投稿

11月, 2022の投稿を表示しています

梵網経の 62 邪見

イメージ
Unmismoobjetivo , CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons 梵網経のデジタル写経が終ったので、62 の邪見を表にして整理してみた。 スマナサーラ長老の“他宗教・他宗派イジり”に刺激されて、この際、62 見で網羅し(網で捕え)たいと思った次第。 基本的に、経典および、註釈にあるものはできるだけそのまま使い、それ以外のものは自分で適当に埋めた。 根拠 我と世界に対する見解 備考 過去生 常住論 1 〜 数十万生の記憶 常住 現代でもよくある俗世間的な輪廻転生思想 1 〜 10 世界周期の記憶 10 〜 40 世界周期の記憶 推論による妄想 部分的常住論 1 つの過去生の記憶 大梵天は他者と違い常住 大梵天は創造神であり、他者はその被造物(一神教) キッダーパドーシカではない他の欲天は常住 不死の神々と、輪廻すべき生命の別がある(多神教) マノーパドーシカではない他の欲天は常住 推論による妄想 肉体は死ぬが、精神(魂=我)は常住 素朴なイデア論(プラトン)・アバター思想 有限・無限論 有限の禅定体験 世界は有限 宇宙物理・天文学 無限の禅定体験 世界は無限 有限・無限の禅定体験 世界は上下に有限、水平に無限 推論による妄想 世界は有限でも、無限でも、 上下有限・水平無限でもない 詭弁論 善・不善を知らない 間違っていたら嘘を言う羽目になる (戒)から明言しない 現代日本の世襲職業的宗教家 間違っていたら怒りを感じて心が乱れる (慚)から明言しない 間違っていたら詰問されて心を乱される (愧)から明言しない あの世(死後の世界)の有無 化生(霊的な存在)の有無 業報の有無 肉体死後のタターガタの有無 そもそも愚鈍・蒙昧だから まともな受け答えができない (見解の分類以前の問題) サンジャヤ・ベーラッティプッタ (現代日本の職業的禅坊主) 無因生起論 想の生起を遡ると 無想(有情天)に至る 我も世界も無因で出現した 我思う、ゆえに我あり、世界あり。 (デカルト以降の近現代的な自然科学観) 推論による妄想 アージーヴィカ教 あの世 有想論 色界禅定体験 遍の浄色そのもの、精神状態が我である

正念・正知

今、念処経で、研究中なのが、行住座臥の「威儀の部」のうち、行(歩行時)における正念・正知の実践である。本来は行住座臥の全てのあらゆる行動を通じて、一日中、念を継続し続けようとする目的なのだと思うので、そこから行の部分だけを取り出しても、本来の意図は満たしていないと思う。どちらかというと、次の「正知の部」の身体の動作を密に随観するものとのハイブリッドのようなものになるかもしれない。一方で「正知の部」ほど濃密にはやっていないと思う。おそらく、経行(いわゆる歩行瞑想)やスマナサーラ長老が指導されている物を動かす修行法などは「正知の部」に基くものだろう。 普通に、最寄り駅まで 15〜20 分程度歩くのに、特に歩き方を経行化するようなことはせず(というか社会生活上、公道でやるのは中々はばかられる)、普通のペースでスタスタ歩く。外形上は変えないで、その時の意識の持ち方だけを、随観でやる(正念・正知的に行う)という工夫である。 結果的に、これは、ウォーキングをやっている人たちの様子に近い。視線を真っ直ぐ前に据えて、一方で何か用事のことについて考え事をしながら歩いているわけでもなし、若い女性によくありがちだが、すれ違う人の視線を意識して目線を逸らしながらすれ違ったりするわけでもない。ただ、視線を真っ直ぐ前に据えて、スタスタと一定のペースでロボットのように歩く。 また、サングラスなどで眼の表情が隠れていると、人に奇異な感じを与えることを、さらに緩和できるかもしれない。 この時、随観状態(=正念・正知のつもり)を確立するコツを工夫している。阿羅漢でもない、我々凡夫は、無我状態に至っていないのであるから、基本的に自我意識があり、その自我意識の「中から」、外界を観て、経験・行動している。随観というのは、この外界を見るポイント(要するにこれぞ「念」だと思う)を、この自我意識の外縁ギリギリまで寄せて置くのである。そして自我意識の「中から外へ」意識を向けるのではなく、外縁の表面、外側から自分を観る(把握する)のである。これが僕の随観感覚である。 ゲームの経験がある人ならば話はわかりやすいのだが、FPS(一人称視点の射撃ゲーム)では、マウスやアナログスティックのコントローラーで、視点をポイントする。そのポインターを中心に視線が動き、その視点に導かれて、移動するのである。 スマナサーラ長

