愛生経が突き付ける厳然たる(?)仏教現実

相応部のコーサラ相応 16「マッリカー経」(マッリカー妃が王女を出産し、王子ではなくて、パセーナディ王ががっかりしたという話註 1)を読んでいてその註釈情報から、中部 87「愛生経」に登場するヴァジリー王女がその時生まれた当の王女だという説があるとのことだった。

そういった流れで、(かつてデジタル写経したことのある)この「愛生経」を 2 年ぶりくらいに読み返したが、以前には全く気付かなかったポイントが心に引っかかり、とんでもなく〝エグい〟仏教ドラマが展開されている経だという印象が深く刻まれた。

まず、経の話の流れとして、いきなり、アナータピンディカ長者と仏陀が喧嘩する場面からスタートする。もちろん、仏教であるから、実際には、仏陀の側では喧嘩しているのではなく、アナータピンディカ長者が一方的に気分を害して、仏陀を非難して席を立ったというのが本当のところである。

資産家は世尊が説かれたことを喜ばず、非難した。そして、座から立ち上がり、去って行った。

片山一良・訳『中部 中分五十経篇 II』(2000-07-25、大蔵出版)p.294-307

もちろん、アナータピンディカ側も、何も理不尽に腹を立てたわけではない。彼は一人息子を亡くして、悲しみのドン底に打ちひしがれていたという状況であり、彼としても、仏陀からの何かしらの慰めの言葉も期待するところがあったのだろう。だが、アナータピンディカの期待は裏切られ、それによって彼は不満を爆発させる結果になるのである。

仏陀「なぜなら、資産家よ、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、愛情から生じ、愛情から起こるからです」

アナータピンディカ「尊師よ、いったい誰がそれをそのように、〈愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは愛情から生じ、愛情から起こる〉と思うのでしょうか。なぜなら、尊師よ、歓喜・喜びが愛情から生じ、愛情から起こるからです」と。

片山一良・訳『中部 中分五十経篇 II』(2000-07-25、大蔵出版)p.294-307

あの、在家信者の鑑のような人物像として扱われているアナータピンディカ(預流者だったとされる)が、しかし、この経ではそのようなステレオタイプのパターンから逸脱しているのである。この段階で僕はただならぬものをこの経に感じるわけである。

同時に、最高完璧な教導者としてステレオタイプ化されている仏陀のパターンからも逸脱しており、仏陀側もまた、この経ではアナータピンディカに誤解を与える表現をして、彼の気分を損ねさせてしまっている。

僕はむしろ、こういったステレオタイプからズレて描かれているエピソードの方が、より仏陀在世当時のリアリティを感じるのである。それはそのような美化されたステレオタイプを描くよりも、もっと重要な意図が経に埋め込まれており、経を編纂した当時の阿羅漢弟子にとっては、その重要な意図を汲んで、そのような形のままで経を語り継いだのであろうから(逆に、時代が下って阿羅漢弟子の存在感が薄くなるにつれ、ステレオタイプ像の整合性を保つ方が重要になり、アビダンマや註釈などに見られるように、情報としての辻褄合わせに躍起になる姿勢が前面に出てきたように思われる)。


そしてこのような事件が当時の世間(サーヴァッティ城下)で話題となった。おそらく、アナータピンディカ自身があちこちで言いふらしたのである。当然、パセーナディ王の耳にも入り、アナータピンディカの(意見の)方が「当然正しい」「当たり前」「常識的な感覚だ」と思った王は、熱心な仏陀の信者である妻のマーリッカ妃に「仏陀は非常識なんじゃないのか」という風に、話題を振った。

パセーナディ「マッリカーよ、沙門ゴータマはかれらに、〈愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、愛情から生じ、愛情から起こる〉と説いておられる」と。

片山一良・訳『中部 中分五十経篇 II』(2000-07-25、大蔵出版)p.294-307

それに対して、仏陀に対する真正の「saddhā」を確立していたであろう、マーリッカの反応はこうだった:

マッリカー「大王さま、もし世尊によってそれが説かれているのであれば、それはそのとおりにございます」と。

片山一良・訳『中部 中分五十経篇 II』(2000-07-25、大蔵出版)p.294-307

この経では、明らかに、註釈などで「預流者だった」とされているアナータピンディカよりも、特に「預流者だった」という情報が(僕の知見においては)明言されていないマッリカーの方が真正の預流者たる真骨頂を見せているのである。この経で描かれている限り、アナータピンディカは預流者としては仮性であり、預流道者と言うならばまだ納得できる。一方、揺るぎのない信を見せているマッリカーこそが、預流者たる面目躍如といった姿で描かれている。

