分けたり、五蘊のように色・受・想・行・識と分けたり、六処のように眼・耳・鼻・舌・身・意と接触チャンネルを分けたりして、漏れなく、片っぱしから、虱潰しにしていくのだろう。

そう考えると、スマナサーラ長老がおっしゃっていた「無常・苦・無我を発見することが悟り」というのも、その悟り 1 発で聖断解脱だ、という意味での「悟り」というお話ではなかったはずである。

「何物かを」「得る」のがテーワラーダ仏教の悟りではなく、煩悩をどんどん「捨てて」「減らして」「除去して」いく。その先にあるのが、寂滅・涅槃を経る聖断解脱というエポックのはずである。執着を手放し、「これは無我である、自分ではない」と自分自身の所属・拡張意識から(思考観念作業の話ではなく、ヴィッパッサナー的な対煩悩処理として)切り離していく。


日本は、大乗仏教 OS の国だし、もっと言えば、日本に伝来した中国仏教は、大乗仏教すらエミュレーションされたもので、OS は儒教である。つまり、一般に日本人の宗教 OS は儒教である。

実際のコンピューターの OS の話であれば、エミューレーションでも何の問題もない。単に処理が重くなるかどうかというだけの話で、論理的には等価である。

しかし、「テーラワーダ仏教の悟り」については、そうはいかない。それは何かを「捨てる」ことであり、何かを「為す」ことではないのだから。Windows OS の上で何かの処理を為す、ことではなく、Windows OS(で為されている処理)を捨てることが要求される。だから、「エミューレーションで等価にできますよ」では済まされないのである。

だから、日本の大乗仏教 OS で、テーラワーダ仏教 OS(の「悟り」アプリ)を実行しようとすると、僕の誤解のように、大変な誤解・妄想の道を生み出し、その道を歩みかねないことになる。

禅宗系の OS が染み付いている人は、僕のように悟りのイメージを「得るもの」として誤解し、それと「膨らみ縮み」や「実況中継」とどうつながるのか理解に苦しむ可能性があるだろう。

念仏・題目系の OS が染み付いている人は、テーラワーダの「膨らみ縮み」や「実況中継」を、念仏・題目的に、頭の中の妄想思考の中で行う可能性があるだろう。どんなにスマナサーラ長老を尊敬していて、忠実に瞑想実践をしていていも、何の進歩もないまま定期的に時間を取って眼をつぶって瞑想している年月を過ごしているだけでは、何も考えずに偉い人の言う通りに従ってひたすら形式を繰り返しているだけの一種の戒禁取のような状態に陥るのではないか。


日本・朝鮮半島・ベトナムを含む、東アジアの汎中国文化社会での基本 OS は儒教である。要するに、餓鬼信仰である。西洋(ユダヤ・キリスト・イスラームのアブラハムの一神教)やインド(ヒンドゥ教)のような創造神(=第六天魔)信仰とは、また別の、世界的なもう一つの強烈な外道 OS の系譜である。

スマナサーラ長老も、一応はそこは踏まえられていて、一般的な説法の場面では外道的な邪見(迷信信仰)を「ドキャーン」と破壊する意図でされ、それに対して瞑想会の場面では実践に重視して臨まれているようである。

しかし、僕は、日本人の外道 OS の業というのは、それなりに根深いのではないのかと思うのである。思考観念上では「ドキャーン」とやられてスマナサーラ長老に心服して、瞑想会に行くようになったからといって、果たして、瞑想会でのスマナサーラ長老の指導内容を、外道 OS の影響なしに、聞いて解釈できるようになるのかどうか? 依然として、禅宗 OS(得る悟り)や念仏・題目 OS(妄想的に形式を繰り返す)で指導内容を受け止めてしまうとしたら、どうだろうか?


近頃多聴しているスマナサーラ長老の YouTube 動画の数々だが、これまで単に YouTube で放置して連続再生した場合には視聴したことがなかった、ある動画に、昨日、初めて出くわした。それは、一般的な法話会のものではなくて、瞑想会における質疑応答の動画だった。

とある若い(?)男性が、瞑想実践とは関係がない、経典の用語の学術的分析のようなことについて、スマナサーラ長老に質問し、(公になっている動画としては)珍しくスマナサーラ長老がかなり不快感を示されていた。そもそも瞑想会の質疑応答という場で、そういう質問をすること自体、相当に「履き違えているな」とは僕も思ったものの、一方それとは別に、スマナサーラ長老の批判の仕方が結構キツく感じた。「経典の内容を根掘り葉掘りしたがるのは、結局は仏教の粗探しをしたいだけ。素直に瞑想する人を見下しているだけ」といった主旨。その質問者の男性に対するその状況でのコメントとしてではなく、一般論としてその言葉を受け止めたら、僕も多少、身につまされる思いになったのである。

