スピリチュアル・プロジェクション

映画『鹿の国』の感想を書いたブログを書いた時に思ったことだが、ともかくその映画で一番印象に残ったのは、ミシャクジ(御社宮司)の桜の大木を代々守り祀る片桐さん一族の一幕だった。カメラは丁度、彼ら一族が祭事を行っている場面を撮影していた。そのミシャクジの桜の大木が、無条件で独り歩きして「素晴しい御神木である」と考えるのは、スピリチュアル脳的な誤った短絡思考だと思う。だが、そういう思考をするから、よく、パワースポットだのといってスピリチュアリストは、そういった神社仏閣などの霊域を有り難がって参拝しようとするわけだが……。

そうではなく、片桐一族が祭事を執り行うことによって、その桜の大木は、御神木と化し、つまり、神霊(樹神)がそこに降臨・顕現する場となったのである。祭事が終れば、おそらくそれはただの、桜の古木となるだろう。

より厳密に言えば、ミシャクジの桜の大木は、片桐一族にとっての、霊的な心象風景を投影する、一種の銀幕の役割を果たしているのである。実際に、その神が降臨するのは、彼らの心の中にある神座である。その風景が、現実の物質世界に生えている桜の大木に重ねられるのである。

そして、かつて諏訪に存在した生き神少年の大祝おおほうりのような霊的能力者は、他者の外界に投影する心的(霊的)風景を見ることができる、特殊な能力を有したのである。

通常、このような他者が外界に投影する心象風景に一々影響されていると、(霊能力者として他人のカウンセリングをすることを生業とすることを除いて、一般人として)生活することは困難になる。むしろ、精神に変調を来たす場合の方が多く、沖縄のユタで言う「カミダーリ」と呼ばれるような状態に陥って自我が崩壊し、振り回されてしまう。『機動戦士Zガンダム』(オリジナル版)でも、強化人間のヒロイン達や主人公のカミーユが陥った状況の、ネタ元のようなものである(僕は初期のガンダムは SF ロボットアニメというよりは、オカルト的なドロドロしたサイキックドラマに、ロボットアニメの上っ面(表皮)を被せただけ、という気がしている)。

ともかく、霊能力というのは、他者の外界に投影する心象風景にアクセスする能力、というのが、僕のオリジナルな仮説である。僕の仮説の独自性は、それは「外界に投影した心象風景である」という点であり、呼ぶとするならば、「スピリチュアル・プロジェクション」とでも言うべきものだろうか。

世間では、霊能力というのは、能力者・肯定派側であっても、特定の人に所属する心象風景とは思われておらず、現実の一側面だと思われているから、例えば、幽霊や、神霊などは、「その場にいる」と考察しているのが普通である。その場にいるが、「能力者にしか見えないだけ」と捉えている。僕は(僕の仮説では)、その場、現実の物質世界という、客観的に人々が共有する、この世界のこの場には「実在しない」と考える。そうではなくて、各人の心の中に「実在する」と考える。

だから、僕は、神社仏閣や、その延長である仏壇や神棚、そして墓地(墓参り)の類に、それほど特別な意味を見出さない。それに特別な意味を見出すのは、現実と心の内側の世界を区別していない証拠である。低能なスピリチュアリストどもは、心霊的な存在は、客観的物質世界において、実在すると強く信じたいのである。それが例えば、オウム真理教を世に強く後押しすることになった学研のオカルト雑誌『ムー』に群がる人々であり、超能力や UFO や UMA といった(心霊的な性質の物事の物質的な実在性を証明しうる)物事に執着する。そういった低レベルな人々を判別する良いリトマスと言える。(パーリ仏典では、「聖なるガンジス河の水を浴びる」という物理的な行為で霊的に邪気を祓えると考えていたバラモン≒ヒンドゥ教的な邪見を持っていた外道に対して、釈尊は、その邪見に蔽われた状態をくつがえすことで、彼を正見に目覚めさせている(バラモン相応「サンガーラヴァ経」))

映画『鹿の国』において、片桐家のミシャクジの桜の大木は、片桐一族によって、彼らにとっての神木なのである。例えば、映画を観て勘違いした、何らかの愚かなスピリチュアリストが、御神木の霊力にあやかろうと、勝手に現地に足を運んで、神木の枝を折って持ち帰ったとしよう。それで何らかの御利益にあやかれるだろうか? そもそもそこに行ったとして、その樹神には会えることすらないだろう。何しろ、実際にかの樹神が棲んでいるのは、片桐家の人々の心の内側の世界なのだから。

同じことが、神社仏閣一般、仏壇や神棚、家の墓などについても言えると思うのである。墓というのはもちろん、亡き親族に会いやすい、受付窓口のようなものだが、別にその場に彼らがいるわけではない。そこが、心象風景を投影する銀幕、スピリチュアル・プロジェクションに適した場所、セッティング、祭壇のようなものである、というだけである。実際には、外界のそこにいるのではなく、心の中にいるのだ。


トクモリザウルスのヤースーが話すエピソードで、片桐家のミシャクジの桜の大木の樹神のような例があった。

ヤースーが若い頃、沖縄の米軍基地でバーテンダーとして働いていた時の話。3 つ目のエピソード(10:30~)で、バーのマネージャーが過去の常連客のために特定の席を保存して酒を供え続けており、代々引き継がれている伝統だったのだが、実際にヤースーにはその幽霊が視えたのだという。そのことをマネージャーに話すと、びっくりしていたという。このエピソードにおいて、ヤースーは、片桐家のミシャクジの桜の大木における霊能少年大祝の立場を果たしたことになる。

また、片桐家が伝統を守って神を祀り続けていたというのも、ヤースーのエピソードにおいて、特定の席を保存して酒を供え続けていたことに対応する。

スピリチュアル・プロジェクションというのは、こういうことなのである。

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