法を現観したチャンダナンガリカのスタンディング・オベーション
片山一良・訳の相応部を読んでいて、コーサラ相応の 12「五王経」に行き当たった。
経のあらましとしては、コーサラ国王パセーナディを含む 5 人の王族たちに代表されるグループが、5 欲(5 感)のうち、どの刺激が最も気持良いか(勝れているか)で論争になり、決着を付けるため、仏陀世尊に判定を仰ぎにきた──というものである。
「……尊師よ、もろもろの欲の中で何が最上でありましょうか」
「大王よ、喜ばしいものの終極こそ 5 種の妙欲の中で最上である、と私は説きます。
大王よ、ある者にはそのもろもろの色こそ喜ばしいものになりますが、ある者にはそのもろもろの色が喜ばしくないものになります。もろもろの色によって心喜び、思いが満たされる者は、そのもろもろの色の他に、さらに好いもの、あるいはさらに勝れたものを望むことがありません。かれにはそのもろもろの色が最高になり、かれにはそのもろもろの色が無上になります。
大王よ、ある者にはそのもろもろの声こそ……無上になります。
大王よ、ある者にはそのもろもろの香こそ……無上になります。
大王よ、ある者にはそのもろもろの味こそ……無上になります。
大王よ、ある者にはそのもろもろの触こそ……無上になります」
片山一良・訳『相応部 有偈篇 I』(2011-06-01、大蔵出版)
「喜ばしいものの終極」という表現がわかり辛いかもしれない。片山版では、註釈も訳されていて、「喜ばしいものの終極」について
manāpa-pariyanta.〈喜ばしいものの完成(manāpa-nipphattika)、喜ばしいものの頂点(manāpa-koṭika)。その場合、2 の喜ばしいものがある。すなわち「人の喜ばしいもの」(puggala-m°)と「一般の喜ばしいもの」(sammuti-m°)である。「人の喜ばしいもの」とは、ある人に好ましいもの、楽しいものが、他の人に好ましくないもの、楽しくないものとなる。なぜなら、辺境に住む者たちにミミズは好ましいもの、楽しいものであっても、中部地方に住む者たちには毛嫌いされるものとなる。また、かれらに孔雀の肉などは好ましいものであるが、他の者たちには毛嫌いされるものとなる。これが「人の喜ばしいもの」(人の好み)である。他が「一般の喜ばしいもの」(一般の好み)である〉。《意(mana)を得させる(āpayati)、増大させる(vaḍḍheti)から喜ばしいもの(manāpa)、心の喜び(manorama)である。「喜ばしいものの完成」とは、その人の意によって愛されるもの(piyāyita)である。その最上の状態(agga-bhāva)によって終極(pariyanta)、最高(parama)、頂点(koṭi)にして生起しているもの(pavattita)、という意味である》。また《「人の喜ばしいもの」とは、所縁の自性を考慮せず、人によって、喜ばしいものの状態によって、好ましい状態によって、好まれるものである》。
と解説されているのだが、わかったようなわからないような、依然として、すっきりしない。
僕は、全体の文脈からして、「喜ばしいもの」を「渇愛」のことだと最初に思ったので、それから逆に「喜ばしいものの終極」という表現の解釈に遡って適用して考えてみて、「渇愛の終極」=「苦(因)の滅」=「涅槃」と 4 聖諦的な表現と捉えてみた。つまり、「喜ばしいものの終極」というのは「(5 欲のいずれかに対する、その)喜ばしさが打ち止めになること」という趣旨だと思うのである。
感覚刺激の生滅のうち、滅こそが、最上(の楽)である、と世尊は看破して即答しているわけである。
「人によって、視覚が最上になったり、聴覚が最上になったり、人それぞれだね〜」などと、相対的な玉虫色の知った風な(似非仏教徒的な)回答をしているわけでは、決して、ない。
苦と楽を相対的・水平に見て、「苦あれば楽あり」などということを宣うような、仏縁的な知性評価基準からすれば、低レベルの思考ではない。仏陀が説くのは「一切皆苦」である。一切の感覚(受)は本質としては苦だからこそ、その滅がメタな意味での楽(涅槃)となるわけである。
パセーナディ王たちのしょうもない世俗まみれな興味本位の質問に、さらっとこういう切り返しで 4 聖諦を示す仏陀に、僕は衝撃を受けた。(これまで何度衝撃を受けたことかわからないが……。)
だが、ここからさらなる衝撃が読者を追い討ちする。
僕が受けたような衝撃を受けたのかどうかはわからないが、おそらく、その場に居合せた在俗信者の中にチャンダナンガリカという人がいて、仏陀の回答を聞いて、法を現観したであろう彼は、思わず立ち上がって仏陀に偈で感想を述べるのである
チャンダナンガリカ信者は座から立ち上がり、一方の肩に上衣を着け、世尊に合掌を差し向け、世尊につぎのように申し上げた。
「世尊よ、私には明らかとなりました。善逝よ、私には明らかとなりました」と。
「チャンダナンガリカよ、それを明らかにしてごらんなさい」と。
そこで、チャンダナンガリカ信者は、世尊の面前で、かのお方を、ふさわしい偈によって称賛した。
「よき香りの紅蓮コーカナダは
朝に花咲き、香りが失せず
見よ、そのように輝くアンギーラサを
空に輝く太陽の如し」と。
註釈では、「チャンダナンガリカは、宝石で着飾った 5 人の王族たちよりも、仏陀の姿の方が圧倒的に光り輝いて見えたので、仏陀を褒め讃えたのだ」としているが、この註釈は的外れに思う。文脈的に意味不明すぎる。
