地獄または畜生の胎

少し前にもパーリ経典相応部の村長相応について「地獄の原因となる邪見」という考察を行ったばかりだが、改めて村長相応(相応部 42)中のこれら 4 経(『2. ターラプタ(舞踊者)経』、『3. 戦士経』、『4. 乗象士経』、5『乗馬士経』)について、さらなる考察を進めたいと思う。

{舞踊者|戦士|乗象士|乗馬士}村長は、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊を礼拝し、一方に坐った。一方に坐った{舞踊者|戦士|乗象士|乗馬士}村長は、世尊にこう申し上げた。

「尊師よ、私は、昔、師とその師である{舞踊者|戦士|乗象士|乗馬士}がこのように語っているのを聞いたことがあります。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

彼らは、釈尊に、自らの生業と死後の行き先の関係について、気がかりな点があり、質問する。

『およそ舞踊者として、舞台の真ん中で、見世物の真ん中で、真実と嘘によって人々を笑わせ、楽しませる者は、身体が滅ぶと、死後、笑喜の神々との共住に生まれかわる』と。

『{戦士|乗象士|乗馬士}は戦場で努め励むが、その努め励んでいる者を、敵者たちが打ち果たすならば、かれは、身体が滅ぶと、死後、敗北の神々との共住に生まれかわる』と。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

舞踊者村のみ、{戦士|乗象士|乗馬士}村と死後の行き先が異っているが、基本的に、彼らが職業人としてのライフワークを全うしたら、何らかの神々の世界に行くと信じられている点は同じである。ちなみに、この「敗北の神々」の世界は、北欧神話のヴァルハラもその一種と言ってもいいだろう。また、日本の武士道や、ヒンドゥの『マハーバーラタ』、現代の職業軍人など、戦争行為に従事することを生業とすることを愛国心などのイデオロギーによって美化することは珍しくない。

このことについて、世尊は何か言われましたか」と。

「村長よ、止めなさい。これはそのままにしなさい。私にこれを質問してはなりません」と。

再びまた、{舞踊者|戦士|乗象士|乗馬士}村長は、世尊にこう申し上げた。

「尊師よ、私は、昔、師とその師である{舞踊者|戦士|乗象士|乗馬士}がこのように語っているのを聞いたことがあります。

(……)

このことについて、世尊は何か言われましたか」と。

「村長よ、止めなさい。これはそのままにしなさい。私にこれを質問してはなりません」と。 三たびまた、{舞踊者|戦士|乗象士|乗馬士}村長は、世尊にこう申し上げた。

「尊師よ、私は、昔、師とその師である{舞踊者|戦士|乗象士|乗馬士}がこのように語っているのを聞いたことがあります。

(……)

このことについて、世尊は何か言われましたか」と。

「村長よ、確かに私は、『村長よ、止めなさい。これはそのままにしなさい。私にこれを質問してはなりません』と、そなたに許しません。しかし、私はそなたに解答しましょう。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

彼らはそのような質問をしない方がいいと制止されるものの、3 度重ねて釈尊に回答を請い、仕方なく釈尊は回答する。

村長よ、昔、人々は貪欲を離れず、貪欲の縛りに縛られていました。かれらのために、舞踊者は舞台の真ん中で、見世物の真ん中で、貪欲に引きつけるもろもろのことを過度に集めました。

村長よ、昔、人々は瞋恚を離れず、瞋恚の縛りに縛られていました。かれらのために、舞踊者は舞台の真ん中で、見世物の真ん中で、瞋恚に引きつけるもろもろのことを過度に集めました。

村長よ、昔、人々は愚痴を離れず、愚痴の縛りに縛られていました。かれらのために、舞踊者は舞台の真ん中で、見世物の真ん中で、愚痴に引きつけるもろもろのことを過度に集めました。

かれは、自ら酔い、心酔し、他者を酔わせ、心酔させました。そして、身体が滅ぶと、死後、笑喜と呼ばれる地獄があり、そこに生まれかわりました。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

