欲天
随分以前にも仏教の六欲天について考察したことがあったが、今ではその頃とは違う仮説が構築されてきたので、改めてまとめようと思う。

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まず仏教というものがそもそも、人間の世界の上に、欲天という、感覚的な欲の世界を天界(神々が生まれ住む世界)を設定していることが重要な留意点である。僕は単純に「感覚的な欲」(の世界)という理解ではなく、感覚的な「欲が充足される」(世界)という仮説で理解している。
つまり、我々人間の現実の物質世界での体験で考えると、いつでも、高級な美味な料理を思う存分食べて満足できたらいいなあ、という欲求がある。一定以上の金持ちであれば実現は可能かもしれないが、大部分の人は「いつでも」「思う存分」は無理だろう。また、金銭的問題は除いても、その美食に耐えうる健康を保てるかどうかという問題もある。
このような、「『美味を味わって、満足する』そのような感覚を、無制限に思う存分満たされるのが、欲天の神々の境遇なのだ」という仮説を考えたらどうだろう?
欲天は当然、我々のような物質的な肉体を持った存在の世界ではない(ただし、仏教では、欲天が、単純に非物質世界的だからといって、即、精神的世界と捉えているわけではないのには注意(精神のみの世界は、無色界となる)。仏教以外のいい加減な考えでは、単純に、物質的現実世界のこの世と精神的世界のあの世に二分する、左脳的短絡思考によって、世界観を構築しているわけだが)。
つまり、欲天の神々は、実際には、大金持ちにならなくても、大金持ちが財力によって味わっているような高級な美食体験を、いつでも思う存分、浴することができる存在なのである。つまり、我々物質的現実世界の人間とは違って、現物(物質)を得る必要がない。ブラック企業の成金オーナー社長や、アメリカ合衆国という国家システムのように、がめつい真似をして、世界中の他者から富を力ずくで吸い上げて繁栄して、贅沢な生活を営もうとする必要はない。
彼らは感覚の対象物質の所有を必要とせずに、直接、その感覚を味わっているのである。
厳密に言えば、感覚というよりは、感覚から得られる「充足」「喜び」である。その充足されたいという欲求が満たされるから、欲天は天界なのであり、そこに住む彼らは神々と呼ばれるのである。
何なら、これは別に、欲天の神々の特権というわけでもないのである。釈尊は、コーサラ国王が物質的な充足にとって味わっている快楽を、はるかに上回る快楽に自由自在に浴することが可能であると述べている。金持ちが高級車を購入したり、所有していることによって得ている満足感を、実際に持たないで、その満足感だけをシミュレーション的に心の中に発生させて再現すればよい。これが仏教で説かれている「依存しない楽」ということの一例である。仏教ではあらゆる依存から解脱することを説くのだが、物質現実的な制限からの非依存(解脱)はその初歩のもの(最初の一歩)である。
つまり、本物の仏教徒であれば、欲天の神々の境地というのは、ごく初歩的な入口段階の物事に過ぎない。
別に「禁欲」思想で無所有などを謳っているわけではないのである。そうではなくて「必要がない」からである。せっせと所有欲を満たそうとして、物質的繁栄を求めようとするような人生を邁進することは。
そうして、まず、なぜ仏教が出家思想をベースとしているのかということが当然であることがわかるようになる。すると、大乗仏教は無茶苦茶なのだということもわかる。彼らの中には、仏教的な理想の楽土を、この物質的現実世界に実現させようと考えたり(仏教をナショナリズムの材料として利用する世直し発想)もするわけだ。仏教徒として入口すら通っていない話である。物質的現実世界に 100% ズブズブに依存しまくりの思考の産物である。中には出家に叛旗を翻して在家中心主義を正当化しようとする者たちもいる(ここまで来ると、非仏教というより反仏教であり仏敵悪魔の直接・間接的な影響下にあると言われても仕方がない)。いずれにせよ、物質的現実世界での物事の成否に依存した思考の所産なのである。
