獣神界としての四大王天

1. 四大王天 、2. ナーガ(龍神)族の研究 に続く一連の考察の続き。

日本では基本的にナーガ(龍)を代表として取り上げるのが論じやすいが、ナーガ固有の話というよりは、ナーガを代表とする畜生系神獣(もちろんこの場合の「畜生」には人外という意味で人型ではあるものの夜叉も含む)に共通の話という部分が多いと思う。

四大王天は、現代的なネーミングで呼べば、「獣神界」とでも呼ぶべきものかもしれない。

現代に一般に伝わっている仏教の宇宙観とは違うかもしれないが、僕が独自に培ってきた仏教的宇宙観では、畜生界というものは水平の円盤状に四方に向って拡がっており、人間界と単純に同じ範囲の世界を共有しているわけではない。人間界の上下に存在する欲天・梵天界と餓鬼・地獄界とは、内外という形の相対的位置関係となっており、次元(軸)が異なっている。つまり、餓鬼・地獄界とは同じ悪趣ではあっても、下方世界の餓鬼・地獄界と、外方世界の畜生界という意味で、悪趣としての〝悪さ〟の性質が異なっているのである。

そしてこの「四方に拡がる」という性質が、四大王天の名前とそのまま結び付いているのである。単にスメル山の東西南北の山の斜面を表すのみならず、本来、この水平方向に円盤状に拡がる、自然・原始的な精霊世界のことを意味している。

仏典においても、神(デーヴァ)としての境地は、四大王天と三十三天は別々の境地としてはっきり区別されている一方、物理空間的には、同じ世界を共有している。同じスメル山の山頂と、東西南北の領域という、支配領域の違いにすぎない。そして、三十三天の王サッカは四大王を配下に従えており、さらに四大王は、それぞれ各方位で代表される畜生系神獣(ヤッカも含む)を配下に従えている。

そんなわけなので、四大王天というのは、基本的には、畜生系神獣たちの棲む霊的な世界と考えてよいだろう。そのトップで神獣たちを統括している四大王たち四大王天の神々自身は、(1)畜生ではなく人間系の神なのか、(2)それとも畜生たちの神レベルの存在が例外的に進化して人間系の姿や性質を備えるようになっているのか、どちらかわからないが、おそらく(1)であり、直接人間以外の畜生が神になることは通常は難しいだろう。しかし、人間であっても、無数の過去生においてナーガなどの畜生系の神獣であったことの影響によって、四大王天の眷属神となりその神獣たちを従える立場になりやすかったり(ビンビサーラ王はもしかしてそれか?)、畜生であっても過去に人間であったことの影響によって条件が揃えば直接四大王天の眷属神になることは考えられる。だが原則として、畜生の性質自体によって、人間を経由せずして、直接、畜生から転生によって四大王天の神々になることはないものと考える。

畜生性=サイコパス性

畜生が人間と区別される点は、サイコパス性質においてである、と考えるとわかりやすいかもしれない。人型とはいえヤッカを畜生の一種に含めるのも、この点である。サイコパス性質=人外である。人間性・人間味・人情味のようなものが人間と野生の動物とでは、大きく比率が異っている。

通常の人間が殺人を犯す場合は、激しい憎悪や底無しの欲望などが背景にある。しかし、野生の動物が他の動物(人間を含む)を殺す場合はどうか? 憎しみから殺すのだろうか? 欲に目がくらんで殺すのだろうか?

「サイコパス」という形容は、世間では、ネガティブな意味で使われることが多いが、精神医学的には、サイコパスというのは、別に殺人鬼や異常性欲的犯罪者だけを指すわけではない。人間的な他者への思いやりのベースとなる、他者の痛みに対する共感能力の先天的レベルでの大きな欠如である。なので、本当は、その言葉自体に、直接的に善人・悪人を決定する意味はない。いわゆる「ホワイト・サイコパス」や「善玉サイコパス」という表現もありえる。

善人・悪人というのは、あくまでも、(サイコパスではない)人間が、その人間的感情を以ってして、善行をするか、悪行をするか、ということによって生じる。

ただし、「畜生道も悪趣の一種である」とする仏教の見方を考慮に入れるならば、憎悪(瞋恚)や欲望(貪欲)によるものとは別の次元で、「人間味の薄いサイコパスである」という罪があると考えることができる。すなわち、(赤ん坊や無垢な動物のように)無邪気・無為自然であるという、愚痴による悪い業として見る考え方である。

