内藤憲吾『お稲荷さんと霊験譚』

内藤憲吾『お稲荷さんと霊験譚』(2017-11-28、洋泉社)を読んだ。彼の砂澤たまゑに関する前著『お稲荷さんと霊能者 伏見稲荷の謎を解く』からの引き続きである。

霊狐の顔

かつて出版社に勤めていた時によく仕事をお願いしていた装丁家の中島かほるさんは、伏見稲荷の楼門前の向かって左側の狐の像の顔が怖いと言われた。この狐は鍵をくわえている。特に目が睨みつけているようで恐ろしいと言われるのだが、なるほどよく見てみるとその通りである。鋭い観察眼である。

狐の顔といえば、私には忘れられないことがある。

1998 年頃だったと思うが、実家に帰った時、内記稲荷の砂澤の自宅にあいさつに立ち寄ったことがあった。砂澤の自宅に立ち寄ってあいさつする時はいつも玄関先で、長話はしなかった。その時もあいさつをすませるとすぐに立ち去ろうとした。

玄関であいさつをする時、私はいつも立ったままだったが、砂澤は立っている時もあれば正座の時もあった。この日は珍しく正座だった。

私がいとまごいをして立ち去ろうとすると、正座して両手をついて頭を下げていた砂澤が、顔を上に向けて私の方を見た。

その顔はいつもの砂澤の顔ではなかった。特に目つきが異様だった。その目は怪しく、切れ長で光っていた。それは人間の目ではなかった。私はいささか気味が悪くなった。ゾッとした。私は妖狐という言葉を思い出した。これは狐の憑いた顔ではなかろうかと思った。

砂澤のこのような目つきを見たのは、後にも先にもこの時だけだった。

のちにこの時、神様が憑いていた、つまり眷属さんが憑いていたのではなかろうかと思った。

この時の砂澤の顔は、楼門前の狐の像の目つきとも違うものだった。楼門前の狐の像の目つきは怖いだけだが、砂澤の目は怖いというよりも妖しい目つきだった。

また、砂澤の顔は俗にいう狐顔でもなかったし、現生の狐の顔でもなかった。どこかこの世のものではない雰囲気が漂っていた。

この顔が狐憑きと言われている人の顔と同じなのか、私にはよく分からない。

砂澤の顔つきの豹変を見て、神様が憑いたのではなかろうかと私が思ったのは、お祭りの時に砂澤に神様が降りてこられると、砂澤の表情が変わってしまうと聞いていたからだ。

例えばミーさんが降りてこられた時は、穏やかできれいな表情になったという。このミーさんは年老いた蛇霊だったと思われる。

よく霊が憑依すると言われるが、砂澤の場合、お祭りのときだけに霊の憑依が起きるのではなく、私が経験したように、それ以外の時も起きていたようだ。

いずれにしても、この時、私は初めて本当の憑霊を見たのである。

砂澤が常に参っていた御膳谷の眼力社の服部さんは、狐の像の顔は普通の狐の顔とは違うと言われた。中島かほるさんは目が恐ろしいと言われたが、顔も違うのかと、蒙を開かれた思いがした。

私は何度となく狐の像を見ているにもかかわらず、狐の像の目つきや顔つきに注意がいかなかったのは、生まれてこの方、狐という生物を見たことがほとんどなかったからだ。そのために比較の仕様がなかったのである。私は、狐は動物園で何度か見ただけで、その時も檻の前を素通りしたにすぎず、ほとんど記憶にないからだ。

この際いい機会だと思い、写真で現生の狐をじっくり見てみた。なるほど目は全く違っていた。現世の狐の目は丸くてつぶらで、穏やかで優しかった。像の狐のように、切れ長で大きくて吊り上がってはいないし、恐ろしくもなかった。目の玉も浮き出てはいなかった。

続いて、目以外の顔の部分にも注目してみた。

その結果、耳もかなり違っていることが分かった。現世の狐の耳は像の耳よりも小さかったし、三角形にピンと尖ってはいなかった。像の狐の耳は大きいが、現世の狐の耳はもっとつつましやかである。

