因・縁と名・色(2)「随観」

因・縁と名・色」という記事を先日書いたが、その内容に関連して、ジャストミートなスマナサーラ長老の Q&A 動画があった → 「Q05:智慧とは知識とは違うものだと思いますが、もし分けるとしたら、五蘊の働きのどの項目に入るものでしょうか?

スマナサーラ長老曰く「世間の自然科学などの知識は“What is this?”、仏教の智慧は“Why am I?”」

言い換えれば、仏教の智慧というのは、「縁」の科学ということではないか?

僕が拝聴して歓喜を覚えたスダンマ長老の法話動画。おそらく人によって、同じ動画を観ても、歓喜を得られるかどうかは違う。それが「縁」というものである。このような「縁」という観点で研究されて、究極的にはお釈迦様は菩提樹の下での悟りまで達したのだとも言えないだろうか?


前の記事で述べたように、この「縁」というものは、名・色の観点で言うと、名の次元。そしてそれは実数空間というこの物質世界に、直交している、虚数次元的なものである。実数平面を無数に貫いているが、一本一本の虚数軸は、実数空間においては、完全に大きさ・幅のない点(0 次元)であるから、直接感知不能。


昔、任天堂の家庭用ゲーム機が出たものの、未だスーパーマリオブラザーズによるブレイク以前の時代。テレビゲームと言えば、ゲームセンターでわずか数分〜十数分のために 100 円を払ってプレイしなければならないアーケードゲームか、ごく一部のマニアしか所有していなかった 8 ビット PC 用の、アーケードゲームに比べれば、随分見劣りのする、PC ゲームしかなかった。

それでも、アーケードゲームの 1 プレイ 100 円という相場が尺度となって、しょぼい PC ゲームでも、それなりに十分な価値はあったのである。またPC ゲームは、アーケードゲームとは違って、プレイに時間制限がないため、アドベンチャーゲームなどという、独自の世界を確立していた。

そのアドベンチャーゲームにしても、昔は、一つの画面を描くために、何度も何度も塗り直したりして、一定の時間がかかっていた。パッと一発で表示されないのである。

それ以前に、FDD(フロッピーディスク・ドライブ)がかなり高価であったため、8 ビット PC の前期は、テープメディアが主体だったのである。一つのゲームをプレイするために、テープをピーガーピーガーと数分〜十数分読み込んでプログラムデータをロードしなければならない。

今どきのゲームは、はるかに高精細な画像、それも音声は当たり前、さらに動画がベースの壮大な RPG の冒険ゲームを、そういった「待ち時間」なしで、次々に湯水のように楽しめる。

しかし、そもそもあの時代ほど、ゲームをすることの幸せ・有難さがないのである。

これもやはり、「縁」である。“What is this?”は何百倍も進化したはずであるが、プレイする我々人間の側の、あの時代で数分〜数十分ものロードを経てやっとプレイできた、あの時の“Why am I?”という「縁」の方が、何万倍も薄まってしまっているのである。


お釈迦様自身は、律の制定にあまり積極的ではなかったという。教え(仏法)という情報、仏教にとっての一種の“What is this?”を収集・整理・確立して客観情報化することに主導的役割を果たしたのは、法将軍サーリプッタ尊者である、というのが前回の記事(フィクショナル仏教)での僕の仮説だが、仏法が少しでも長く存続することを望んだサーリプッタ尊者は、お釈迦様に律を制定することを提案したという話であった。

結局、どれだけ“What is this?”としての仏法の情報が完全に保存されたとしても、それを受けとる人間(仏道修行者)の側の「縁」の問題だということではないのか。

であるから、律を定めずに、すぐに仏法が消え失せようと、仏縁がある者はちゃんと消え失せる前に受け取るだろうし「消えなば消えよ」というのが、おそらく阿羅漢的な捨の態度であろう。

そのように「(機)縁」を重視したから、お釈迦様は、在俗信徒には、基本的に修行者向けの説法はしなかったのである。

サーリプッタ尊者とは、そこにスタンスの違いを感じる。サーリプッタ尊者の場合は、客観化された情報としての仏法重視だから、最大限の貴重な情報をアナータピンディカ長者に惜しげなく開示することで、長者のサンガに対する貢献に報いようとしたのである。

しかし、アナータピンディカ長者は(心の修行の結果によって行くべき)梵天ではなく、欲天に転生したことから、サーリプッタ尊者の説法の内容は、やはり無駄で、的を外していたことになる。もちろん、サーリプッタ尊者の気持は、十分に役に立ったかもしないが。一方でおそらく、お釈迦様にとっては、アナータピンディカ長者は既に預流果に達していたことから、臨終というミクロな場面に際しての来世の行き先に関する心配は、何一つない、ということだったのではないか。


この「縁」という観点で物事を眺めようとすることと、四念処の「随観」とは、非常に深い関係があるような気がする。随観しているというのは、縁を観ていることになるのではないのだろうか、と思うのである。

色の次元、要するに、客観的物質世界の中に心が囚われた状態では、「縁」ではなく単純な因果しか見えない。これが短絡思考の集積である、世俗の思考、自然科学や人文社会科学などの知識体系である。

ここで、物質世界(色の次元)の「中から」ではない、いわば脇っちょの角度から観るから、「随観」なのである。

四念処では、「観(ヴィパッサナー)」と違う「随観(ヌパッサナー)」という用語が使われていることを、なんとなく看過してしまわずにはっきりと意識できている人は、どれだけいるのだろうか? 「観察、観察」という意味だけで受けとめているのなら、ヴィパッサナーもヌパッサナーも何の違いもない。それでは失敗(誤解)してもおかしくないだろう。

物質世界(色の次元)の「中から」ではない脇っちょの角度、ということを可能にするには、当然、色の次元に直交する名の次元というもの(観点)を前提としなければならない。


例えば、「Q&A 思考妄想と心の観察(実況中継)」において、質問者は「心を観察する」と言われて、思考の「中から」妄想内容を追い掛けるのなら、結局は妄想しているのと同じではないか、矛盾ではないかという疑念が生じている模様(ヨーロッパ人も包丁で包丁を切れないじゃないかなどと疑念を呈するそうだから、世界のマインドフルネス業界では、随観の「随」の意味を取りこぼしているのは同じらしい)。思考の「中から」ではなく、脇っちょから観る「随観」であると理解していれば、このような疑念は生じない。

というかそもそも「随観」が継続している限り、妄想など生まれない・陥らないのではないだろうか? 「妄想を叩き潰す」という表現も、思考の「中から」行うものとして受け止めると、大きな誤解を生む。思考の「中」にいる段階で、そもそも「随観」状態の確立にスタート時点から失敗していることになるのである。

また、「妄想に陥っていく・入り込んで行く」というのは、「定根」のせいではないか? だとしたらこの場合の鍵は、「精進根」であり、精進根で念を継続的に発動させることで、随観を維持できるのではないかと思う。

sati」というのも(「気付きmindfullness」という訳語も含めて)、非常に誤解を生みやすい訳語・用語かもしれないが、それについては、また別の機会に。

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