舞踊者の場合、世間の人々の貪・瞋・痴の三毒を煽ることで私腹を肥やしていることになるので、彼らの師匠筋の者たちが代々認識しているように、死後転生するのは「笑喜」と形容される境地であるのは確かだが、釈尊に言わせれば、それは天界(神々の世界)ではなく、地獄だという。

村長よ、{戦士|乗象士|乗馬士}は戦場で努め励みますが、かれのその心は、予め捉えられ、犯され、悪く向かっています。『これらの人々は、打たれるもよし、縛られるもよし、切られるもよし、亡びるもよし。あるいは、このようになるな』と。その努め励んでいる者を、敵者たちが打ち果たすならば、かれは、身体が滅ぶと、死後、敗北と呼ばれる地獄があり、そこに生まれかわります。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

{戦士|乗象士|乗馬士}の場合、戦場において、敵を打ち負かし、屈服させるのは当然であるという考えに支配されているから、自分が戦死した場合はその打ち負かされ屈服させられる敵側の立場となることは他ならぬ自らの業によるものなので回避できず、彼らの師匠筋の者たちが代々認識しているように、死後転生するのは「敗北」と形容される境地であるのは確かだが、釈尊に言わせれば、それは天界(神々の世界)ではなく、地獄だという。

しかし、もしかれに、『およそ舞踊者として、舞台の真ん中で、見世物の真ん中で、真実と嘘によって人々を笑わせ、楽しませる者は、身体が滅ぶと、死後、笑喜の神々との共住に生まれかわる』との見解が生じれば、それはかれの邪見になります。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

舞踊者の場合、「笑喜」と形容される地獄に転生するということとは別に、地獄を天界と誤認する顚倒想を持つのは邪見に他ならないという。

しかし、もしかれに、『{戦士|乗象士|乗馬士}は戦場で努め励むが、その努め励んでいる者を、敵者たちが打ち果たすならば、かれは、身体が滅ぶと、死後、敗北の神々との共住に生まれかわる』との見解が生じれば、それはかれの邪見になります。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

また、{戦士|乗象士|乗馬士}の場合も、「敗北」と形容される地獄に転生するということとは別に、地獄を天界と誤認する顚倒想を持つのは邪見に他ならないという。

村長よ、また、邪見の人には、2 の行方のうち、いずれかの行方、地獄か、畜生の胎かがある、と私は説きます」と。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

生前のライフスタイルによって「笑喜」や「敗北」という地獄に死後に行く話とは別に、邪見は邪見で「地獄か、畜生の胎」への転生をもたらす原因になるのだという。

生前のライフスタイルによる行き先と、邪見による行き先

自分が以前にこれらの経を読んだ時には、もっと雑に捉えてしまっていたが、今回改めて詳細に読んでみると 3 パターンの死後の行き先が述べられているということに気付いた:

  1. 生前のライフスタイルによって「笑喜」や「敗北」と形容される地獄に行く
  2. 邪見(地獄を天界と誤認する顚倒想)によって地獄に行く
  3. 邪見(地獄を天界と誤認する顚倒想)によって畜生の胎に行く

以前は 1 と 2 の違いについて、何となく看過していて、「詰まるところ地獄か畜生の 2 通り」という風な粗い読解しかしていなかった。

生前のライフスタイルによる死後の行き先

今回、このことについて思い至ったのが一つの大きな進歩だった。自分のパーリ仏教的な輪廻転生観・イメージが、一つ更新された思いである。以前は、普通に「死んで、また別の生命として生まれる」という輪廻転生観であった。もちろん、その行き先は、業によるわけだが、毎回、新しい別の生命として生まれるというイメージだったので、大乗仏教の「中有」の考えを強く引き継ぐ、現代日本の死後観と大きなギャップがあった。一応、テーラワーダ仏教的には、中有や幽霊というのは、餓鬼を捉えてそのように言っているだけではないのかという説明がされてはいるのだが。