像の狐の耳は実際よりも大きく作られており強調されているのだが、これは霊狐の神様の声を聞く力を強調しているのだろう。

口元もかなり違っていた。狐の像の口はかなり前に突き出しており、細長くて尖っているが、現世の狐の口元はもっと短くて丸く、尖っていない。

両者の口元の著しい違いは、像の狐の牙のような大きな前歯である。狐の像はこの歯をむき出しにしているので、目とともに人を威嚇するような印象を与えるのである。

このように、両者を比較すると、狐の像は、現世の狐をモデルにしているのかもしれないが、かなりデフォルメされており、現世の狐とはもって非なるものであることが分かってきた。

もし狐の像が霊視された白狐を写しているのだとすれば、白狐は現世の狐とは似ているようで違うものであると言えるだろう。その違いに、白狐がこの世のものではない存在であることが強調されているのではなかろうか。

オダイに見えていた白狐は像に似ていたのだろうか?

内藤憲吾『お稲荷さんと霊験譚』(2017-11-28、洋泉社)p49-52

僕自身も、内藤に近い考え方を持っていて、「ナーガ(龍神)族の研究」において、

ちなみに、日本の一般的な宗教観においては、龍や蛇や狐は区別されるが、基本的に白い体をしていることが多く、その白をベースカラーにして、目や隈取りに赤がワンポイントとなるなど、共通点が多い。僕の説では、これらは同一の系統のもので、いずれも龍(ナーガ)の一種であると考えている。仏教においても、ナーガは本来は蛇形をしているが、必要に応じて人間の姿を取ったりする。要するに人間の目に見える形の姿としては、自由に変化できるのである。そのため、ポイントとしては、(1)白い体で目撃されることが多い、(2)「眼つき」が蛇やキツネを思わせるようにキレ長で鋭い、(3)瞳は赤い場合が多い、といったようなことが挙げられる。本来は同じナーガを見ているのだが、見た人の側によって、その心に生じる表象に多少のばらつきが生じるだけなのである。

という見解を述べたことがある。内藤は特に、霊狐と霊蛇を同一視する考えまで踏み込んだものではないが、僕のナーガについて考え方と同様の事実について、別の側面・部分から述べた意見と考えることができる。

お稲荷さんは占いと関係がある。

長谷川幸延は同じエッセイで、京阪電車の伏見稲荷駅から楼門にかけての商店街には、様々な店が軒を連ねていたが、その中に辻占屋つじうらやがあったと書いている。

辻占というのは、最初は四辻に立って、初めに通った人の言葉で吉凶を判断したのが起こりだという。それから紙片に数々の文句を書いて巻煎餅などに挟み、これを取ってその時の吉凶を占うものとなった。これを辻占売とか辻占煎餅と言った(『広辞苑』)。これはおみくじに似ている。

伏見稲荷に辻占がいたのは、かつてここは街道が集まる文字通り辻だったからだ。伏見街道と山科に通ずる街道と奈良に通ずる街道がここで合流していたのだ。だが、今は伏見街道しか 残っていない。

伏見稲荷の商店街の辻占屋はなくなってしまったが、大阪で戦後も辻占を行っている神社がある。近鉄の瓢箪山駅の側にある瓢箪山稲荷神社である。ここは辻占の元祖であり、日本三稲荷辻占総本社である。

ここは古墳に祀られていた稲荷に起源する神社で、豊臣秀吉が家宝の金属を埋め、「ふくべ稲荷」を勧請したことで有名である。

辻占とおみくじが全く異なるものであることは、ここのやり方を知るとよく分かる。辻占を求める人は、まず神前に額ずき、願い事を祈願して、おみくじの番号を引く。おみくじは一番から三番まであり、一番が出た人は最初の通行人をあらゆる角度から観察し、印象に残ったことを神社の宮司に伝える。宮司はそれをもとに秘伝の判断方法に則って判断を下す。二番が出た人は、二番目に出会った通行人を観察する。