西澤卓美さんの背中──在俗信徒として

テーラワーダ仏教を応援しています という YouTube チャンネルがあり、そこの西澤卓美さんの ZOOM 法話を一通り視聴させていただいた。 これまで、スマナサーラ長老の数々の動画を浴びるように聞いていた流れもあり、どうしても、スマナサーラ長老の、邪見や妄想をバッサバッサ斬り捨てるような切れ味鋭い法話と比較して、質疑応答などに素人っぽさを感じてしまい、当初は物足りなさを感じざるをえなかった。 しかしよく考えてみれば、僕の稚拙な “法の推知” の真似事的な妄想として、スマナサーラ長老は阿羅漢かどうかというラインについていつも考えさせられざるをえないのに比して、西澤さんは、還俗されていることからも明らかに、阿羅漢という選択肢は失せる。つまり、預流者なのかどうか、というラインが問題になるべきなのである。スマナサーラ長老の徳との「比で」西澤さんの徳の「有無」を考えようとするべきではない。 僕は、先日、テーラワーダ仏教徒の友人に、ふと、「西澤さんのような在俗信徒が増えることが、今後の日本のテーラワーダ仏教にとっての、希望じゃないのか」と何気なくコメントしたのを思い出した。 僕は、昔、ゴータミー精舎にちょくちょく顔を出していた時期に、一度だけ、西澤さん(当時はコーサッラ=西澤長老)にお会いしたことがある。西澤さんも関係の深い、ウィセッタ・セヤドーの関係で、何か少し言葉を交した気がする。普段はゴータミー精舎で見たことのない顔の人々が、しかし大変熱心そうな人々(男性中心だった)が、西澤さんのアビダンマ講義を聞くために集まっていた憶えがある。袈裟に身を包んだ西澤さんは小柄で、小柄であること以上に非常に痩身で、大変真摯な修行者というイメージだった。 西澤さんの動画を何度か聞くうちに、興味本位で、西澤さんの悟りのレベルに関する噂話がないかと思い、検索してみると、 とあるブログ記事 に行きついた。西澤さんの著書『仏教先進国ミャンマーのマインドフルネス』(サンガ、2014-11-01)に因んだ記事であった。そこでは、 サンガ出版の「ミャンマーのマインドフルネス」という本の中で、著者の西澤卓美師(元ウコッサラ長老)は、自分は悟っていないと受け取れるような告白をなさっている。 という気になるコメントを見つけたので、早速、同書を地元の図書館で探すと市内の別の図書

楽天モバイルに SIM を返却(官製ハガキ)

イメージ
楽天モバイルを解約したところ、SIM を返却しなければならないようなので、「官製ハガキ」で返送した。 梱包用の透明テープで貼り付けてポストに投函。 楽天モバイルの FAQ によると、返送せずに自分で破棄してもいいようなのだが、一方で解約時のメールには「返送しろ」としか書かれていなかったので、念のため。これで義務は果たしたということで。

