ナーガ(龍神)族の研究

四大王天の中でのナーガ族の相対的な位置付けは既に先日の記事の中で説明した。今回は、ナーガそのものについての、実例を交えた研究と考察を行ってみたいと思う。

スメル山世界の中において、ナーガは主に地下世界に棲む。上方世界すなわち(ヤマ天以上の)欲天界や梵天界、下方世界すなわち餓鬼界や地獄界があるが、その餓鬼界や地獄界という意味の地下世界とは関係がない。これは別段の(僕の独自仮説的な)話になるが(詳しい理由解説は割愛する)、これらの上方・下方の世界は、原則、人間界を経由しなければ、転生しない。つまり、畜生界からは、原則、これら上方・下方の世界へ転生することはない。人間以外の一般の動物が欲天・梵天になったり、餓鬼・地獄者になったりすることは、原則、ないと考える。

例えば、ジャータカ 524 話のサンカパーラ竜王のエピソードのように、菩薩が、一旦はナーガの栄華に憧れて人間からナーガに転生するものの、いざナーガに生まれてしまうと今度は後悔し、再び人間に戻ることを切望して大変苦労して功徳を積もうとするのである。

日本の一般的な宗教観(アニミズムの一種)は龍神信仰である

日本の一般的な宗教観(アニミズム・精霊信仰の一種)は龍神信仰であるとすれば、上方世界に行くこともなければ、反面、下方世界に堕ちる危険性もないということになる。聖でもなければ邪でもない。善でもなければ悪でもない。畜生道も一種の悪趣とされるが、ここでは、餓鬼・地獄を悪趣として考えると、畜生は畜生であることで、餓鬼・地獄に堕ちずには、済むのである。人間道を善趣、畜生道を悪趣とする考え方をピックアップすると、龍神という一種の畜生への信仰を頂点とする日本の一般的宗教観・文化性・社会性・民族性というのは、ある種の魔物信仰であり、キリスト教などの西方世界の宗教観では、ドラゴンは悪魔の一種である。ただし、仏教ではナーガは悪魔とは考えられておらず、畜生道ということで悪趣(本人にとって悪い苦しい悲惨な境涯。広義の「地獄」)の一種ではあるが、世界にとっての邪悪な存在という意味での「悪魔」という名称はむしろ他化自在天の中にいる仏道を妨害する神々の勢力を指すので、全く別のものを指している。

基本的に、中国・朝鮮・日本という、北方モンゴロイドの民族は、龍神信仰であり、龍神の血の混ざった末裔のようなものである。中国では、皇帝の尊顔の尊称として「龍顔」と言うし、たとえば我が皇室の悠仁親王のお顔など、明らかに龍・蛇系の顔付きであるのがわかる。世間一般的には、次姉の佳子内親王のお顔が親しみやすく人気が高いが、悠仁親王を基準として考えれば、長姉である眞子(元内親王)さんが弟君によく似た龍顔の皇族 DNA を受け継がれていることがわかる。

そしてこの姉弟の龍顔のルーツはそもそもが秋篠宮殿下であり、そこから敷衍すれば、今上天皇や愛子内親王も龍顔の系統であることがわかる。ただ、天皇陛下と愛子内親王の場合は、多少ふくよかで温和な顔付きのせいで、龍顔の荒々しさが緩和されているので、龍的な特徴があまり気にならないだけである。

おそらく、秋篠宮家の姉弟の場合は、母上の紀子妃がこれまた典型的な龍神(の一種の狐)系の顔であり、余計に色濃く出たのではないかと思われる。

ちなみに、日本の一般的な宗教観においては、龍や蛇や狐は区別されるが、基本的に白い体をしていることが多く、その白をベースカラーにして、目や隈取りに赤がワンポイントとなるなど、共通点が多い。僕の説では、これらは同一の系統のもので、いずれも龍(ナーガ)の一種であると考えている。仏教においても、ナーガは本来は蛇形をしているが、必要に応じて人間の姿を取ったりする。要するに人間の目に見える形の姿としては、自由に変化できるのである。そのため、ポイントとしては、(1)白い体で目撃されることが多い、(2)「眼つき」が蛇やキツネを思わせるようにキレ長で鋭い、(3)瞳は赤い場合が多い、といったようなことが挙げられる。本来は同じナーガを見ているのだが、見た人の側によって、その心に生じる表象に多少のばらつきが生じるだけなのである。