このように独特の占い方をする。

私はこの神社に立ち寄ったことがあるが、神社の裏が小山のように隆起しており、いかにも古墳らしきところだった。昔なら狐の穴がたくさんあっただろう。

この神社は、四条村の西光寺の僧だった山畑顕海が霊感によってここで辻占を始めるようになって、信者が集まるようになったという。以後、山畑氏の子孫が代々宮司を勤めており、戦後も辻占が行われてきた。

なお、伏見稲荷では辻占はなくなったが、境内では今も手相見などが店を出しており、占いとは縁がある。

内藤憲吾『お稲荷さんと霊験譚』(2017-11-28、洋泉社)p74-76

「辻占い」というのは、「辻斬り」みたいに辻(往来)でいきなり通りがかりの人を呼び止めて行う占いかと思っていたが、実際はこのような占い方をするものだということを知ると興味深い。

行場としての稲荷山

砂澤は若い頃、重症の巫病ふびょうを患った。砂澤は、「頭が変になった、おかしくなった、ノイロ ーゼだ」と言っていたが、現実の声ではない声がのべつまくなしに聞こえるようになり、収拾がつかなくなってしまったというのが真相のようだ。

砂澤は、この症状を克服するために、稲荷山に籠って百日の断食をした。おそらく、生死を懸けた必死の覚悟だったのだろう。

そのかいあって、心身が強くなり、寄りくる様々な霊に負けないようになり、症状は克服された。

内藤憲吾『お稲荷さんと霊験譚』(2017-11-28、洋泉社)p153

巫病のことを、沖縄では「カミダーリ」と呼ぶ。

滝行をしていると、神様が降りてくると言われている。

砂澤の場合は確認できなかったが、稲荷のオダイの場合、自分の守護神が初めて降りてくるのは滝行の時だという。

その時、オダイは意識がないので、オダイの口から降りてきた神様の言葉が出る。この言葉を周りにいる人たちが聞いて、オダイにどのような神様が憑いたか確認する。守護神が名乗りするのである。これによって、オダイは初めて本当のオダイになったと人々から承認される。これは神がかりの一種である。

初がかりをした人は、以後、滝行をしていると守護神が見えることがあるという。つまり、滝場でも稲荷の神が見えることがあるのだ。

砂澤は滝を受けていると無になることができ、神様の言葉が聞こえてくると言った。オダイによっては、明日、明後日のことが全て分かる人がいるという。

滝行をしていて信者に神様が降りてきた時、行者の合掌した手が勢いよく頭上に上がることがある。それは一般的に神が「降りた」しるしとみなされている。

この時、行者によっては「結構、結構、有難い、有難い」と叫ぶ人もいるという。だが、こう呼ぶことはレベルの低い行者であって、レベルが高い行者はそのようなことはしないそうだ。砂澤はそのようなことは言わなかった。

滝行をしていて神様が降りてきた時、レベルの高い霊能者は身に光を覚えるという。その時、側で見ていると、行者の体は光を放っているそうだ。

内藤憲吾『お稲荷さんと霊験譚』(2017-11-28、洋泉社)p167-168

修験道ではこのように、滝行という一種の苦行によって恍惚トランス状態を得るわけだが、テーラワーダ仏教においても瞑想によってニミッタと呼ばれる光を伴う体験をするというようなことが言われているので、いずれの宗派にせよ、一種の禅定体験について色々言われているのだろうということがわかる。仏教からすると、それほど神聖視すべきものではない。

