鏡占い カトプトロマンシー
神道(特に、アマテラス系)では、神鏡を御神体とする神社が多いが、僕は個人的に、鏡は神体ではなく、(神事の)道具に過ぎなかったのだとかねてから独自に考えている。「元々は、霊能力を持った巫女等がおり、彼(女)らこそが(神)主であり、彼(女)らが占いに用いていたのが鏡だった」というのが僕独自の思い付きである。おそらくこういう説は、基本的には、伝承や文献に残された情報を組み合わせてそれを論拠として論じようとする神道や民俗学の専門家からは唱えられるべくもないものであり、またあくまでも「思い付き」としてしか発信することができないことにもなる。また、スピリチュアル系や心理学もどきの界隈では、「鏡に映った自分自身を見て、そこに神を見る」などという、もっともらしいご高説を宣っていたりする場合もあるが、詐欺師ほど外見やセリフの立派さで人を騙す、といったようなものである。
ともかく、古代、そこに生き神たる神主・巫女がいたが、彼(女)らが世を去った後に、愛用していた(神事=占術用の)道具が残されたもの、それが神鏡だというのが僕の独自説。その説に符丁する話、鏡占い(カトプロマンシー)に関する話題を、最近刊行された本(中世ヨーロッパの魔術師アグリッパに関する本)の註釈に見つけた。
アグリッパには霊たちを召喚する力があったとされる。ウォルター・スコットが蒐集したある伝説(3)によれば、ある日、ヘンリー 8 世の宮廷で盛名を馳せた詩人サリー伯ヘンリー・ハワードが愛する伴侶、キルデア伯の娘であった美しきジェラルダインの死を悼み涙していた時、コルネリウス・アグリッパはその失われた女性にあいまみえさせ彼を慰めようと、召霊をおこなった。この魔術師は彼の眼前に蠱惑の鏡を据え、そこに彼女を顕現させたという。ジャック・ゴォリーやブーレーズ・ド・ヴィジェニエールはこれをもって、アグリッパは友人たちの歓心を買うために「ピタゴラスの鏡」を実修したのだ、と彼を告発した(4)。実際、 アグリッパはこの秘密(秘術)について『オカルト哲学』第 1 書 6 章で、これをよく知っていると語っている。だが、このちょっとした自慢話ともいうべき伝説はたしかに事実を基としたものであった。アグリッパの書簡集に載せられた 1 通の手紙(Ep. VII. 22)は 1532 年 12 月末に書かれ、アグリッパ宛に彼の友人であるイタリア人のドン・ベルナルド・デイ・バルトリネリイが送ったもの。この人は(クレメンス 7 世の)教皇庁使節を務めた枢機卿ロレンツォ・カンペーギの執事だった。彼は偶々だがはっきりと、アグリッパが鏡を使って存命中のある人物をいのちのない形象を採ったイメージとしてみせてくれた、と示唆している(sicut mihi ostendisti in eodem speculo cognoscere in imagine picta partem vivam a parte mortua… (et)… inducere personam vivam pro veritate rei)(5)。
大橋喜之・訳『アグリッパ 儀礼魔術──原典訳『オカルト哲学第 4 書』』(2025-03-25、八坂書房)p102-103
- Sir Walter Scott, The lay of the last Minstrel, canto VI, 16-20.
- パリの Jacques Gohory あるいは Gohorry は J. G. P., Leo Suavius 等ざまな偽名を使って著作した。彼がアグリッパを攻撃している書物は Th. Paracelsi Philosophiae et Medicinae Compendium cum scholiis in libros IIII ejusdem de Vita Longa, auctore Leone Suavio, I. G. P., Parisis 1566. またカバラ学者 Blaise de Vigenére による駁論は Traité des Chiffres, 1586, pp. 16, 27 に認められる。
- これはカトプトロマンツィア catoptromanzia あるいは鏡を使った予言。鏡の代わりにそれに類するもの、たとえばレカノマンツィア lecanomanzia に用いられる水盥や、カリオストロがその「瞳」あるいは「鳩」に用いた硝子容器(カラフ)のようなものを使った予言の類。通常活動していない無意識の心理能力を喚起し、遠隔のもの、未来、超自然なものを幻視させる。こうした鏡魔術はピタゴラスやヌマの創案によるものともされた。これに丸い鏡を用意するべきことは古くからの教えで、月をよりよく反射できるようにするためだという。鏡にあらわれさせたいもの(人か物の名)を血で書き、観察者の背後にそれを置き、そこに満月があらわれるように鏡を配し、観察者にその月を注意深く凝視させる。するとそこに観察者が顕現させたがっていたものがあらわれるのを見ることになるという。この伝承は碩学ナターレ・コンティも言及するところ(Natalis Comitis Mythologiae sive explicationis fabularum libri decem, Coloniae Allob. 1616, lib. III, cap. 17, p. 253. prima edit. Venezia, Aldo 1551)。彼はアグリッパの秘術の淵源はここにある、と言明している。『知識の曖昧さと虚栄について』でアグリッパはあらゆる種類の予言を断罪しているが、この業については一言も触れていない。ドン・ベルナルドのアグリッパ宛の手紙は Opere Complete, ed. Lione, Beringos Fratres 1600, tomo II, parte II, pp. 354-356 所収。魔術鏡についての論考としては Ignis 誌 1925 agosto-settembre 号の Luce の署名のある論考がたいへん役に立つ。
「こうした鏡魔術はピタゴラスやヌマの創案によるものともされた。これに丸い鏡を用意するべきことは古くからの教えで、月をよりよく反射できるようにするためだという。鏡にあらわれさせたいもの(人か物の名)を血で書き、観察者の背後にそれを置き、そこに満月があらわれるように鏡を配し、観察者にその月を注意深く凝視させる。するとそこに観察者が顕現させたがっていたものがあらわれるのを見ることになるという」──鏡占い、それが神道の神鏡に関する真実である。つまり、アマテラス系神道の正体である。「巫覡」こそが本質である。太陽信仰(素朴な自然崇拝)などという解釈の仕方は決して本質を穿った物の見方ではない。
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