物質的現実が主であり、精神的霊性はあくまでも従であるという、物質的現実に根本的に依存している思考だから、生物学的子孫・民族・国家の存続が自分個人の人生にとっても大変な重大事であり、躍起になるのである。日本人は、死後においても、現実での日本人の成否(繁栄・存続)が、死後の生活の成否(幸・不幸)を左右し、同様のことが、ユダヤ民族においても、キリスト教徒においても、ムスリムにおいても、漢民族(儒教)においても、当て嵌まるということになる。だから、先祖の墓を守ること等に価値を見出したりする。挙句には、他民族・異教徒を滅ぼしてでも、自民族・自宗派を守りその生活圏(縄張り)を伸張させることが正義となり、悪(対立勢力)と共存することは考えられなくなる。何しろ、パレスティナ地域は物質的現実として地球上の限られたスペースなのだから、そこにパレスティナ人が住むか、ユダヤ人が住むかは、ゼロサム問題なのである。これが欲界に囚われた思考というものである(同じことが、日本でも外国人移民排斥思考にも言える)。この「正義と悪は共存できず、悪(対立勢力)の存在を許容することは即、正義(自勢力)を侵害することになる」という思考が、まさしく欲界(物質的現実)に完全に依存・囚われた状態を意味する。例えばネトウヨが、敵対者を即ブサヨだったりチョウセンジンと断じるのも典型的なこの一種である。掲げる大義名分が何であるにせよ、排他的なゼロサム思考が特徴なので、根底にあるのが物質的現実世界における排他的所有権・生存権を巡っての争いなのである。右翼と左翼は共存できないとする。賛成しない者は、反対しているも同然として、敵対勢力と見なす思考回路を持ち、中道的な思考の余地を持たない。極めて民度的に最底辺の愚民の特徴を呈することになる。
このように、欲界(物質的現実)に囚われた思考の精神が、死後、物質的肉体を失うと、その精神が「欲天(欲界の善趣側)に行ける蓋然性がある」わけがない。それが、宗教だの神の正義だのを口先では標榜しつつ、現実にやっていることは、物質的現実における生活空間の独占を巡って平気でライバルを排斥する人生に明け暮れる連中の死後の行先が孕む宿命である。
さて、欲界(物質的現実)に囚われた(執着した)、欲界の悪趣側のしょうもない精神構造についての話はこの程度にしておいて、本題の「欲天(欲界の善趣側)」についての話をしよう。
(非仏大乗ではなく本物の)仏教では、異教のように「偉さ」のレベルによって天界を分けているわけではなく、五感で体験する物質的現実に対する欲(執着)によって天界を分類・定義しているということが、極めて異質であり、そこに釈尊およびそれを聖典という情報の形で適確に現代に伝えた仏弟子の圧倒的・絶対的な知性を垣間見ることができる。
つまり、「欲界において、物質的現実に対する執着を捨てている(解脱している)度合いに応じて、六欲天が定義されている」というのが、僕の仏教仮説である。
この欲界内の解脱の度合いは大きく分けると 3 段階で、上から「キッダーパドーシカ(他化自在天・楽変化天)」「マノーパドーシカ(兜率天・夜摩天)」「地居天(三十三天・四王天)」となっており、それぞれ 3 種の行「意(意志)」・「口(言葉)」・「身(物理的行為)」に対応する。
身 | 口 | 意 | |
---|---|---|---|
善業 | 地居天 (四大王天+三十三天) | マノーパドーシカ (夜摩天+兜率天) | キッダーパドーシカ (楽変化天+他化自在天) |
悪業 | 餓鬼 | 畜生 | 地獄 |
例えば、口先では殊勝な美徳を語っても、心の中では舌を「ベー」と出して悪意を持っている、ということはあるわけであり、この場合は、口では解脱していても、意では解脱していないわけである。これが「マノーパドーシカ(意を汚す者)」に該当する。
「ペン(言論)は剣(暴力)より強し」と言うが、仏教的にも、「口(言葉)」の方が「身(物理的行為)」よりも上とされている。言論を通じて、世の中の不特定多数の人々の行為に影響を与えるので、カルマの総量としては影響が大きいのである。表面的に 1 人の一般市民としては慎ましくとも、ネトウヨのように匿名でヘイトスピーチ・言論をネットを通じて撒き散らしている連中がいるが、「身」の悪行を犯して現世の人間社会において裁かれる側の立場(犯罪者)になることはなくとも、カルマ的にはより根深い悪業に塗れている可能性がある。