砂澤は若い頃、各地の滝を巡って行をしていた。

最初は稲荷山のような水量の少ない滝だったが、しだいに水量の多い大きな激しい滝へとエスカレートしていった。

砂澤は若い頃、自殺願望があり、大きな滝を求めていったのは、行のレベルを上げることも目的だったが、自殺願望のためだった。

しかし、いくら滝のスケールを上げていっても死ななかったので、ついに諦めてしまった。この経験が砂澤に何物も恐れない強い心と自信を与えた。

滝行をすると心が丈夫になると言われているが、確かに砂澤は意志が強く、千難万難を排して一念を押し通すところがあった。また、堅忍不抜、不屈不撓の金剛心の持ち主だった。怖いものは何もないと豪語していたし、微塵も迷いがなかった。

滝行は命がけの荒行なので、昔は行者が滝行の時に着る白衣を持ち帰る人がいた。行者は初めて下ろしたまっさらな白衣を身に着けて滝場に入る。

行者が無事に滝行を終えた時、人は行者の着ていた白衣をもらって持ち帰り、北向きに晒しておく。そして、臨終後に、あの世に旅立つ時の装束として着せてもらうために取っておくのである。

砂澤は、滝行を終えた時、砂澤の身に着けていた白衣が信者たちの取り合いになったと言っていた。

滝行が命がけの行であることは、これだけでも明らかである。命がけの行だけに、また白衣のありがたみもひとしおというわけだ。

内藤憲吾『お稲荷さんと霊験譚』(2017-11-28、洋泉社)p173-175

このような白衣は(呪物cursed itemとは反対の)祝福物blessed itemというわけだ。

九字を切る

砂澤は九字を切って人を動けなくすることができた。動けなくなった人は金縛りにあったようになる。

砂澤は若い頃、信者を連れて稲荷山で行をしていた。稲荷山の熊鷹社の下の道のないところを歩いていた時、信者にお稲荷様が憑いてしまったことがあった。

砂澤は九字を切り、信者を木に縛りつけてから行を続けた。信者は金縛りになり、動けないので助けてくれと大騒ぎした。

砂澤は行が終わると再び九字を切り、信者の金縛りを解いた。

砂澤は滝場で金縛りにあって宙吊りになっていた行者を助けようとして九字を切ろうとしたというから、九字を切ると金縛りを解くことができたようだ。

この話から、九字を切ると、人を動けなくしたり動けるようにしたりすることができることが分かる。つまり、体の動きを相手の意志に関係なくコントロールできるのだ。

1980 年代の中頃、砂澤は信者たちと山口県を旅行した。この旅はバスを使っての団体旅行だった。

この時、山口市のある旅館に宿を取った。夜に直会というか打ち上げのようなことをした。

信者の中にMさんという中年の未亡人がいた。食事で松茸が出ると、「まあ旦那様、お久しぶり、おなつかしい」と素っ頓狂な声を張り上げ、一同大爆笑となった。勢いづいたMさんは、その後も卑猥な冗談を連発し、ひとりで騒ぎ続けた。

最初は座に合わせて面白がって笑っていた砂澤も、最後は旅館の他の宿泊客の迷惑を考えて、Mさんの大はしゃぎを止めなくてはならないと思い始めた。

しかし、注意するぐらいでは収まらなかったので、ついに業を煮やして九字を切り、Mさんを動けなくしてしまった。おそらく口も動かなくしたのだろう。

こうして、Mさんは夜が明けるまで身動きが取れず、じっとしていた。

この話もまた、相手の体の自由を奪った話である。

私は、九字を切ることについてはこういった話しか聞いていなかったので、この力は人を動けなくする時に使っているのだろうと思っていた。

だが、どうしてこのような魔法じみたことができるのか、その理由が分からなかったし、どのような時にどのような目的で使っているのかも分からなかった。それで、ある時、九字って何ですかと尋ねてみた。

すると、「そんなことも知らんのですか」と馬鹿にされてしまった。そして、砂澤は一言、それは護身術だと言った。それが唯一の答えだった。

しかし、それではほとんど何も分からなかった。私はこの魔法の正体を知るために、文献を調べてみた。

最初は手探りだったが、仕事で忍者のことを調べていた時、忍者が九字を切ることを知った。そして、修験者もこの術を使っていたことを知り、糸口が見つかった。

その結果、九字は修験者や行者が行の時に用いる呪法であることが分かってきた。人を動けなくする時に使うのは、主要な目的ではなかったのだ。人を動けなくするのは、用途としては枝葉末節に属し、いわば余技である。