アナータピンディカすら、この経の主役であるマッリカーの聡明さを演出するための〝噛ませ犬〟的な引き立て役を演じさせられているのが、この経の特異に思われるところである。


だが、ステレオタイプ的な預流者を描く〝並の〟経ではここで終るのだろうが、この経はここからさらに、先に進むのである。ここから先の展開にこそ、この経の編纂者の意図が存在するのであろうと思う。

アナータピンディカが世尊に不満を爆発させたのと同様に、パセーナディはマッリカーの反応に不満を抱き、彼女を追い払ったのである。

パセーナディ「それにしても、このマッリカーは、『大王さま、もし世尊によってそれが説かれているのであれば、それはそのとおりにございます』と、このように沙門ゴータマが説いておられることのみを喜んでいる。それはたとえば、師匠が弟子に語ることを、その弟子が『師匠よ、それはそのとおりです。師匠よ、それはそのとおりです』と、そのことのみを喜んでいるようなものだ。マッリカーよ、そちは『大王さま、もし世尊によってそれが説かれているのであれば、それはそのとおりにございます』と、沙門ゴータマが説いておられることのみを喜んでいる。他へ行け、マッリカーよ。下がれ」と。

片山一良・訳『中部 中分五十経篇 II』(2000-07-25、大蔵出版)p.294-307

まさしく、このパセーナディのセリフにこそ、この経の核心が込められている。「信」というのは、外見上、盲信と区別が付かないではないか、と。一体、現代のテーラワーダ仏教徒のうち、本当に、教えの「中身」まで自ら理解して、信者を自認している人がどの程度いるのか? 結局、「仏陀がおっしゃった言葉だから」という段階で思考停止している人がほとんどではないのか? と。

この経において、マッリカーは、盲信状態から 1 歩踏み出して、仏陀の言葉の真意を、自らの思考として理解するため、自分の側から主体的に歩み寄る行動を見せるのである。彼女は、使者を通じて、仏陀にこの件〈愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、愛情から生じ、愛情から起こる〉について問い合わせ、さらに詳しい世尊の説明を入手する。

世尊の回答は、様々な人々が、愛情によって結果的に不幸に終った実例を示すものであった。

この経では、仏陀世尊もまた、マッリカーの聡明さを示すための引き立て役なので、世尊の言動はあくまでも出家者目線の、出世間寄りの表現であり、依然として、精神が顚倒想に埋没している凡俗の感覚とは乖離があり、「愛情によって幸福な体験をする」というアナータピンディカ・パセーナディたちの側の考えを覆す方向での説明にはなっていない。俗に言う「斜め上を行く」回答である。

だが、ステレオタイプ的に「仏陀は最高の教導者である」という称賛に沿った描かれ方よりも、この経の仏陀像の方が、僕は、リアリティを感じ、むしろ「整合している」と思うのである。なぜならば、そもそも、成道直後、世尊は

「私が苦から得たものを
どうして今説くことができよう
貪り、怒りに敗れた者に
この法はよく覚られず

流れに逆らい、微妙なる
深遠、微細、見難いものを
暗闇群に覆われた
貪りに染まる者は見ず」

と。

このように、世尊は熟慮されたが、意欲を無くし、心が説法に傾かなかった。

片山一良・訳『相応部 有偈篇 II』(2012-04-10、大蔵出版)p.137-142

とおっしゃっているわけで、誰でも彼でも、仏陀の教えの真意が理解できることを、期待できようはずがないからだ(その意味でも大乗主義は反仏教である)。それがむしろ、厳然たる仏教現実のはずである。ごくごく一部、仏縁的に一定の資質・徳に恵まれた者(仏縁エリート)だけが、教えを適切に汲んで、悟り・解脱に達することが可能なのであって、(感覚的表現として)99.99% 以上の凡俗は、情報としての教え(パーリ聖典)だけ同じく手元にあったとしても、理解して真意を受け取ることが不可能なのである。


その、仏陀の語る出世間と、我々のいる世間的な感覚との間に生じているギャップを、マッリカーは、自らの知性で埋めていく(つまり、彼女は出世間側に歩みを進め、思考回路をシフトさせる)。その行為によって、後世の経の読者である我々にも、仏陀の真意が明らかにされることになる。

