因・縁と名・色
先日、スダンマ長老の動画を拝聴して、歓喜を経験したと記したが、その同じ動画を視聴したからといって、他の人が歓喜を経験できるとは限らないだろう。また、僕自身が同じ動画を繰り返し視聴しても、同じ歓喜が生じるとも限らない。
要するに、これが「縁」というものだと思った。
「因縁」という形で、まとめて何となく「原因」として考えて wikipedia を読んでも「狭義には、結果(果)を生じさせる内的な直接の原因を因(内因)といい、外からそれを助ける間接の原因を縁(外縁)というが、広義では、その両方を合わせて因とも縁ともいう」というが、直接か間接かの差だけで、どちらも原因ということになって、原因という以上はほとんどピンとこない。
しかし、今回の件を例に考えてみて、はっきりわかった。この場合、スダンマ長老の動画は「因」、僕が特に歓喜できたのが「縁」である。
過去のゴータミー精舎の何らかの催事でミサンガを結んでいただいた比丘が、スダンマ長老であったのなら、それも「縁」だろうし、そうでなくても、仏教に対する何らかの感受性の高さが僕の側に備わっていた、というような理由も「縁」だろう。
つまり、縁というのは、果を受けとるための資格や適性のようなものだ。ある因によって直接発生する果は本来は同じでも、その果がどのような効果を持って受けとられるのかという点で違いを生じるのが縁ではないかと。例えば同じ東大を卒業しても、その学歴によって社会的に成功する者もいれば、学歴がむしろ枷となってホームレスになる者もいる。
そもそも、パーリ仏典で、経の締めの形式のように出てくる「比丘たちは歓喜した」という表現を、実体験的に知った上で、経典を読めている日本の仏教学者が、何人いるのだろうか?
まさしく仏縁というものはそういうことだろう。
ところが、ペアで表現される「因縁」だが、凡夫的感覚・俗世間的価値観では、「因」というものはわかっていても、「縁」というのは看過されがちなのではないか。
名・色的に捉えて、「因」の方は色的に一般化・客観化された形で観測されやすい物事だが、「縁」というのは名的で特殊化・主観化された形の物事だと思う。
そして、最近、スマナサーラ長老の動画を多聞したりして、痛感しているのが、本物の仏教とは、名・色の 2 軸で物事を観るという、俗世間からすると極めて特殊な視点を持っているという点である。
基本的に、俗世間というのは、色の観点でしか物事を見ていない。名ですら、色に還元して捻じ曲げて捉えている。1 次元思考。
しかし、仏教は、基本中の基本として、「名・色」、名と色をそれぞれ独立(直交)した、2 次元の思考で捉え、観ている。基本中の基本にも関わらず、俗世間では、全く異端な視点を持っているというのがポイントなのである。
というか、こんな視点を獲得したという点だけでも、いかにお釈迦様が特異な存在かがわかる。俗世間の価値観軸の延長線の中で、いくら努力して優秀になっても、辿り着ける境地ではない。
自分は個人的に、仏教の厖大な経典群や、多岐に渡る具体的な修行法など、枝葉に至るまでを全てお釈迦様が直接考案され教えられたとまでは思いにくいのだが、そこは流石にサーリプッタ長老を始めとする後世の阿羅漢仏弟子たちの集合知による作業も相当寄与しているとは思う。にもかかわらず、発想の出発点は、絶対に集合知的作業からスタートできるものではないものとしか思えないのである。そのくらい、俗世間の通常の視点とは、異なり過ぎている。
スマナサーラ長老の Q&A などでもたまに質問に上るのが、被害者的立場にある人が、加害者側に恨みを持っているケース。こういう場合、世俗人は、実際に起った物事が、客観的に現実的に動かしがたい事実として捉えている。だからこそ、加害者が悪であることは動かしがたい歴史的事実だし、自分が被害者であることも動かしがたい歴史的事実である、と。それに対して、スマナサーラ長老のような方は、被害者的立場にある質問者の心の状態を問題にして、その憎しみを抱いた状態をずっと引きずっていることの方が問題であり、自分で自分(の心)に罪を働いている、と指摘し、大変危険な状態であると回答したりもする。
つまり、世俗人というものは、名・色のうちの色の次元だけでこの世界を捉えているから、名の次元で自分がいかに心を汚している状態なのかに、気づかないのである。
現代日本人、というか世俗人の感覚として、この 3 次元の空間(宇宙)という舞台の中に、登場人物としての自分というキャラクターがポンと立っているというイメージではないだろうか(さらには 4 本目の特殊な次元軸として時間軸を考える)。だから、時間軸は自由に移動できないものの、この舞台の中で実際に起ったことは、歴史的に事実は事実なのだ、と。