また、九字を切ることは、神様とは直接関係はなかったが、九字を切ることで可能になる様々な行の中で、多くの霊験が現れてくるので、その意味でこの技は重要だった。

密教や修験道関係の辞典によると、九字はもとは中国で使われた呪で、道士が入山の時に用いた。これを修験者が護身や降魔のために用いるようになった。

具体的には、「臨兵闘者皆陳列在前りんぴょうとうしゃかいちんれつざいぜん」と九字を唱え、同時に各文字に対応する印を結ぶ。例えば、臨は独鈷印を結ぶ。以下、金剛輪印、外獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪印、宝瓶印と続く。さらに手で鞘印と刀印を作り、刀印を鞘印に差し込んで抜き、空中で九字の格子図を四縦五横に切る(185 ページの図参照)。次に「ボロン喚急如律令かんきゅうじょりつれい」と唱えながら、右回りに一転して「合」と斜めに切りおろす。そして最後に拍掌びゃくしょう弾拓だんたくを行う(『修験道小辞典』)。

ただ、砂澤がこのような形で九字を切っていたのかどうかは、実際に見ていないので分からない。いずれにしても、砂澤はこのやり方を神様から直接教えられたことは確かである。したがって、門外不出、秘伝ということになるのだろう。

また、九字は密教と修験で用いられる呪法なので、砂澤は稲荷神を信仰する神道の信者でありながら、同時に密教や修験の徒であったことになる。

このように、九字は声と形による呪法なのだが、では、なぜ直接物理的な力を及ぼすことなく、音と形によって実際に物理的な力と同じものを生み出すことができるのだろうか? その理由はのちほど考察する。

九字のもうひとつの特徴は、修法や行の始めに用いることである。このことは伏見稲荷別当愛染寺の『野狐加持秘法』に「先ヅ九字ヲ切ル大事ナリ」と書かれていることで明らかである。

この書は狐を使役する呪法を説いたものである。愛染寺は東寺の出先機関だったから、九字を切ることが密教系の呪法であることは明らかだ。

滝行の時、最初に九字を切るのだが、それにはしかるべきマニュアルがあったのである。

九字については、様々な具体例が見つかったので、列挙する。

一番よく使われているのは滝行の時で、これは滝に入る時と出る時に用いられる。九字は滝行では必須である。

滝行を観察したアンヌ・ブッシイは、「(行者は)あたかも刀を使うかのように右手の二指で九字を切った。と突如、その場に彼女の声が鳴り渡った。彼女は気の漲る技で眼前の虚空を一掃した」と述べている。

これによると、九字を切ると何か目に見えないものが一掃されるようだ。滝にいる悪霊か魔を払っているのだろうか。

さらに「声響くや、彼女の火照った体からわずかに湯気が立ち上るのが見え、その場はさらに異様な空気に包まれていった」。

これによると、九字を切ることで体に変化が起きるようだ。滝の水の冷たさに対抗して、それに負けないように体温が上がるようなのだ。これは護身術の一種だろう。

また、滝行の項で述べた本山博の例で分かるように、滝の水が鼻にかからないようにすることができる。水流が立ち切られるのである。

これは滝行の項で述べた空海の波切不動を想起させる。この時は、不動の像が持っていた剣で海上の荒れ狂う彼を切ったのである。

盲目の霊能者・中井シゲノの場合は、滝を「切る」と水が飛び散ったという。これは目撃者がいた。

これらの事例から、九字を切ると、剣を使うように水の流れや波を断ち切ることができることが分かる。

こういった事例の圧巻は、那智熊野の滝の上流に籠っていた捨身行者・実川が浜口熊獄に見せた滝切りだろう。この場合は、水流が割けて水路ができたというのだから驚きである。これについては滝行の項に書いた。