マッリカーは、パセーナディに対して、彼自身の愛する親族や領土に、ネガティブな異変が生じた場合に、心痛を感じはしないか、という形で、客観的・一般論的表現ではなく、パセーナディの主観から仏陀の言葉〈愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは愛情から生じ、愛情から起こる〉を体感させることで、理解・納得させたのである。

「大王さま、そのことをどう思われますか。つまり、あなたさまはヴァジリー王女を愛しておられるのか、ということです」

「そのとおりだ、マッリカーよ。余はヴァジリー王女を愛しておる」

「大王さま、そのことをどう思われますか。つまり、ヴァジリー王女に変化や異変があれば、あなたさまに愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが起こるのか、ということです」

「マッリカーよ、ヴァジリー王女に変化や異変があれば、余の生活にも異変があるであろう。どうして余に愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが起こらぬことがあろうか」

「大王さま、かの知るお方、見るお方であり、阿羅漢、正自覚者である世尊は、そのことについて、このように説いておられます。〈愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、愛情から生じ、愛情から起こる〉と。

(……)

パセーナディ「不思議なことだ、マッリカーよ。珍しいことだ、マッリカーよ。かの世尊が慧によって洞察し、見ておられるように思えるとは。さあ、マッリカーよ、浄めよ」と。

そこで、コーサラ国王パセーナディは座から立ち上がり、一方の肩に上衣を着け、世尊がおられるところに合掌を差し向けて、3 度感嘆の言葉を発した。

「阿羅漢にして 正自覚者なる かの世尊を拝したてまつる
阿羅漢にして 正自覚者なる かの世尊を拝したてまつる
阿羅漢にして 正自覚者なる かの世尊を拝したてまつる」

と。

片山一良・訳『中部 中分五十経篇 II』(2000-07-25、大蔵出版)p.294-307

この経の真の主役はマッリカーであり、読者側の立場の代理がパセーナディである。仏陀は世俗と感覚がかけ離れてしまった出家の典型的な立場を代表しており、アナータピンディカは凡愚な世俗人の側の典型的な姿を代表している。そして何よりも、アナータピンディカだけでなく、仏陀その人ですら、ステレオタイプに嵌めずに、登場人物としてこのような形のドラマを平然と描くことで、例え表向き・形式上は仏教に好意的・熱心な仏教信者であっても、真正の信を確立した仏教徒は限られているということを浮き彫りにし、(有学は)かくあるべし、という内容・構造を持つこの経を編纂した、阿羅漢弟子の恐しくも冷徹で切れる知性が際立っているように思う(中部経典群は元々、サーリプッタ尊者の弟子の系統が保持していたとされる)。つまりこれが仏教現実なのだ、と。


要するに世尊は、アナータピンディカが亡くした一人息子のことを「いかほど愛していたのか」ということを認めて、「なぜなら、資産家よ、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、愛情から生じ、愛情から起こるからです」と言ったわけである。「愛はよくない」「愛を捨てて出家せよ」などとは仏陀は一言も言っていない。むしろ愛情がなかったならば、アナータピンディカは「愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩む」ことはなかったわけである。世尊はアナータピンディカが「本当にその息子のことを愛していたんだね」という意味で「なぜなら、資産家よ、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、愛情から生じ、愛情から起こるからです」と言ったわけである。彼の息子への愛情が真実のものであることを認めるための発言だったのだろう。「愛は喜びをもたらしもするし、苦しみをもたらしもする」「いずれにせよ、それは愛の大きさゆえである」と。決してアナータピンディカの息子への愛情を否定するものではなかったのだ。

ところが、凡俗の側の思考回路はそうではない。昨今の AI が模倣できるような左脳的な短絡思考(猿智慧)の足し合わせ的な集積であり、仏陀の発言を、「愛を捨てよ」「出家せよ」と言われたと短絡して、+1 を否定されると、-1(反対)を言ったと受けとるデジタル思考なので、本当は 0(中道)を言っている(ternary の右脳的多次元立体思考だ)とは思いが至らない。「敵の敵は味方」「味方しないならお前は敵」「左翼の意見を否定するお前は右翼」「右翼の意見を否定するお前は左翼」「小乗に対する大乗だ!(ドヤ顔)」等々。仏縁的知性の観点では所詮、世の中の 99.99% 以上がそのような顚倒想ベースの思考回路全開フルマックス凡愚アタオカである。仏陀ご自身でも、そういった凡愚との間のコミュニケーションの齟齬による軋轢は、しばしば発生したのであり、相手が在家のサポーター信者としては最も称賛されるアナータピンディカであっても、その例に漏れなかった。であるから、このアナータピンディカの件は、典型的な事件として後世に伝えるに値する好例として経の形で残されることになったのだろう。