釈尊が、彼らが「笑喜」や「敗北」と形容される地獄に行くと言ったことについて、考えてみると、おそらくこれは、既に死ぬ前の現時点での彼らの実相なのではないのかと思った。肉体的にはもちろん、人間界の物質的な世界にあるにせよ、彼らの心の状態(霊的な実態)は既に「笑喜」や「敗北」と形容される地獄の状態にあり、人間界における肉体的な死は、単に物質的な肉体を失うだけで、彼らにとってそのまま霊体だけの(霊的な実態が剥き出しになった)世界が継続するのである。つまり、死と生がセットになった転生というよりは、「転移」と言う方が正確なのかもしれない。「化生」という形の転生には、このような転移的な転生も含まれると考えると、パーリ仏教と大乗仏教の間の死後観のギャップが埋められると思うのである。

エピローグ:村長たちの反応

このように言われると、{舞踊者|戦士|乗象士|乗馬士}村長は泣き出し、涙を流した。

「村長よ、私は、このことを、『村長よ、止めなさい。これはそのままにしなさい。私にこれを質問してはなりません』と、そなたに許さなかったのです」

と。

「尊師よ、私は、世尊が私にこのように仰ったことを嘆いているのではありません。尊師よ、そうではなく、私が、昔、師とその師である{舞踊者|戦士|乗象士|乗馬士}によって、長い間、『(……)、身体が滅ぶと、死後、{笑喜|敗北}の神々との共住に生まれかわる』と、騙され、欺かれ、誘惑されてきたことであります。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

彼ら村長たちは、自分たちの死後の行き先が、「地獄か畜生の胎」であると宣告されたことにショックを受けたのではなかった。彼らが所属するコミュニティの伝統によって洗脳され、邪見を抱かせられてきたことについての悲憤からであった。つまり、

  1. 生前のライフスタイルによって「笑喜」や「敗北」と形容される地獄に行く
  2. 邪見(地獄を天界と誤認する顚倒想)によって地獄に行く
  3. 邪見(地獄を天界と誤認する顚倒想)によって畜生の胎に行く

のうちの 1 については自業自得であるから、誰を責めるというようなものではない(大なり小なり、人間が生きていく上でカルマは背負うことになる)が、2、3 については、要らぬ邪見による悪業をコミュニティのせいでわざわざ背負わされたことになるからだ。

尊師よ、すばらしいことです。尊師よ、すばらしいことです。たとえば、尊師よ、倒れたものを起こすかのように、覆われたものを取り除くかのように、迷った者に道を教えるかのように、『眼の見える者たちは、もろもろのものを見るであろう』と、暗闇に灯火を掲げるかのように、まさにそのように、世尊は、多くの方法で、法を説いてくださいました。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

この定型句は、単なる賛辞としての決まり文句ではなく、彼らが何らかの「邪見から目覚めた」という状況を法悦を伴って言い表したものであって、(大乗仏教のような)〝空念仏〟的な美辞麗句としての表現ではない。

{戦士|乗象士|乗馬士}村長の場合

この私は、世尊に、また法に、比丘僧団に帰依いたします。今より以後、生涯、世尊は、私を帰依する信者として、お認めくださいますように」

と。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

{戦士|乗象士|乗馬士}村長たちは、帰依して、一般の在俗信徒となった。

舞踊者村長の場合

尊師よ、この私は、世尊に、また法に、比丘僧団に帰依いたします。尊師よ、私は、世尊のもとで、出家を得たいと思います。入団を得たいと思います」

と。

ターラプタ舞踊村長は、世尊のもとで出家を得、入団を得た。そして、入団するとまもなく、尊者ターラプタは、そのために善家の子たちが正しく家を捨て、出家するという、かの無上の梵行の終結を、現世において、自らよく知り、目のあたり見、獲得して、住んだ。〈生まれは尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなされた。もはや、この状態の他にはない〉と知った。

そして、尊者ターラプタは、阿羅漢の一人になった、

と。

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)p.305-319

ターラプタという個人名を持つこの舞踊村長は、単に帰依するだけでなく、出家し、最終的に阿羅漢となっている。

註釈によると、彼は「最後有の人」だったとされており、元々一来果だったということだろうか?