以上は水に変化が起きる事例だが、ロウソクの炎に変化が起きることもある。中井シゲノは、滝行の時、左右の肘の上にロウソクを載せて、手で九字を切ると、ロウソクの炎がピュピュと 燃え立つと言っている。つまり火の動きに変化が生じるのだ。

中井の祖母も霊能者だった。この人が九字を切り「バァーッ」と叫ぶと、風呂の湯を沸き立たせ飛び散らせることができたという。つまり、九字を切ることで、水の質と動きを変化させることができたのである。

オダイの行う神事で鳴釜がある。この神事を行う時も最初に九字を切って気合を入れる。すると釜が音を立てて鳴り始める。釜を叩いてもいないのに音が出るのだ。

この場合は、音が出るという物理的な変化が起きるのだが、気合を入れることに注目すべきである。

滝に入る時もそうだが、九字と気合は常にセットになっている。気合によって何かを変化させることができるようだ。

除霊の時も最初に九字を切る。次に、心経を唱え、霊がかかった相手に話しかけると、人は震え始める。最後には霊が逃げ出してしまう。

この場合、九字を切ることは除霊のきっかけになっているようだ。霊を払う、つまり霊を落とすことは九字の目的の一つである降魔に当たるのだろう。

九字の具体例は、オダイや霊能者だけでなく、修験者でも見つかったので少しあげておく。

明治時代、浜口熊嶽という行者が様々な病気治しをして世間を騒がせ、怪しい術を弄する妖術者として裁判沙汰にまでなった。

この人はすでに何度か取り上げたが、少年時代に、紀伊熊野の那智の滝の上流の岩窟に籠って修行していた実川という真言密教系の修験者について行をし、修験の秘伝を伝授された。

浜口の使った験力のひとつは、九字を切り呪を唱えるだけで物を動かすことができたことだ。例えば、木の葉をそれだけで散らすことができた。木の葉は石など投げなくても、木の幹を手で揺さぶらなくても、木に登らなくても、九字を切り気合ひとつで落ちてくるのだった。

いや、そのような術を使わなくても、目で睨んだだけで、落ちてきた。浜口はこれを念力とも呼んでいるが、まさに念力そのものだっだ。力のある修験者は念力が使えるのである。

古代から山に籠って修行した修験者は数多くいた。彼らの中には仙人と呼ばれる人もいた。浜口の師匠・実川もそのひとりだった。

古代に白山で行をした泰澄などは、鉢を飛ばすことができたと言われているが、これも念力の一種だろう。修験者も、レベルが高くなると、こういったことができるようになるのである。

砂澤の周辺ではよく物が動いたが、それは砂澤が霊能者であり修験者だったからだろう。

浜口熊嶽が九字を切り呪を唱えて行った奇蹟は、その他にケガを治すことと病気治しがあった。

まずケガだが、熊嶽は行を終えて下界へ下る直前に、滝壺に飛び込んだ師を助けるために崖伝いに滝壺に下りていくが、そのときに足首を骨折してしまう。気がつくと、膝頭三寸下から足首がブラブラしていた。そのために、岩壁をよじ登ろうとしたが、足が使えなかった。

崖の上に出ることができなければ、一巻の終わりである。熊嶽は勇気を奮い起こして、折れた足を引き抱え、九字を切り、呪を唱え、気合を入れてうんと立つと、ヒョイと立てた。同時に、洗い去ったように足の痛みが消えた。

つまり、九字を切り呪を唱えると、骨折しているにもかかわらず立ち上がることができ、痛みは感じなくなるのだ。ケガをしているにもかかわらず、していないのと同然になってしまうのである。