無我を悟る

今朝 9 時前に目が覚めた。今日は元々、11 時前に外出する予定であり、1 時間もあれば身支度には十分なので、すぐに起床すると、1 時間強の空き時間が生じてしまう。そういうこともあって、あと 30 分〜 1 時間程度二度寝できればいいのになと思って、寝床でごろごろしつつ、他に何もしようがないので、入出息からの身随観をやってみたりした。 十数分経ったのだろうか? 結局、寝入ることはできず、むしろ起床のタイムリミットが近付くことによって、本格的に潜在意識から心が“戦闘モード”となり、「起きてしまおう」という気持ちで染まる。先程の、「二度寝できればいいのにな」という思いが、嘘のようである。 その時、ふと、「これが無我ってことなのか」と思った。まるで炊飯器が予約時間に合わせて、自動で起動するように、精神が周辺の状況に合わせて、自動で変化していく様が、今経験しているこのような心の変化なのだろうな、と。 いや、もちろん、このようなアイデア自体は、別に今回が初めてではない。寒い季節、朝、中途半端に目覚めて寝転んでごろごろしていて、脳体温が下がり、十分に脳に血行が上昇していない状態で、鬱っぽい気分になることがある。しかし、一旦、意を決して起き上がり、シャワーを浴びていると、血圧・脳体温が上昇し、嘘のように、ただひたすら今日一日の行動で心が一杯になって鬱状態が吹っ飛び戦闘モード(躁状態)になってしまっているのである。 ただ、これまでは、1 日 24 時間、1 週間 7 日間、常時が放逸だったので、例えば躁状態になっている時には、鬱状態の自分が思い出せないのである(その逆もしかり)。自分自身のことであっても、現在と断絶している他人事のような視点での知識ベースの比較考察しかできないのである。それは、冬に夏の暑さの気怠さが思い出せないように、逆に夏に冬の身体の縮こまるような思いが思い出せないように、である。 しかし、今朝の場合、その一瞬前の「もう少し寝ていたい」気分と、一瞬後の「戦闘モードが起動されていく」気分の切り替わりに、気付いたのである。だから、それが、まるで、自分(の心)ではなく、心というソフトウェアが、プログラム通りに、条件に従って活動しているだけに過ぎない、という様相(=無我相)をキャッチすることができたのである。 なぜ、キャッチできたかというと、それは 随観 (脇

因・縁と名・色(2)「随観」

「 因・縁と名・色 」という記事を先日書いたが、その内容に関連して、ジャストミートなスマナサーラ長老の Q&A 動画があった → 「 Q05:智慧とは知識とは違うものだと思いますが、もし分けるとしたら、五蘊の働きのどの項目に入るものでしょうか? 」 スマナサーラ長老曰く「世間の自然科学などの知識は“What is this?”、仏教の智慧は“Why am I?”」 言い換えれば、仏教の智慧というのは、「縁」の科学ということではないか? 僕が拝聴して歓喜を覚えたスダンマ長老の法話動画。おそらく人によって、同じ動画を観ても、歓喜を得られるかどうかは違う。それが「縁」というものである。このような「縁」という観点で研究されて、究極的にはお釈迦様は菩提樹の下での悟りまで達したのだとも言えないだろうか? 前の記事で述べたように、この「縁」というものは、名・色の観点で言うと、名の次元。そしてそれは実数空間というこの物質世界に、直交している、虚数次元的なものである。実数平面を無数に貫いているが、一本一本の虚数軸は、実数空間においては、完全に大きさ・幅のない点(0 次元)であるから、直接感知不能。 昔、任天堂の家庭用ゲーム機が出たものの、未だスーパーマリオブラザーズによるブレイク以前の時代。テレビゲームと言えば、ゲームセンターでわずか数分〜十数分のために 100 円を払ってプレイしなければならないアーケードゲームか、ごく一部のマニアしか所有していなかった 8 ビット PC 用の、アーケードゲームに比べれば、随分見劣りのする、PC ゲームしかなかった。 それでも、アーケードゲームの 1 プレイ 100 円という相場が尺度となって、しょぼい PC ゲームでも、それなりに十分な価値はあったのである。またPC ゲームは、アーケードゲームとは違って、プレイに時間制限がないため、アドベンチャーゲームなどという、独自の世界を確立していた。 そのアドベンチャーゲームにしても、昔は、一つの画面を描くために、何度も何度も塗り直したりして、一定の時間がかかっていた。パッと一発で表示されないのである。 それ以前に、FDD(フロッピーディスク・ドライブ)がかなり高価であったため、8 ビット PC の前期は、テープメディアが主体だったのである。一つのゲームをプレイするために、