チャンダナンガリカは仏陀の言葉から法を現観したので、「世尊よ、私には明らかとなりました。善逝よ、私には明らかとなりました」と言ったのである。明らかとなったのが、「王よりも仏陀の方が姿が輝いていること」では、理由づけが稚拙に思える。
チャンダナンガリカの(心の)目に明らかとなったのは、(仏)法であり、仏陀が 4 聖諦の滅諦などを示していることに気付いたのだろう。思わず立ち上がったのも、無理からぬことである。
彼の偈の前半は「蓮の花が咲くのは朝だが、香りは残っている」というのは、仏陀のパセーナディ王に対する回答の、感覚刺激の生と滅に対応する表現だということがわかる。花は感覚刺激、香りは渇愛の滅、ということである。「世尊よ、花が咲き終えても、残されている香りの方のことについて、善逝よ、あなたは説かれているのですね」という意味の偈である。
世俗人は、5 欲の生(欲界)の方(花の美しさ)に心が捉われているので、出世間的な滅の方(香りの良さ)に気付かないが、今やチャンダナンガリカは出世間的な香りに目が行くようになり、仏陀の存在が出世間的な香りである仏法(光)の化身として究極に輝く存在であることを現観したわけである。それが偈の後半として表現されていることになる。
今、まさに法を現観したチャンダナンガリカがスタンディング・オベーションして仏陀を称賛した姿には、さすがに、他の人々にもただならぬ様子を感じさせるものがあったようで、5 人の王たちは、チャンダナンガリカの仏陀に対する称賛を示す姿のあまりもの見事さに思わず『負けた、お前がチャンピオンだ!』、彼らの宝石で飾られたガウンをチャンダナンガリカに着せて与えたという。だが、これは、要するに、パセーナディ王たちは、仏陀の回答の意味は理解できなかったということも物語っている。
そこでチャンダナンガリカは『そうじゃないんだ』と、自分に与えられたガウンを、改めて(真のチャンピオンである)仏陀にお着せして差し上げた──というのが、この経の顛末。
渇愛とか 4 聖諦という話になると、どっぷり仏教ド真ん中な語彙が散りばめられた文章になってしまったので、改めて、パセーナディ王たちの大元の質問の側に寄せてみたい。「喜ばしいものの終極」がなぜ、5 欲の中で最上、究極の快楽なのか?
繰り返しにはなってしまうが、5 欲の刺激というのは、本質的に苦なので、苦(刺激)が打ち止めになることが、真の楽なのである。「5 欲の刺激が本質的に苦」ということは、スマナサーラ長老もよくおっしゃられているような話だが、要するに、本当に楽ならば、その刺激を連続して与え続ければよい。甘いものが好きならば、目覚めている間ずっと、甘さを感じ続ければいい。飲み込まないようにして、砂糖水を入れたコップに舌を入れっぱなしにする。本当にそれが快楽ならば、ずっとそうしていたいと思って、人から言われなくても努力工夫して勝手にどうにかしてやろうとするはずである。本当に快楽ならば……。
結局、1 日 24 時間の中、絶えずに同一の刺激に固定して浴び続けることが望まれるような快楽などはなく、24 時間の中で考えれば、たまの束の間に得られる刺激に過ぎないことがわかる。空腹を解消するために美味しいものを食べるわけであって、実は、空腹でもないのに、美味しいものを食べること自体が、喜ばしいもの、快楽として存立しているわけではない。つまり、本質的には、美味しいと感じる何かを食べることで、空腹という別の感覚(苦)が「消えること」、その方が本質的な楽の正体なのである。
仏縁的文脈で「知性の低い(低能な)」世俗の人々は、にもかかわらず、苦が「消えた時に感じた楽」を、それを消した別の感覚刺激が「生じたことによる楽」と思い、執着する。それが 5 欲と渇愛の正体なわけである。
マイナス(苦)がゼロになる(解消される)ことが楽なのに、仏縁的低能は、プラス(刺激の発生)が楽だと思うわけである。だから、食事をするにも、空腹(胃袋)を満たすだけで満足できず、塩だの砂糖だの醤油だのソースだのをだくだくにしてわざわざ味を付けて、プラスの刺激を盛ることが当然だと思っている。病的な精神性だと批判される筋合いはない、と思っている。
僕はそもそも、4 聖諦の「滅諦」というのは、「涅槃=輪廻からの解脱」みたいな話(阿羅漢の境地)と思っていて、自分には程遠い究極のゴールのようなものが説かれているのかなとボンヤリ思っていたが、この経に出会って、「5 欲の刺激の生滅の滅の側面」が「滅諦」と対応しているというアイデアに目覚めて、衝撃を受けた次第である。「物質が生滅する様子を観察して無常性を悟る」みたいな瞑想論を聞くこともあるが、基本的に超常的な感覚論のように思えてピンとこなかった。だが、この経の仏陀のセリフは、滅諦について述べたもの、と考えるに、相応しいもののように思える。
苦諦と滅諦を蓮の花とその香りの関係に例えたチャンダナンガリカのセンスも凄い。仏陀在世時の世界って、想像するだけでもぶっ飛んでいる。
(ちなみに、チャンダナンガリカのこの偈は当時から有名なものだったようで、物覚えの悪いチューラパンタカに兄のマハーパンタカが憶えさせようとしたのもこの偈であったという)

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