崖上に出てから、熊嶽は里に下りることにした。山を下っている時、足の骨が砕けてザクザク音がしているにもかかわらず、歩くことができた。

里で人に疑われて追いかけられ、走って逃げ出してしまうが、この時も痛みを感じなかった。

このように、九字を切り、呪を唱えることで、肉体的な変化が生じるようなのである。

次に病気治しだが、熊嶽は、逃げおおせた時、3 年間腰の立たぬ大病で寝込んでいる娘をもった老婆に遭遇した。熊嶽が木の葉を念力で落として見せると、本物の行者と見た老婆は娘の病気を治してほしいと懇願した。

熊嶽は護摩を焚き、病人に対して九字を切った。そして、一心に降魔の呪を唱え、印を結んで、心身とも粉になれとばかりに祈禱した。すると我を忘れ、玲瓏の境地に達した。

さらに術を切って、病人に向かって「立てい」と叫ぶと、病人はフラフラと立ち、「歩め」と叫ぶと、ヨロヨロながら足を運んだ。3 年間歩けなかった人が歩いたのである。まるでキリストである。

熊嶽はその後も病気治しを立て続けに行い、世間の注目を集めるようになった。

例えば、リュウマチで歩けなかった人を歩けるようにし、イボ・ホクロの類を気合一発で落とし、痛む歯をポロリと抜いてしまい、胃病の人の痛みを取り、乳の出なかった女性の乳をどっと出し、癲癇の人を治した。

このように、力のある修験者は病気を治すことができるのである。

この証言で注目すべきは、九字を切り呪を唱えた後で、我を忘れ玲瓏の境地に達したということだろう。ここがポイントだと思われる。

最後に再びオダイと九字の関係に戻ることにする。

砂澤は霊を払ったり切ったりすることができた。その理由を考えるうえで参考になる発言を、中井シゲノが残している。

中井はオダイになって間もない頃、火護摩や鳴護摩を始めると、信者たちに神様がかかり、信者たちが震え出した。同時に、中井も震え出した。

この時は、収拾のつかない狂騒状態に陥るのが常だったので、困り果てた中井は、意志の力でこの状態から脱しようとした。中井は、全身全霊でエイと気合を入れて九字を切り、心の中で、かかった神様に「そう動かないでください」とお願いした。すると、自分も含めて、全員の震えがやんだ。

その時、中井は人が震え出すのは神様がかかったからで、震えを鎮めるには神様を落とせばいいのだと気づいた。そのためには、気合を入れて九字を切り、神様を説得すればいいのである。こうして、中井は自分に降りてきた神様を落とす方法を会得した。降魔の術とはこのことなのだろう。

これが九字の持っている本当の力なのではなかろうか。

砂澤も霊を払ったり鎮めたり落としたりする時に九字を切っていたと思われる。九字はオダイにとって必殺技であり、必須の技術だったのだ。

砂澤は霊を寄せつけないだけの強さがあり、霊を自在に操ることができたが、それは砂澤が激しい行によって強い精神力と肉体を作り上げ、九字などの呪法を会得することによって、霊に負けない心技体の強さを身につけていたからだろう。

また、激しい行と高度な霊能力によって、気をサイパワーに変えることができたことが、砂澤たちが九字を使えた秘訣なのである。

九字は形と音で見えない力を生み出すことができるが、それは形と音に物質の変化を生み出す力があるからだ。

念力は心の力であり、物質に働きかけて変化させることができるのである。

内藤憲吾『お稲荷さんと霊験譚』(2017-11-28、洋泉社)p180-192

九字の気合による何らかの力は認めるものの、物理現象に結び付ける(念力と考える)のは、いわゆる『月刊ムー』読者脳の思考回路的であり、同意できない。

念写

砂澤の祖母は盲目の霊能者だった。お不動さんとお稲荷さんを信仰し、多くの信者を集めていた。

祖母は滝場で行をしている時に亡くなった。倒れているのを演習に来た兵隊さんが発見したのだが、不思議なことに、死体のそばに「神様がお迎えに来られたので逝きます」と書かれた紙片が残されていたという。