憎悪や欲望からではなく、純粋なサバイバルゲームとして、弱肉強食の世界で力の強弱で食い食われることをよしとする。これが畜生界であり、サイコパスの感覚である。受験勉強をして東大・早稲田・慶應に入り、官僚・エリートビジネスマン・医者になる、ということに長けた人種ほど、こういうのは得意な系の連中が多かったりするわけである。

畜生道という人間道から外れているという意味では悪趣としての意味もあるにせよ、「畜生」や「サイコパス」やその性質というのは、俗世間的な意味では、そのように、ブラックな場合も、ホワイトな場合もあるので、この記事においては、単に(人間とは異なる)性質について中立的にラベリングしているだけである点に留意していただきたい。

ちなみに、キリスト教などの西方世界では、この畜生道という人間道から外れている意味での悪趣性には、結構こだわっていて、あくまでも真ん中の人間の立ち位置とその上下の軸における上方(天国)への価値観に眼目を置いている。だから、この軸を外れること自体も非常に良くないこととしてかなり攻撃的になる。つまり悪魔は獣(ビースト)だと言ったり、竜は悪魔でしかなく、こういう精霊信仰的アニミズムな多神教は野蛮な異教として(ヨーロッパでは早い時期に弾圧されて滅ぼされ)、ちゃんと文明化された人種・民族・社会としての扱いがされないほどである。ブラックかホワイトかなどということが通用せず、サイコパス(畜生道)=ブラックのみの扱いの世界である。

この記事というか筆者自身は、西方世界の価値観とは違って、畜生道といっても、三悪趣のうちの一つに過ぎないし、ほかの二悪趣とは、次元の違う理由の悪趣という認識で論じていることを留意してもらう必要がある。逆に、他の二悪趣(餓鬼・地獄)的な、人間性的な意味(≒俗世間的な意味)での善悪の価値判断で、「畜生道を悪」と言うつもりはなく、そもそも悪の次元(軸)が違うのだから、一緒に論じれないと思っている。人間性的な意味(≒俗世間的な意味)での善悪の価値判断では、畜生道は、むしろ中立・中性的である。

実例

前回の記事(ナーガ(龍神)族の研究 )では、東洋(中国・朝鮮・日本)は、畜生の中でも龍との関係性が深い精霊信仰であることを述べ、その一つの代表として、中国の皇帝や我が皇室も龍神の影が色濃いことに触れた。

今回も、そのような神獣的な加護の強そうな日本の著名人を例に取り上げたい。昨年、テロリストに暗殺された安倍晋三氏である。

サイコパス社長の話

まずは、安倍氏の話に入る前に、とあるサイコパスの実例について述べた、シークエンスはやともの動画を取り上げる:

  • ある社長は全身真っ黒なオーラ(呪いのエネルギー)に包まれていた
  • サイコパス本人はピンピンしている
  • 周囲の人間(会社および家庭)で自殺等の不幸が相次いでいる
  • サイコパス本人は呪われにくい体質(メンタル強い性格)の人
  • サイコパス本人はゲーム感覚でビジネスを行っている
  • サイコパス本人には呪いの取り憑く島がないので、周囲が代わりに呪いを受けてしまう
  • 周囲の人間はサイコパスの片腕になることで美味い汁を得ようとする

シークエンスはやともはこの社長が「サイコパスである」とは明言していないが、別の動画「サイコパスな人間の生き霊には大きな特徴があります」で述べていたサイコパス(魂が無い)の特徴からも、サイコパスに該当するものと思われる。魂がないからこそ、精神的に傷付いてダメージを受ける隙がないのである。

シークエンスはやともの場合は、基本的にはサイコパスを社会的捕食者としての意味で、被害に合わないように、という観点で述べているが、僕のこの記事では、そこのあたりは中立に、ナーガ等の獣神・畜生霊的な観点で捉えて、考えている。