仏随念・法随念・僧随念(フィクショナル仏教)

自分は仏随念・法随念・僧随念的な一環としての思索行為として、史実としての生身の存在であるお釈迦様(仏)や、その説法記録としての経典(法)、仏弟子たちの伝統(僧)といったものを考えている。そのカスタム版仏教像というのは、伝統的な仏教とはそのままでは相容れないものではあるので、世間的には仏教フィクションと呼ぶべきものだが、いつか何らかの形(小説等)でまとめて発表できればいいかなという程度の考えである。 さて、以前、 スダンマ長老の法話を拝見した感想の記事 の中で、一般の在俗信徒向けの法話では、修行者向けの法を前提とした話をするのは、ちょっとどうなのかなと思うという感想を述べた。これはスダンマ長老のその法話と、スマナサーラ長老の法話とを比較した結果の話で、スマナサーラ長老の長年の日本テーラワーダ仏教協会での活動が、主に、瞑想指導を中心としていることに因んだものである。 自分には、特にスマナサーラ長老を批判する意図は、全く、ない。僕個人は、そのスマナサーラ長老の法話が非常に興味深く、浴びるように再生して繰り返し拝聴している。というか、長老のスタンスというより、協会側の長老に対する要請のスタンスによるものだろうと思う。初代会長の故・鈴木一生氏ら、実際に瞑想修行に興味があった人たちが、スマナサーラ長老に瞑想指導をお願いしたりして立ち上がって行ったのだろうから。 ただ、たまたま、最初に拝聴したスダンマ長老の法話が、非常に穏健な、世俗で暮らす在俗信徒の、世俗での人生を過ごすにあたっての、心構え的な法話であったことから、「ああ、やっぱり、これが、仏教の信を温めるというものだよなあ!」としみじみ感じたのである。スマナサーラ長老が、禅寺での座禅修行ばりに、質問者に厳しい、仏教的な一段高い視点からの警策のような返しを時折される場合があったのと、対照的に感じたのである。 で、実際のところ、出家以外の一般の人間も瞑想修行するという流れは、ミャンマーのマハーシ式の流行辺りから始まって、今の欧米でのマインドフルネス流行に至っているのだと思うので、そういう意味からも、このことをスマナサーラ長老個人や、日本テーラワーダ仏教協会のスタンスだけに帰するのは、やはり無理があるわけである。 そして、なぜ、そこに思い至ったかというと、最近、経典の多読も行っているため、やはり、お釈迦様ご本人が、対機説法