龍(神)による除霊・浄霊は、(天空)神による除霊・浄霊とは原理的に違う

2ch 系のオカルト話などで、神社や拝み屋が、龍神の力で、幽霊や悪霊を除霊・浄霊するケースが出てくる。幽霊や悪霊というのは、執着や怨念といったような暗いエネルギーを持ったものなので、どちらかというと垂直方向の問題として、餓鬼や地獄への下向きの邪・悪なるベクトルと繋っている。これに対抗する場合、垂直方向の上向きの聖・善なるベクトルの力である神々(欲天・梵天)的な力が考えられるが、これは西方世界の宗教観における神や、(パーリ)仏教の(ヤマ天以上の)神々・梵天の力であり、日本の一般的な宗教観においては、こういう神は基本的に存在しない。(太陽神としての)アマテラスらがかろうじて三十三天レベルの神として存在する程度だろうか。

この精霊信仰=アニミズムは、基本的に、水平にどこまでも広がっている世界観なので、多神教でり、高度に垂直的な序列構造がない。どの神を選ぶかは、常に相対的な問題であって、そこに尊卑はないという考え。垂直に、上位の、より統一的な原理としての神の捉え方ではないし、そのような思考ができない文化・民族性なのである。なので、東洋と西洋という対比で、どちらも対等だと考えて、悦に入ったりする知識人がインテリとして君臨する(ではなぜ西洋の物質科学文明に負けたのか?)。

龍神のようなアニミズム的な畜生信仰の場合、人間的な文明が発展した結果の垂直方向の善悪の軸はない、原始的な素朴なスピリチュアリズムである。つまり、聖・善もなければ、邪・悪もない。ゼロの原初的状態に戻し(リセット)てしまう。そういう形で、餓鬼・地獄に引き摺られている状態から連れ戻す(除霊・浄霊)。しかし、反面、良い方(天国)にも行けなくなる。場合によってはナーガと縁が深まることで、死後、龍界に転生できるかもしれないが。天空神(欲天・梵天)と縁が深まる場合とはそこが大きく異なっている。

中国・朝鮮の老荘思想・道教(タオイズム)も、無為自然(原初状態)を理想とするから、龍神信仰と同じ性質のものであることがわかるだろう。

サンカパーラ竜王の例を知っていれば、日本の皇族が代々、龍神信仰の頂点的地位にある一方で、当の彼ら自身は、聖徳太子以来(宗教的に垂直構造を持つ)仏教に多大なる関心・信仰・帰依を寄せ、昭和の敗戦以降は(やはり宗教的に垂直構造を持つ)キリスト教に関心を持つのも、本当は不思議なことではないのである。彼ら自身は、水平構造のアニミズム的な世界の中で栄華を極めているからこそ、その限界を知り、垂直方向の高き聖なる善き境地への憧れを持つようになるのは当然である。

ナーガの性質

ナーガそれ自体は、善悪の観念が、良く悪くも、薄いが、その反面、人間とは違って、加減というものを知らない。怒らせると、毒蛇が噛むように、相手が死に至る暴力性を発揮することもある。この、人間味のない、(利害的に運命共同体である)身内以外の者に対する、人情(博愛性)の薄さのような面は、サイコパス的とも言える。良い意味、悪い意味、両面で。

また、このような性質は、ナーガに限ったものではなく、ヤッカ等の他の四大王天配下の神獣・魔物に共通の性質であろう。

(参考:シークエンスはやとも「サイコパスな人間の生き霊には大きな特徴があります」で語られている心霊的なサイコパス像は、ナーガ・ヤッカ等の性質に類似している。彼の話は用語からしておそらく古神道系の神霊観に基いている。)

実例集

私の守護は「謎のモフモフ」名前はシロちゃん
稲荷系のエピソードだが、話者は白い狐というよりは白い猫のようなものとして経験している。
廃神社の神に魅入られた女性
蛇(の指輪)、白(銀)、赤(眼)、狐の嫁入り
トイレで龍を見たという息子は水神様から護られているのかもしれない
幼い子供が見ているのは真っ白で小さい龍。
白蛇A子
白蛇に魅入られた男の子のエピソード。
龍神から見染められた少女の体験談
龍の眼の色は赤かった。龍神に守られている者をいじめたりした者は、手酷い仕返しに遭う。
対馬沖で国を護る龍神
祟り神でもある。すなわち荒魂。これ(荒魂)は精霊神の一般的な特徴である。幸魂であるアマテラスのような天空神の場合は聖・善であるので、加護にこのような副作用はない。
不思議な白猫
50 年以上生きている猫又のような守り神が、祟り神となる事態に陥りそうになっている話。
龍神を祀る拝み屋のひいばあさん
この拝み屋のひいばあさんは、自ら祀っている龍神の力を借りて除霊・浄霊を行っている。
蛇形の何か
やはり霊感のある人には蛇のようなものとして認識されている。
白蛇の祟り
白蛇を殺して祟られた家の人々の末路

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