そもそも、彼に対する釈尊の「笑喜」についての回答は、「世間の人々の貪・瞋・痴の三毒を煽ることで私腹を肥やしている」という風に、「貪・瞋・痴」という用語による出世間的な勝義に基く説明であり、{戦士|乗象士|乗馬士}村長たちに対する回答の仕方と違っていた。また、{戦士|乗象士|乗馬士}たちよりも、舞踊者(今で言うと芸能人に代表されるマス・メディアに携る職業)の場合は、技能的にも、「世間の不特定多数の人々の心理に働き掛ける」という、精神的により高度で、広範で、業的に根深い行為を駆使している。

ターラプタには、出家するという、究極の選択肢しか、自己の抱える罪の不安から逃れる道が、他になかったのかも知れない。

邪見による「地獄または畜生の胎」

以前の「地獄の原因となる邪見」という考察が主にこの部分になる。

邪見が自分自身の思想・主義・信条と化している場合は地獄行きだろうし、自分ではよくわかっていないが脳筋・体育会系的に何らかの邪見を旗印として迎合して調子に乗っているような場合(ex. 真性の右翼と比べた「ネトウヨ」のような立ち位置)は畜生行き、という感じである。

畜生の胎

「畜生の胎」という表現にも、今回は着目した。「畜生」ではなく「畜生の胎」なのである。つまり、これが化生ではなく、普通に「死んで、また別の生命として生まれる」という輪廻転生観の典型である。わざわざ「の胎」と言っているのがポイントである。自分としては、従来、このイメージであらゆる輪廻転生を想像していたが、実際のところパーリ仏教において「の胎」の表現は例外的で(畜生か人間にしか該当しないわけで)、化生して転移的に転生する場合の方が多いということになる。この(化生して転移的に転生する)場合は、中有や幽霊というのも、転生の形態として全然「あり」なわけである。

生前のライフスタイルによる行き先と、邪見による行き先との間の関係

釈尊は、生前のライフスタイルによる行き先に対して、「しかし、もしかれに、『(……)』との見解が生じれば、それはかれの邪見になります」と言って、邪見によって行き先が決まるケースを追加している。これはどういう意図かというと、おそらく、売れない芸人だったり、(自衛隊のように)実際には戦争経験のない兵隊だったりと、生前のライフスタイルとして現実にそのような罪のある行為に手を染めていなかった場合について述べたものと思われる。結果的に、現実行為としては、何も手を汚していなかったとしても、そのような行為を前提とした邪見を抱いていれば、依然として、地獄または畜生の胎という危険性があるのだ、と。


逆の行き先(善趣行き)となるケースを類推する

  1. 生前のライフスタイルによって天界に行く
  2. 正見によって天界に行く
  3. 正見によって人間(の胎)に行く

生前のライフスタイルによって天界に行く

つまり、生前から、霊的実態として、天界にいるような善い心の状態で生きている人が、単に肉体を失う形で人間界を去るケース。

参考として、阿羅漢と不還者の違いにおいても、阿羅漢の場合は生前から既に現法涅槃が達せられているが、不還者の場合は死後に肉体を捨てて梵天に化生してからでないと涅槃に到達できない、という違いがある。

正見によって天界に行く

「正見の中身とは何ぞや?」ということが問題になるかもしれないが、具体的な中身を求めるのは、欲界に心が捉われている人間の考えることなので、既に間違って(邪見に陥って)いる。正解としては「邪見を抱かないこと」という否定的表現によって示唆されるべきものに近い。むしろ、欲界的な思考で、善や正義を考えたり、宗教観に捉われると、(これらの村長たちのように)それが邪見に捉われている状態である(が、外道の宗教・信仰というものは、たいがいがそれに陥っている)。

五戒などの戒を守ること、要するに、「悪を行わないこと(諸悪莫作)」(cf. 七仏通誡偈)という程度に考えておいた方が良い。別の言い方で言うと、他の生命に迷惑をかけないこと。

正見によって人間(の胎)に行く

自身ではよくわかっていないが脳筋・体育会系的にでも正見に則った(ex. テーラワーダ仏教徒としての)人生を全うした場合。

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