因・縁と名・色

先日、 スダンマ長老の動画を拝聴して、歓喜を経験した と記したが、その同じ動画を視聴したからといって、他の人が歓喜を経験できるとは限らないだろう。また、僕自身が同じ動画を繰り返し視聴しても、同じ歓喜が生じるとも限らない。 要するに、これが「縁」というものだと思った。 「因縁」という形で、まとめて何となく「原因」として考えて wikipedia を読んでも「狭義には、結果(果)を生じさせる内的な直接の原因を因(内因)といい、外からそれを助ける間接の原因を縁(外縁)というが、広義では、その両方を合わせて因とも縁ともいう」というが、直接か間接かの差だけで、どちらも原因ということになって、原因という以上はほとんどピンとこない。 しかし、今回の件を例に考えてみて、はっきりわかった。この場合、スダンマ長老の動画は「因」、僕が特に歓喜できたのが「縁」である。 過去のゴータミー精舎の何らかの催事でミサンガを結んでいただいた比丘が、スダンマ長老であったのなら、それも「縁」だろうし、そうでなくても、仏教に対する何らかの感受性の高さが僕の側に備わっていた、というような理由も「縁」だろう。 つまり、縁というのは、果を受けとるための資格や適性のようなものだ。ある因によって直接発生する果は本来は同じでも、その果がどのような効果を持って受けとられるのかという点で違いを生じるのが縁ではないかと。例えば同じ東大を卒業しても、その学歴によって社会的に成功する者もいれば、学歴がむしろ枷となってホームレスになる者もいる。 そもそも、パーリ仏典で、経の締めの形式のように出てくる「比丘たちは歓喜した」という表現を、実体験的に知った上で、経典を読めている日本の仏教学者が、何人いるのだろうか? まさしく仏縁というものはそういうことだろう。 ところが、ペアで表現される「因縁」だが、凡夫的感覚・俗世間的価値観では、「因」というものはわかっていても、「縁」というのは看過されがちなのではないか。 名 nāma ・ 色 rūpa 的に捉えて、「因」の方は色的に一般化・客観化された形で観測されやすい物事だが、「縁」というのは名的で特殊化・主観化された形の物事だと思う。 そして、最近、スマナサーラ長老の動画を多聞したりして、痛感しているのが、本物の仏教とは、名・色の 2 軸で物事を観るという、俗世間か

歓喜 ─スダンマ長老の仏随念─

ここ数週間、スマナサーラ長老の法話動画を浴びるように聞いている。十数年ぶりにテーラワーダ仏教への直接的関心が再燃して、 日本テーラワーダ仏教協会の YouTube チャンネル にアクセスしたところ、大量の動画が公開されていることを知った。僕の側の動機としては、父の死からの一連の気持の変化を受けた個人的なタイミングではあったが、ちょうど世間では昨今のコロナ禍の情勢を受けて、実際の会場における法話会や瞑想会などが不可能となり、代わりにオンライン法話の形となることを余儀無くされていたようであるが、却って従来のオフライン中心の形態よりも、大量・超ハイスペースで法話が増産される形になったようだ。スマナサーラ長老自身も、どこかの動画でそのような内容のことを述べておられた。 同一の動画も 2、3 回と聞いているので、1.5 倍速で BGM 代わりにして、パソコンでパーリ仏典の写経作業などしながら流していたりする。 そんな感じで、“スマナサーラ節” のようなものが自分の中ではかなり飽和状態のような感じになってきて、たとえば質疑応答でも、スマナサーラ長老が結構キツめの応答を返されることがあって、そのスマナサーラ長老の “カミナリ” の琴線というものが、「わかってきたような気」にすら、なってきたほどである。質問者は、世俗一般的な状況として見れば、結構、弱った立場に立たされていたりして、スマナサーラ長老に力付けて欲しいとか、すがりつくような感じで尋ねたりするのだが、2 人に 1 人くらいは、却って “けんもほろろ” な回答をされることもある。それは質問者の「我」を質問者の敵対者の「我」よりも正しいと、認めて欲しい、敵対者の「我」を否定して欲しい、というような「良い子ちゃん」ぶった質問だったりする。こういう場合、世俗一般的に見れば、たとえ質問者が「被害者」であって、敵対者が「加害者」であったとしても、結構厳しめの応答をされる場合があると思う。 ここのところ、パーリ仏典の読み返しなどしていて、自分の統計的な感覚として思ってきたこととして、先日のブログ記事の「 六欲天 」でも述べていたことだが、お釈迦様の対機説法の特徴として、出家比丘向けと、それ以外とで、定(サマタ)を中心とした道(修行)の説き方に大きな区別があるという点である。 ともかく、在家には、やんわりと、貪瞋痴が三毒であること