その「口(言葉)」よりもさらに上が「意(意志)」である。前述のように、例え、口先では美徳を語っても、心の中の問題は別である。偽善者・詐欺師というのは、他者向けに口先だけは限りなく善を装い、内心では悪意の塊という存在なわけである。「口(言葉)」の行為の方が「身(物理的行為)」よりも上とは言っても、たとえ世間で表向き、口で善業を行っていたとしても、「口(言葉)」よりもさらに上の「意(意志)」で悪業を行っていたら、その悪業の強さの方が圧倒的に勝るのは当然である。例えばトランプ大統領は「口(言葉)」の点では粗暴なタイプだが、彼は代々の民主党政権の大統領(表面的に融和的なイメージでありながら、実際の行動としては外国にパトリオットミサイルを打ち込むようなことをする)と対比して、偽善的ではないので「まだマシ」なのである。
逆に、これら身・口・意の悪業に対して、それら身・口・意の悪業に対する執着(物質的現実世界における排他的所有に囚われた思考)を離れることは、離れた分だけ、身・口・意の善業を実現していることを意味する。キッダーパドーシカ(楽変化天+他化自在天)は、特定のイデオロギー(意念)に囚われることがなく、むしろ自由に五感の体験を自由に変化させることができる。マノーパドーシカ(夜摩天+兜率天)は、特定の言語表現に囚われることなく、自由に他者とコミュニケーションを通じることができ、争いのないユートピアを易々と実現する。地居天(四大王天+三十三天)は、特定の身体的所有に囚われることなく、常に牧歌的で豊かな心の快楽・喜びを享受している。
対する地獄界の住人は、特定のイデオロギー(意念)に完全に囚われており、自らの心が造り出した闇と苦しみの中に閉じ込められている。畜生界の住人は言語(コミュニケーション)において画一的左脳的短絡思考で融通が効かず、他者との相互理解が困難なので、争いが絶えず、常に弱肉強食の恐怖に怯えるサバイバル人生を続けている。餓鬼界の住人は、自分が物質的肉体的に直接所有・享受することでしか、満足を得ることができないので、常に欲求が満たされることなく、心が飢えてひもじさに苛まれている。
テーラワーダ仏教で説かれている、「慈悲の瞑想」というのは、「意(意志)」の行為における善業を意図したものと、僕は仮説的に解している。もちろん、オフィシャルには、「慈悲の瞑想」は、禅定のための瞑想の一種であり、カテゴリーとしては色界(梵天界)に属すべきもので、六欲天の考察として取り上げるのは、不適切ではないか、と考える人もいるかもしれない。だが、僕の仮説では、ちょっと違う。在家の人間が行動する限り、原則的に、その行為は、欲界内での行為なので、どこまで言っても、「慈悲の瞑想」を行っても、欲界の行為であり、善業は、欲天に再生する果をもたらす蓋然性の高いものとなると考える(逆に言えば、出家が「慈悲の瞑想」を行った場合は、そうではなく、欲天を離れた色界での行為となることは否定しない。ただし、出家というのは、欲界・人間界・俗世間・一般社会的な意味での形式的・社会的身分としての出家(僧侶の身分)を言うつもりはなく、「出世間の状態になっている」という意味での出家である)。
つまり、僕の仏教仮説的には、在家の俗世間人の行うテーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」というのは、通常、「キッダーパドーシカ(他化自在天・楽変化天)」的な意行と関係した善業である。スッタニパータにおいて、「畑を耕して働くなりして社会貢献することが善だと思うが、仏教の出家僧は瞑想ばかりして何も社会の役に立っていないではないか」という趣旨の疑義を投げかけたバラモンに対し、釈尊は反駁したが、要するに、「意行の善業」ということが理解できねば、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」の意義についても理解できないだろう。
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