つまり、サイコパス社長本人は、ナーガのような、ゲーム感覚でビジネスや世渡りをしているタイプの人間(東大生などのエリート出世街道を志向する人間に多いタイプ)で、善悪の上下軸がない。なので、ビジネス的に酷いことをして、ライバルの会社を潰し、関係者を路頭に迷わし、人生を破滅させても、罪悪感がない。ゲームだもの、と。赤ん坊のように、動物のように、無邪気だから、余計にこういう人生ゲームに強いのである。

周囲に集まって、美味しい汁を吸おうとするタイプの人間の方はサイコパスではない。というのも、サイコパスであれば、本人が社長と同様のタイプになれるわけだし、自分がサイコパスではないからこそ、他の力のある人間のサブとして美味しい汁を吸おうとするのである。つまり、畜生タイプではなく、人間タイプであるが、上下方向の垂直軸で悪業を志向するタイプである。

なので、同じ行為に加担したとしても、サイコパス本人は、畜生感覚でより非人間的な畜生化の深まる悪業を犯したのに対し、周囲の腰巾着は、人間感覚でより下方向の餓鬼・地獄方向に進む悪業を犯したことになり、結果の受け方が違ってくる。

安倍晋三氏の場合

さて、安倍氏の話に戻ろう。彼がナーガ・ヤッカ等の畜生神的なサイコパスタイプのカリスマリーダーだったとしたら、周辺に美味しい(利権の)汁を吸おうと群がっていた連中がいたことを思い出すだろう。そして森友学園問題の籠池氏のように、それが却って破滅へと至ることになった件なども。また、もっと広い意味で考えれば、安倍サポーターなどと呼ばれる、いわゆるネット右翼の人々の存在も。

安倍氏本人および安倍政権については、日銀の金融政策、プーチン政権がクリミア侵攻・併合をした後に欧米と歩調を調えずに極東開発で経済協力をするなど親交をアピール、震災前に福島原発の防潮堤の増強を訴える野党の意見を却下する、そしてテロにつながった統一教会との黒い関係など、近年稀に見るカリスマ的人気の政治家であった一方で、負の側面も少なくはない。

客観的に見ればこういった安倍氏・安倍政権の「蒔いた種」であったにもかかわらず、ウクライナの件で蒸し返す意見は少ないし(左翼が親露反米であるため)、福島原発事故に至っては見事に、民主党の事故対応のまずさに責めの矛先を全て負わせ、政権奪取にまで利用している。

このような(世間的な意味での)絶大なラッキーさは、安倍氏の特徴であり、単に自民党内の権力闘争で首相に任命されたという凡百の首相とは一線を画していた。これはまさしく、龍神・夜叉等の何らかの神霊の加護を得ているタイプの特徴である。

つまり、一種の神がかったホワイト・サイコパスだとすれば、よく説明が付くと思うのである。

僕は個人的に、安倍政権とか安倍サポーターとかネット右翼の類は、嫌いというか、否定的なのだが、安倍氏個人にはほとんど悪意はなく、むしろかなり評価していた。つまり、日本の政治リーダーとしては、まずは、彼のような神霊の加護を受けているレベルの圧倒的な存在感が必要である。そしてそういう獣神サイコパスタイプの当の本人は、特にこれといったポリシーはない人なので、そういうカリスマを神輿に担ぐ人々の政治的ポリシーや政策に良し悪し是非の議論の余地が生じると考える。だから、僕は安倍氏は日本のリーダーとして相応しい一方で、ウクライナ(クリミア半島)を侵略したプーチン政権に経済協力をするなどの、彼の政権の売国行為的な政策方針については、当時から即時的に批判したりもしたのである。

そして、安倍氏を巡っては、(頭のおかしい)左翼連中の態度についても、良い考察対象となる。安倍氏は、これまで述べてきたように、畜生系の神獣の加護を受けているホワイト・サイコパスのタイプであり、彼自身はかなりピュアで無邪気なもので、彼の人格を攻撃するのは、お門違いも甚しいのである。にもかかわらず、基本的には左翼の連中は「安倍憎し」という人格攻撃がモチベーションとなっていた。だから、ネット右翼の人々は、その左翼の連中の頭のおかしい憎悪の思念に対して非常に不快に思い、馬鹿にしたり、これまた憎悪で返すという、泥仕合になるわけである。つまり、サイコパス=畜生神的リーダーの安倍氏の周辺には、敵も味方も、人間タイプではあるが悪趣タイプ(餓鬼・地獄)の群が渦巻いていたのである。