そして返す返すも際立つのが、マッリカーの聡明さ、ということになる。註 2

だが、マッリカーがいくら聡明で、仏陀の言葉の真意をただの耳知識的情報(AI でも代替可能な左脳的短絡思考の集積レベル)ではなく、自らの(主観的)思考として理解する智慧(慧根)を持ち合わせていたとしても、アナータピンディカや当初のパセーナディのように、仏陀に対する信が不完全な人物だったとしたらどうだろう? 今現在、自分が主観的に理解できないからといって、即「仏陀の言っていることは非常識だ」と拒絶して、その場で切り捨てていたら、そもそも無理解の現状から理解の状態へ向おうとする、機会チャンスすら失われる。というか、自ら捨てているので、自業自得以外の何物でもないのだが、これが仏縁というものである。

であるから、物語の冒頭で、マッリカーが見せた「もし世尊によってそれが説かれているのであれば、それはそのとおりにございます」は、預流道(有学)にある者の態度として、極めて重要なものだということがわかる。これが「信」なわけである。信が確立されていなければ、そもそもの仏縁(仏陀の教えの真意を悟るチャンス)すら、自らゼロにしていることになるわけである。

また、一方で、そのまま盲信状態と変わらない、仏陀をただ信じているだけの状態に留まることも、有学として褒められたものではない。そのようにこの経の編纂者であろう阿羅漢弟子は考えているわけである。そのような批判をパセーナディ(彼は信よりも慧が優位な人物として描かれている)に代弁させることで、マッリカーは、自らの智慧を始動させることを余儀なくされる。

つまり、「信」は教えを悟るための外縁となるという意味で、これは「善友性」として他所で説かれている徳の別の表現である。一方、「慧(根)」は教え悟るための内因となるという意味で、これは本来、初転法輪の 4 聖諦の冒頭で説かれている「中道(的視点)」のことのはずだが、なぜか現代に到るテーラワーダでは「如理作意yonisomanasikāra」などという経典の中ではあまり頻出するわけでもない表現の方が好んで使われてしまっている。註 4

つまり、6 処における、外処と内処の関係と同じで、外縁と内因が同時にセットになって初めて「悟り」として機能するわけである。信・善友性は、外の見るべき先の対象(色)であり、慧・中道(思考)・如理作意は内の見る側の眼(心眼)である。内の見る眼(心眼)のない者(慧根のない猿智慧左脳的短絡思考のみの 2 因凡夫)は、いくら情報だけ正確な正解としての経典知識を多数得ても、結局何一つ、その真意を理解することはできない。本経のアナータピンディカはそのような凡夫の残念な例として描かれており、彼自身は 3 因者としての機根はあったはずだが、仏陀に対する信が揺らいで、2 因凡夫の典型例として登場させられている博打打ち(現代日本で言う〝パチンカス〟のようなものか)の連中と意気投合する様子が描かれている。

一方、我々読者の視点は、マッリカーの夫パセーナディに沿うように構成されており、彼の「それにしても、このマッリカーは、『大王さま、もし世尊によってそれが説かれているのであれば、それはそのとおりにございます』と、このように沙門ゴータマが説いておられることのみを喜んでいる。それはたとえば、師匠が弟子に語ることを、その弟子が『師匠よ、それはそのとおりです。師匠よ、それはそのとおりです』と、そのことのみを喜んでいるようなものだ」というセリフに代弁されている。パセーナディもまた慧根のある 3 因者だったが、仏陀に対する信が確立されておらず、マッリカーの態度を、「信者だから師を支持しているだけの話じゃないか」と不満に思っているわけである。

だが、パセーナディはマッリカーの見事な誘導により、仏陀の言葉の真意を現観するに到ったので、仏陀への信を確立し、3 拝する。もし、彼に慧根が無ければ、マッリカーを通じた仏縁(善友性)に恵まれたとて、その悟りに到ることはできなかったはずである。つまり、彼は 2 因凡夫ではなく、3 因者だったことになる。註 5