これは念写という PK 現象である。なぜ念写なのかというと、祖母は盲目で文字が書けなかったからだ。しかも滝場には他に人はいなかったのだから、祖母以外の人が書いたとは考えられない。また、急に倒れたにちがいないから、他の人に書いてほしいと依頼することもありえなかっただろう。

そうすると、この場合考えられることは、祖母の念が紙片を呼び寄せて、その念を写し出したと考えるしかないだろう。まさにサイパワーのなせる現象である。

念写は明治時代に話題になった。

東京大学で超心理学を研究していた福来友吉は、霊能者を被験者にして念写の実験を行った。だが、現場に立ち会った他の学者から「インチキだ」と批判されて、大学を去るはめになった。

被験者はいずれも女性で、その中のひとりが高橋貞子だった。高橋は、鈴木光司のホラー小説『リング・らせん』に登場し、一躍有名になったが、その実像は小説によって大きく歪められてしまった。

福来は、大学を去ると、独自で超常現象の研究を続けた。福来が出会った念写の大家は、三田光一である。三田は月の裏側を念写しているが、これはのちに宇宙船が撮影したものと瓜ふたつだった。

三田は空海の姿も念写している。この像は興味深い。

念写は砂澤の祖母には起きたが、砂澤自身はどうだったか確認できなかった。念写は霊能者がいる時に起きやすいので、砂澤の場合も起きていたのではなかろうか。

だが、この念写が私にも起きるとは、つい最近まで想像もしていなかった。

私の経験は偶然だった。私は数年前まで神社でおみくじを引くことはめったになかった。おみくじなんて当たらないとタカをくくっていたのだ。

ところが数年前、ある人の仕事のことで伏見稲荷に参った時、本殿で祈っているとなぜかおみくじを引いてみる気になった。何気なくそういう気になったのだが、引いてみると紙面に「危険!」と大きな文字が書かれていた。「何だこれは、こんなおみくじがあるわけないだろう」とびっくりした。

この時は訳が分からなかったが、のちにこれは念写だったことに気がついた。このことは「3 章 神社の不思議」の「おみくじ」の項に書いた。私はそれまでに念写について調べたことがあったので見当がついたのだが、知識がなければ「不思議なことがあるものだ」で終わっていたことだろう。

念写の大きな文字の意味は当初は分からなかったが、のちに分かった。この言葉は重大な出来事を警告していたのだが、私はのちにその出来事に出合うまでその意味が分からなかったのだ。それで痛い目に遭った。おみくじを信用していれば痛い目に遭わずにすんだのにと後悔した。

しかし、痛い目に遭ったおかげで、ようやくおみくじは本当のことを教えてくれているのだと気がついた。それから、注意しておみくじを読むようになった。

また、この時初めて、霊能者がいなくても、神社のような霊地なら念写が起こりうることを知った。神様がおられるからだ。その意味で、伏見稲荷は本当に不思議なところである。

それから、念写はおみくじを引くと時々起きるようになった。その中には私にとって重要なことが書かれていることがあった。

また、おみくじに関しては、他にも奇現象がいくつか起きたが、これらについては「3 章 神社の不思議」の「おみくじ」の項で紹介した。

内藤憲吾『お稲荷さんと霊験譚』(2017-11-28、洋泉社)p213-216

念力と同様に、念写についても、内藤の考え方には同意できない。彼の挙げている三田光一はインチキ霊能者の典型であると思う。

内藤自身が何度も経験している〝念写体験〟自体を否定するつもりはない。彼は前著で述べているが、その〝念写された〟おみくじの念写部分は、コピー機では複写できなかったと述べているのだから、要するに物理現象ではないのである。彼の霊的な眼に(写真に重なるようにして)視えていた映像である。逆に、物理現象として念写現象を起こしている三田光一の話は、非常にインチキ臭いということが言える。さらに、三田光一が念写したという月の裏側の写真を、後のアポロが撮影したものと「かなり一致している」という判断を下す人々というのも、典型的な『月刊ムー』読者脳の思考回路的だと思うのである。

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