一方で、返す刀で、続いて質問した高齢の女性に対しては、「ともかく実践しなさい、まず経典とか色々と読んで勉強しなければとか思わなくていいから」と一転にこやかに応答をされていた。

まあ、前者の男性については、そもそも場を履き違えているという点で、スマナサーラ長老を不快にさせたとしても、無理はないのである。ただ、本当に、その男性が学術的な粗探し目的だったのかは、僕にはわからない。僕のように男の場合、どうしてもマニアックに情報を追求してみたくなる性というものがあると思うのである。大乗側の、敵対的な粗探し動機の人だけではなく。だがもちろん、馬場紀寿氏のように、大乗サイドとしての悪意ベースで、敵対的にテーラワーダ仏教を熱心に研究する学者もいるから、スマナサーラ長老の強硬な反応も理解できる。

一方で、その女性のような、経典とかほとんど知らずに、いきなり、スマナサーラ長老という、輝けるばかりの本物の仏弟子比丘に知遇を得て、瞑想会に真っ直ぐ来たようなタイプの人はどうだろうか? 某学会の◯◯先生や、宗派の祖師を個人崇拝する系の OS で、スマナサーラ長老を拝むことに陥ったりはしないだろうか? 禅宗系や、念仏・題目系の OS で、瞑想指導を受け取ったりはしないだろうか?

少なくとも、僕は、経典を随分読み込んで(ただし、日本の仏教学者のような学術的な読み方ではなく、あくまでもテーラワーダ仏教徒・仏弟子としての主観的経験と興味に基いて、だが。この点は、僕が(質問者の男性のような)人文社会系の人間ではなく、理工系出身であることが幸いしているのかもしれない)、それでイメージした仏教像を、それで間違いないかというスタンスで、スマナサーラ長老の話しぶりや、西澤さんの話などと、照合し、補完するような感じでやってきた。その結果、かつて瞑想会の出席経験などを通じて自分が確立していたヴィッパッサナー瞑想のイメージに随分と誤解があったことに、近頃気付いてきたのである。

だから、「本当に、一次的情報である経典をスマナサーラ長老に丸投げして、いきなり集団瞑想指導だけ受けていて、本当に、大丈夫なのかい?」と正直思うのである。

もちろん、スマナサーラ長老が例示されているように、三蔵博士と呼ばれた大長老比丘が、老いてから、老い先短いのを見て、(預流者の)若い比丘を師として瞑想修行を改めて行い、阿羅漢になった例(清浄道論)の教訓もわかる。その三蔵博士の場合は、要するに、経典の勉強は、知識のための勉強であって、智慧のための勉強ではなかったわけである。

かといって、外道 OS がベースで走り続けている上で、間違った思い込みの瞑想をいくら励んでも、どうにもならないだろう。そもそも方向性が間違っているのだから、どこまで努力して走って前に進んでも、全く違う目的地にしか行かない。このような事態を自己チェックできるようにするには、一方で、経典の勉強も役に立つはずである。我々日本人にプリインストールされている OS は、スマナサーラ長老の正統派 OS とは違って、外道 OS なのだから。

逆に、経典を多読していると、スマナサーラ長老の凄さが、むしろ真にわかるという風に思う。なぜなら、日本語化された経典の文章では、思いもよらなかった、解釈を、スマナサーラ長老が示されることがあるからである。「え、そこって、そういう風に考えて、それでそういう表現になってるの? 考えてもいなかった。だけど、そう考えると、他のあの箇所も、ああいう表現になっている意味がはっきりしてくる」という具合に。同じ文章が、凡俗視点での読み方と、違った視点で読めることに、気付かされるのである。スマナサーラ長老の視点が、確実に、聖者側(出世間道)目線での読み方を物語っていることが、ひしひしと伝わってくるのである。凡俗視点だけで、スマナサーラ長老を評価するのは、ちょっともったいない。梵網経で、「凡俗は仏陀のことを、戒などの些細なこと(外面的なこと)で、称賛する」と言われているのと同じような話があるように。

比丘たちよ、以上が、凡夫が如来を称賛して語りうる、そのごく些細な、ごく身近な、単なる戒です。

比丘たちよ、深遠で、見難く、理解し難く、寂静で、勝れ、推論の範囲をこえ、微妙で、賢者によって感受される、まったく別の、もろもろの法があります。それは、如来が自らよく知り、目のあたり見て説くものであり、それによって人々は、如来をあるがままに正しく、称賛して語ることができるのです。

「梵網経」片山一良・訳『長部 戒蘊篇 I』(2003-04-21、東京、大蔵出版)

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