だから例えば、「スダンマ長老の動画は誰が観ても、同じ、スダンマ長老の動画だ」──という類の勘違いが、俗世間の価値観では、極めて簡単に起こり、ノーチェックで流通するのである。そうやって(顚倒想によって)構築された世界が、この俗世間(というイメージとして世俗人が観測しているもの)である。俗世間の善悪・正義感であり、価値観であり、常識となっているのである。
だから、カルマの問題について、加害者が受ける罰は、被害者が受ける罰よりも大きくあらねばならぬ。そんな風に思うのが、世俗人の思考・価値観であり、本物の仏教以外の宗教だったりする。
しかし、スマナサーラ長老のコメントなどでも、加害者よりも、ずっとひきずっている被害者の方が、ずっとカルマ的に深刻な状態に陥っても不思議ではないという回答になるのである(例:知人が殺されてしまった。悲しくて仕方がない)。名・色の 2 次元視点からすると、これはまったくその通りなのだ。
スダンマ長老の別の動画で、「両親を敬いなさい」という教えが説かれた話があり、それに対する質問で「母親と非常に険悪で長い間絶縁状態にあるが、どうすればいいのか。こちらが歩み寄りたくても、母親の側が許してくれない」というものがあった。この質問に対するスダンマ長老の回答も、やはり、「無理に現実にお世話をしようとすることにこだわるのではなく、心の方が重要」という主旨のものであった。
やはり、両親を敬う、ということは、どのような形になるかは、人それぞれである。実際に、物理的に、お世話することが、親を敬うこと、という客観的・一義的な物事として捉えて、他と比較して評価したりしてしまうのは、世俗の感覚からは仕方のないことだが、仏教というものは、名・色の 2 次元で物事を捉えており、それに対して世俗の感覚では元々誰しもが色の次元だけで物事を捉え、考えている。なので、むしろ教えとして強調されるのは、凡俗の思考からは見落されている、名の次元のカルマ(善行為と悪行為)なのだと思う。
この世界= 3 次元空間こそが、唯一絶対であり、あらゆる生けるものは、この空間を共有している。むしろ個々の存在の方が、この空間に従属して存在しているちっぽけなものにすぎないというイメージが凡俗の色オンリーの 1 次元的視点である。個々の生けるものがそれぞれの心に抱いている思いは、所詮はプライベートな本人限りのものであり、「気のせい」「夢」「空想」などと呼ばれ、実効性のないものとされる。
その「3 次元空間の舞台の中にポンと立っている自分というキャラクター」という状況が、阿羅漢果で無我状態になって消えてしまうと、どうなるのだろうか? そこに見えてくるのが、六処という極めて特殊な認識態様なのではないか。六処がどういうものかは、もちろん、「知識としては」知っている。だが、まったく、それが他の教えと、どういうつながりで持ち出されるのか、何の必然性があって説かれるのか、僕にはほとんど理解不能に思えていたのである。苦を軸にして展開される四聖諦はわかる。が、四聖諦と六処の関連性は謎すぎる。縁起にしても、老死から渇愛まではわかるが、さらに渇愛から突然、六処に遡っていく過程は、やはり違和感がある。
しかし、阿羅漢になり、無我となった人の認識が六処なのだとしたら、そんな境地を発見したお釈迦様の(正)自覚の境地の凄さに驚嘆するほかない。つまり、四聖諦などの他の考えから展開していって六処があるのではなく、そういう認識を発見した・至ったから、説いているだけ、なのである。
──言ってみればそれは、名の世界の中から、色の世界を 6 つの丸窓から覗き観ているような感覚なのだろうか?
名・色の 2 次元的視点によると、心(名)というものは、個々の生けるものの内に抱く「気のせい」「夢」「空想」ではなく、これも物質世界(色)とは独立した(いわば実数空間に対する虚数軸のような)また別の一つの絶対的空間であり、すべての生きとし生けるものの間で共有されていることになる。
この、本物の仏教では、基本中の基本であるはずの名・色的世界観だが、部派仏教の時代になると、既に、現在のテーラワーダにつながる分別説部以外では、理解に失敗しており、色のみの 1 次元的思考しかできる人材がいなくなったのである。説一切有部は言うまでもなく、般若心経や龍樹に始まる空論から唯識論に至るまで、1 次元思考しかできないので、その 1 次元思考の中で、名(心)を論じて世界観の中に組み込もうとしたからこそ、「空即是色」や「阿頼耶識」を妄想するという、唯心論的な世界観、結局のところ 1 次元思考の枠組み(顚倒想)に堕すほかなかったのである。