霊媒体質なるもの

以前、(復古)神道のスピリチュアリズムについて考察した記事(「鎮魂法・帰神術」)で、テーラワーダ仏教の観点から分析を試みた。

鎮魂法については、仏教の禅定修行で包括できるものであり、特に独自性・新規性はないものという結論であった。帰神術についても、鎮魂法という禅定修行の結果発揮される神通として捉えることができ、「神道ならでは」「全く異種の仏教の体系には存在しない新規なる領域」という類のものでもないという結論であった。

とはいえ、神通の一種として考えた場合、帰神術の全てが仏教で具体的に説かれているわけではない。帰神術で「神を招来する」方法としては、審神者が神通により高次の世界(要するに神界)へ昇って行って(仏教の神足通に相当)、神とコンタクトし、地上に連れ戻ってくる。仏教では、神とコンタクトしたければ、神足通で天界に行ってそこで神と接触して対話なりして情報を得るだけで済ませるのだが、神道はそこからさらに、神を地上にわざわざ降ろして、地上にいる神主(霊媒)に憑依させるという手順を踏む。

この神主を、審神者自身で完結して一人二役で行う場合には自感法と言い、審神者と別人に憑依させる場合には他感法と言う。

いずれにしろ、神主は、霊媒体質の人間でなければならない。

この「霊媒体質」というのが、仏教では特に説かれていないので、僕の前回の記事の分析では、謎のまま残されていた。

一般に、エリアーデの類型で言うところの、脱魂型シャーマニズムとしての神道であれば仏教は包含しているように思えるのだが、憑依型シャーマニズムとしての側面は仏教では包含しきれていないように(一見)思われる。包含というか、そもそも全く興味を示していない感じである。仏教は修行者自身が徳を高めて、神と同等以上の存在と化すことを目指すのであって、自分は人間のまま、徳の高い神を自分に憑依させて、その威光・御利益にあやかろう、という系統の発想はしないのだろう。

目的がないことと、技法がないこととは話が別

しかし、仏教では、自分に神を「憑依させる」などという目的を持たないからといって、そのような技法までもがないかというと、おそらく結果的に憑依につながるような修行法(神通力)も、実は包含されている。

憑依に関して最も鍵となる仏教の思想としては、「無我」思想である。仏道修行者にとって、己の心の中は無我なのだから、そこに去来する様々な思考は誰に由来するのであろうか? それはもう、憑依している他者の思念ということになってくるのである。

また、他心通などとも、こういったことは密接に関係してくるものと思われる。

タクシー運転手をしていたシークエンスパパともの体験実話

霊媒体質の研究材料として僕が非常に関心を寄せている一人が、シークエンスパパともである。上の体験実話では、とある盲目の老人の客を、東京女子医大病院のあたりからその自宅(都内)へと送ったという話だが、その客自身が幽霊であったというオチになるのは僕はかなり始めの方からそんな感じがしていた。怪談話として優れたオチになっている上に、一般的な怪談師の話すネタ(作り話や、実話ベースだったとしてもお話的に演出で盛った形のもの)ではなく、霊能力者であるパパともだからこその実話というのが、オチの付き方以上に物凄いと思うのである。

しかし悲しいかな、なぜこのような優れたエピソードの再生回数が未だ 1 万にも到達していないのだろうか。霊能者としてのパパともの有能さと、タレントとしての(息子)はやともの有能さ。色々と考えさせられる問題である。

まあ、それはいいとして、このエピソード、怪談としての話とは別の側面で僕は注目したのだ。つまり、霊媒体質の研究材料として、興味深いヒントが隠されていた。

件の盲目の老人の幽霊は、毎年自分の命日の日に、霊媒体質の運転手を選んでタクシーを拾うのだという。僕はその理由は、霊媒体質の運転手だからこそ、その幽霊客を運ぶことができたのではないかと思うのである。(もちろん、幽霊によっては、運転手の霊媒体質の有無によらず、車自体に憑依して移動できる場合もありうるが)

シークエンスはやともの以下の動画に登場する霊能者縁ちえ氏の話によると:

彼女は神霊を自分に憑依させて運ぶそうである。

つまり、パパとものエピソードにおける「霊媒体質のタクシー運転手」というのも、同じ役割を果たしていたのではないかと思う。

そして、ここからさらに僕の思い付きなのだが、(霊媒体質の)タクシー運転手にとって、タクシーの車内空間というものは拡張された身体感覚の内部であり、彼の心の内部が投影されているのではないかと。

この着眼に至った時、霊媒体質というものと、上述の仏教の「無我」の観点からの憑依の分析が結び付き、一つのイメージに結実したのである。

一般の人の場合、自分の運転する車(心身)と、運転手である自分(自我意識)はイコールである。それに対し、霊媒体質の人の場合、イコールではなく、自我意識は車の中の運転席に座る運転手としての部分に過ぎない。つまり、自分の運転する車(心身)の全体が自我ではなく、その一部の運転手の部分でしか自我意識がない。なので、助手席や後部座席に座る他の乗客が、他人として認識されるのである。

一般人の場合は、助手席・後部座席に座る他の乗客も、自分自身(の他の側面)として何の疑問も抱かずに人生を生きているのと対照的である。

ちなみに、性格の悪い人間性の最悪な唯物論者が霊能の類を否定しようとする場合に、霊媒体質を統合失調症や解離性障害等だという言い方をするが、統合失調症や解離性障害等の場合は、本人が運転手ではなくなってしまっている場合になる(cf.「幽霊が見えてしまうのは怪異か精神疾患か?」)。霊媒体質の場合は、あくまでも本人が運転手であり、正気を失っているわけではない。

まあ、一般的に霊媒体質の人というのは、ほとんどのケースが、先天的だったり偶発的に後天的に獲得した体質であって、何らかの修行によってコントロール下において発現させられているものではないのだが、イメージしてみると、このように運転する車に拡張された身体感覚のような感じで、反対に自分の心身というものを車体のように捉え、仏教の無我の思想によって自我の占める範囲を運転席に縮小させていった時、それ以外の部分に去来する思念というのは、他者に起因するものということになり、そこに霊的存在というものを視ているのではないのだろうかと。

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