映画『鹿の国』(監督:弘理子)

先日(2025-01-03)、『鹿の国』という自主制作のドキュメンタリー映画を観てきた。

諏訪大社の神事などをテーマにしているということで、鹿の首といった動物の贄を神前に捧げるという、(穢れを嫌う)現代の神道からするとかなり異質な諏訪の、そんな秘密に迫る内容だったため、興味を引かれて、公開 2 日目に観に行ってきた。上映後の弘監督の舞台挨拶によると、プロデューサーの北村皆雄の 50 年来のライフワーク(諏訪の神事などに関する研究)が結実した形の映画だという。

中心となるのは現在は途絶えている諏訪の「御室神事みむろしんじ」を再現ドラマの形で再現を試みているものであり、地元のアマチュアの役者たちによって演じられている。芝居としては泥臭く、傑出しているとは言い難いが、彼らの芝居よりも何も、彼らの顔付きが非常に良い。それだけで十分というほどの存在感である。料理で言うならば、化学調味料で味付けに凝った工場生産の大手食品会社のジャンクフードよりも、調理は素朴でも素材が抜群に良ければそれが圧倒的にいいのだという郷土の手料理の良さである。

とはいえ、僕が個人的に最も良かったのは、ミシャクジ(御社宮司)の桜の大木を代々守り祀る、片桐さん(?)一族の一コマである。その桜の大木が映し出された時、僕は、その枝の又に立って、神事をしている彼ら一同の様子を見下ろしている、神霊(仏教で言うヤッカ)のようなものがいるように思えたのだ。(イラストは適当に流用したので、歌舞伎の獅子の隈取りとにらみを効かせた姿だが、もっと穏やかな表情の平安〜室町の貴人男子の姿で、柳色(緑に白のかさね色目)の装束、冠帯といった雰囲気が似つかわしい感じ)

こういった神木や神石などのミシャクジ(神の座)は、かつて諏訪に存在した生き神少年の大祝おおほうりが諏訪の各地を巡って見出したのが始まりという。

大祝というのが、ネパールのクマリを髣髴とさせて興味深い。監督の弘理子は、ネパールでドキュメンタリー映画を撮ったキャリアもあるので、そういった観点も映画に反映されていても不思議ではないだろう。

僕の仮説としては、大祝というの(ネパールのクマリも似たようなものだろうが)は、単に儀式的に生き神として選ばれるというよりは、本来は、先天的に霊能力を持った子供を選んでいたのが始まりではないかと思っている。

だから、彼らが、片桐家のミシャクジに行けば、そこが降臨する特別な木であることを見抜けるわけだし、降臨した際に出会わせば、彼らと対話して、何らかの情報を片桐家の人々に伝えることができるわけである。今年は豊作になりそうだとか、今年は大雨が降りそうだからどこどこの堤防を補修しておいた方がよい、などといった、樹神の声を、大祝は通訳することができるわけである。

御室神事にしても、冬の農閑期の間、大祝たちを囲んで、様々な相談事を行っていたのだろう。「伜にどこどこの村から嫁をもらおうと思うが、吉か凶か?」といったような類の。

つまり、要するに、神事だの、文化だの、もったいぶった言葉を使うが、実際のところ、占い・霊媒の類だったのだと思う。

そして、僕のそもそもの関心事だった、「鹿の首などの贄」だが、神に「生贄」「犠牲」を捧げているわけでは、本来は、なかったのだと思う。「神に生贄や犠牲を捧げることで、己の利益を願う」という、極めて身勝手な発想は、原始仏教ではバラモン教の「バリ儀礼」という形で批判的に登場する。つまり、日本では神道というのはバラモン教の立ち位置に近い。かといって大乗仏教から中国化した大乗仏教を経て日本に定着した神仏習合大乗仏教においては、原始仏教とは大きくかけ離れており(現代なお原始仏教のエッセンスを色濃く受け継いでいるのは南方の上座部仏教である)、神道がバラモン教の立ち位置だからといって、日本の仏教が原始仏教に相当する立ち位置とは言い難いが……。ともかく、この「神に生贄や犠牲を捧げることで、己の利益を願う」という極めて身勝手な発想は、中国では道教的な呪術的思想によるものであり、日本では陰陽道という形で、神道や真言密教に色濃く入り込んで現代に至っている。これは神道でも後発の要素であり、縄文時代由来の、古神道にはなかった要素である。天神地祇のうちの地祇である、国津神の発想には元々なかったものである。諏訪の信仰も、元々は古神道側のルーツを持つ。

なので、後に陰陽道的な邪悪な思考の影響で解釈が歪んでしまったが、「鹿の首などの贄」は、生贄などではなかったはずである。わざわざ神に捧げて、見返りとして何らかの加護を求めるために、生き物を殺す、という発想は、陰陽道の連中の邪悪な呪術的思考パターンである。そうではなく、縄文的な素朴な思考回路であれば、それが「鹿の肉」ではなく「鹿の首」であることに着目すべきで、つまり、鹿の肉を食料として食べた後、〝証拠の品〟として、首を神前に提示しているのだと考えることができる。これは一種の自己申告、現代の税金の確定申告などと同じ、毎年定例の行事だったのだ。

「なぜ、わざわざ正直に自己申告するのか?」という意見も生じるかもしれないが、それに対する答は簡単である。「神の眼を盗める」と思えるだろうか? 当時の諏訪の民は、密猟したり、何らかのやましいことをすると、そういった場合に、「諏訪の神が禍をなす」と考えていたはずである。そうではなくて、神が「生き物を殺して自分に捧げよ」などという血生臭い欲望を持っているなどと思うのは、(原始仏教の観点では)極めて邪悪な思考である(が、実際には残念なことながら、原始仏教以外では、そのような宗教思考回路は珍しくない)。

諏訪の神は、大祝のような霊能少年たちを己が〝眼〟として、諏訪の民を温かく見守っていたに違いない。神の眼を欺くことで加護を失うデメリットよりは、その眼に守られることで得られるメリットの方が、はるかに大きかったものと思われる。

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