「盲亀浮木の例え」註 6というのは、単純に、確率的に非常に稀なチャンスを例えようとしたものではない。「浮木の孔」は仏縁という外縁(心を向ける対象の適切さ)である。大乗経典のような非仏外道の不適切な情報を見ていては、どんなに慧根のある人でも、悟れるわけがない。一方、「盲亀」はただの亀ではなく「盲亀」に例えた意図があり、つまり、この経の冒頭のマッリカーのように、他人からは盲信とも受け取られかねない、「信」が 100% 確立された預流者のことを言っているわけである。この俗世間の肉眼(顚倒想)を閉じた盲亀が代わりにその 3 因者たる心眼を以って適切な教えを対象として針穴を通すが如く適切な角度で通し「見た」時、初めて、その人に教えの真意が明らかになる註 7

だが、世間の実態、仏教現実として、99.99% 以上が、凡夫であり、仮に 3 因者であっても多くが(本経のアナータピンディカのように)、2 因凡夫たちの「常識」「正義」「これが人として当たり前の感覚」に流され、埋没してしまう運命にある、それが顚倒想の価値観に覆われたこの世間なわけである。「世直し」「仏国土の実現」「在家主義」「大乗」などといった妄言は、この俗世間に精神性・価値観が完全にロックインされた、反仏教徒(仏敵悪魔の手先)の戯言の典型である。


  1. パセーナディ王・マッリカー妃・ヴァジュラー王女の 3 人は、何となく我が国今上天皇の一家を思わせるものがある。ちなみにヴァジュラー王女は大乗経典で勝鬘夫人として描写され、我が国では兵庫県宝塚市にある中山寺の本尊である 11 面観音のモデルとなっている。この中山寺は聖徳太子ゆかりの寺であり非常に古く、最澄(比叡山)・空海(高野山)ですらその比ではない。
  2. 新約聖書の聖母マリアの元ネタは、仏陀の生母マーヤーだろうが、(出自が卑しかった)マッリカーの方は、(娼婦の)マグダラのマリアの元ネタとなった人なのかもしれない。もちろん「マグダラ」という地名は「マガダ」の訛化だろう。訛化元が「コーサラの」ではなく「マガダの」である理由については、結局後にコーサラはマガダに征服されるので、新約聖書を創作した時代・地方の人々にとっては、同じようなものだった、と説明することもできる註 3。ちなみに「マッリカー」というのはジャスミン(花)のことである。
  3. マガダ国王家のビンビサーラ・アジャータサットゥ親子よりも、コーサラ国王家のパセーナディ・マッリカー夫妻やサーヴァッティのアナータピンディカ精舎という舞台の方が、はるかに存在感が多い、と感じているのは、僕だけだろうか?(仏教学者の森章司も似たようなことを指摘していた)にもかかわらず、不思議なことに、ビンビサーラ・アジャータサットゥ親子については、死後や未来世について語られているのに対し、パセーナディはただ非業の死を遂げたことが描写され、それに関する世尊のコメントは残されず、マッリカーも(僕の把握する限り)預流者等の聖者だったとされるわけでもなく、ダンマパダの註釈の説で(地獄を一時的に経由して)兜率天に転生したとされるのみである。これはおそらく、マガダに征服されてコーサラが滅ぼされたことと、無関係ではないと思う。元々はコーサラ王家と密接な関係を築いていた仏教が、マガダによる破壊的行為によって、情報伝持の時代的な不連続性を生じたのだろうと思う。
  4. cf. スマナサーラ長老『イティヴッタカを読む①有学経 無明を破る2つの条件』(2023-10-19)
  5. またパセーナディは彼自身も 3 因者だったが故に、マッリカーの 3 因者たる 0.01% 以下の類稀なる聡明さを真に理解して身分を越えて寵愛したわけであり、単純に媚びることのない彼女と時に不仲となりつつも、彼女のことを手放すことなどできようはずはなかったのだろう。
  6. 相応部 諦相応 47
  7. 別の表現で言えば、ランダムな点で描かれた 3D 立体アートが、コツを掴んだ人にのみ、浮かび上がって像が見えるようなものである。これが右脳的多次元立体視とでも言うべきものであり、パーリ聖典についても、限られた資質を持つ人が読んだ場合にのみ、そのような像が浮び上がる情報が行間を透かした向こう側に埋め込まれているということになる。「人身に生まれるのは非常に稀な機会だから、悟れるように人生を無駄にするな」と盲亀浮木の例えを「まれさの例え」として読む(教訓読みする)のは、左脳的思考でもできる。だが、このような中道視点(如理作意)の意識状態と信(善友性)を、さりげなく盲亀と浮木の孔の形で形容してみせる、仏陀の知性の卓越さを見よ。それらの経の真の価値を理解したからこそ大切にし、現代まで語り継いだ、阿羅漢弟子の正統な道統(サンガ)を見よ。

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