最近も、安倍氏の暗殺死を巡って、左翼の知識人である島田雅彦氏が、「こんな事を言うと顰蹙を買うかも知れないけど、今まで何ら一矢報いる事が出来なかったリベラル市民として言えばね。まあせめて暗殺が成功して良かったなと。それしか言えない。」というような発言をしたとして物議を醸していた。島田氏のような左翼側の人間の立場からみれば、安倍政権下における言論弾圧に対する恨みは相当のもののようだから、安倍「政権」に対してはどうしても一矢報いたいという一念であろうということは、わからないでもない。しかし、安倍「政権」と安倍氏は、一応、関係は深いとはいえ、次元的に別のものなのである。

そしてそもそも、仏教的視点で考えれば、本当に安倍氏が個人的に悪業の罪が深いのであれば、安倍氏の死に方は、ほとんど苦しまずに「あっさり死ねて」いる。さらに、政治家として、同じ死ぬのであれば、演説中という、ある意味、最高にカッコ良い死に方である。

もちろん、仏教でも、必ずしも悪業というものは、今生中に結果が来るとは限らないのだが、病気や痴呆で苦しむこともなく、あっさりと死んだ──横死であるということを除けば、同じ死ぬのであれば──かなり良い死に方だと思う。

これが、左翼の人が「殺されていい気味だ」と思うような、何らかの悪いことをした罰として死ぬのであれば、仏教的には、もっと苦しむ必要がある。

だから、日銀政策にしても、福島原発の防潮堤にしても、プーチン政権への経済協力にしても、安倍「政権」(支持者を含む)のせいだとは思うのだが、安倍氏のせいだとは、僕はあまり思わないのである。かれ自身は、無邪気に、リーダーとして、周囲の人の心を一つにまとめあげること(人気とりゲーム)に、専心していた感じだろう。

シークエンスはやともの上の動画でわかるように、問題は、安倍氏の周辺にいた(左翼の敵対者を含む)餓鬼道的・地獄道的な性質の人々である。垂直方向に悪業が炸裂すると、ある意味、畜生道よりも悲惨な餓鬼道・地獄道が待ち受けている。

暗殺はなぜ成功したのか?

本来的に安倍氏は龍・夜叉のような何らかの強い神霊の加護を受けていたものと思われ、非常に強運の持ち主であった。では、なぜ、にも関わらず、暗殺が成功してしまったのか?

これは、犯人の恨みが、愛国的な問題と関わっていたからなのかもしれない。先に述べたような、島田氏のような左翼一般の安倍氏に対する恨みは、上述のように不当な筋違いの恨みである。そしてそもそも左翼の場合は、国益よりもイデオロギーの方が重要である。イデオロギーのためには、国益を損なおうが、おかまいなしである。そういう左翼の過激派的な連中によるテロ行為に対しては、国を守る神霊の加護の力は有効に働き、テロを試みたところで、せいぜい発煙筒に毛が生えたようなものを使った示威行為にしかならない。

ところが、安倍氏を暗殺したテロ犯の場合は、動機的に安倍氏の日本国民の国益に反する行為(統一教会への協力行為)に起因したものであり、こういう場合、本来日本国民を加護する立場の神霊は中立の立場を取らざるをえない。

普段から敵対していた頭のおかしい左翼連中に対しては、神霊の加護を受けた強気で臨んで、これまで大した問題もなく、イケイケドンドンの超絶ラッキーボーイだった安倍氏だったが、残念ながら、その強運者ゆえの無茶ぶりによって生じた警護体制の隙を突かれることになったのである。

安倍晋三氏の加護神は?

龍なのか夜叉なのかよくわからないが、どちらかというと龍かなと思う。昇龍のように真っ直ぐに首相の座まで上り詰めた印象である。

今、調べてみると、安倍家では代々、アラハバキ神を祀ってきたそうだ。アラハバキ神というのは、龍神(蛇形)の一種である。やはり龍神系ということで間違いなさそうだ。

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