死後の行き先
結局我々は、(自然科学的な)死後、肉体を失うわけで、そうなると、自然科学的な意味での肉体的な生命に依拠した自他(内外)の区別は失う。
そうなると、精神性が前面に出る世界に、投げ出されることになる。
生前は、肉体的な生命の観点では、例えば、戦争の渦中にない、日本やアメリカ本土で人生を送っていて、人生のゴールを迎えて、〝勝ち逃げ〟で人生を全うできたとしよう。ウクライナや、中東での戦争は、遠い世界の他人事として済ませられたとしよう。
仏教的に考えると、この、遠い世界での戦争に、どのような精神性を持っていたかという、その業からは逃げることはできない。それらの戦争に積極的に(業の主犯格として)コミットしていたならばそのような業を、受動的に(業の共犯格として)コミットしていたならばそのような業を、為した、と考えることができる。
生前は、肉体的な生命の観点で、自他を区別しておれば、安全なまま、人生を〝逃げおおせる〟──かのように思っていられる。
肉体的な生命を失った後が問題である。剥き出しの精神性が襲いかかる。それはもう、遠い場所の他人事ではない。戦争にコミットした精神性の度合いに応じて、死後の意識は、そのまま戦争状態に包み込まれる。
株式投資の界隈では、「(日本にとっての)遠い戦争は買い」などと宣って、軍需産業の会社の銘柄を積極的に買ったりする投資方針が言われたりする。これは業の上では、何らかの形で戦争と縁を深めることには違いない。生前の生きている間の直接的な影響(業報)からは無事に逃げおおせるかもしれないが。
アメリカという国は、結局、何か(民主主義だの、自由市場主義だのという)理想とかポリシーなどがあるわけではなく、自国がナンバーワンであることが至上目的・本音なのであり、まるで百獣の王ライオンのような精神性こそが本質に思われる。
一方、アメリカの軍事行動の背後にいるのが、イスラエル(の激しい敵意)であり、彼らユダヤ民族は千年以上にわたり、異教徒と敵対する精神性の中で歴史を重ねてきた。
現世の、この自然科学的な世界において、アメリカが覇権を維持したり、イスラエルが怨敵を滅ぼし続けるのは、それはそれである。
仏教的に気になるのは、この自然科学的な世界を離れて(肉体的な生命の死により、それは強制的に起るわけだが)、精神性が前面に出る世界に、投げ出された後のことである。
死後、それぞれの生命は、自らが抱いていた精神性にどっぷりと包まれ、埋没することになる。
アメポチをやっている日本とて、そのルールからは逃れることはできない。アメリカがライオンなら、日本はポチ(犬)、ワイルドドッグあたりみたいなものかもしれないが。
cf. 地獄または畜生の胎

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