諸善人と共に

悪趣行きのパターンについては既にいくつか取り上げたことがあった(cf.「地獄または畜生の胎」「地獄の原因となる邪見」)ので、今回は善趣行きパターンについてパーリ経典の 1 経(天相応 31「諸善人と共に」経)を取り上げてみる。

この経においては、サトゥッラパ(「正しい語り」の意味)身の神々が、仏陀世尊の元を訪れ、各々が法に関する偈を語り、世尊に添削を求める。

全員の偈は

「善人らとのみ坐すがよく
善人らと親交するがよい
善人らの正しい法を知れば
……

の 3 句から始まるが、3 句目の「善人らの正しい法を知れば」を受ける、結びの 4 句目のみが異なっている。

(神 1)「……善くなり、悪くなることがない」

(神 2)「……智慧は得られる、他からではなく」

(神 3)「……憂いの中にあって憂えず」

(神 4)「……親族の中にあって輝く」

(神 5)「……人々は善き世界に趣く」

(神 6)「……人々は喜びのうちにとどまる」

片山一良・訳『相応部 有偈篇 I』(2011-06-01、大蔵出版)p.127-130

世尊は、全員の偈は合格点だ(「あなたがたのものはすべて、根拠をもって、よく語られています」)と評する一方、世尊自身であれば、結句はこのように表現するだろう、と模範解答を示して、経が締め括られる。

(世尊)「……一切の苦から解脱する」

僕の仏教仮説によるところの読み解きを試みるならば、神々は「paccaya」の側面による(表面的・世俗的な)思考で結句を表現したわけだが、世尊の結句は、「hetu」による(深淵・勝義的な)思考で結句を表現した、ということになる。つまり、「一切の苦からの解脱」の結果・効果・一端・枝葉として、神々の表現するような、「善くなる」「智慧が得られる」「憂えず」「輝く」「善趣」「喜び」という状態に至る、とこの経の構造を解するわけである。

以上は本経の主旨について最初に触れたわけだが、今回、僕としてはより注目したいのは、1 〜 2 句の部分である。

善人らとのみ坐すがよく
善人らと親交するがよい

この部分はそもそも、誰も全く文句はないものとして扱われているわけである。別の経(道相応 2「半ば」)において、「善友は聖道(仏道)の全てである」とは、「本人の努力が半分、善友に恵まれることは残り半分(両方がどちらも必要なんですねぇ)」と言ったアーナンダ長老に対して、釈尊が嗜めて言われた言葉である。

こういう部分が議題とも扱われず、さらっと踏み台にされて、3 〜 4 句の方にフォーカスされてこの経が(表面上は)構成されているというのが、何とも、仏教の凄まじさを物語っていると思うわけである。

善人らとのみ坐し・親交するがよい

そして、3 〜 4 句というのは、「善友性」の功徳によって得られる善果を述べているわけであり、その因となっている善業が「善友性」なわけだから、この経典の真の重心は 1 〜 2 句の方がより重いのではないのだろうか。

仏教において、善友というのは、当然、阿羅漢を頂点とする聖者サンガを意味する。邪見(大乗仏教も含む)の外道は(悪友でしかないから)当然のこと、非聖者の世俗の一般人はやはり善友ではない。「善友は聖道(仏道)の全てである」が世尊の言である。つまり、そういうことである。「善友に恵まれることは残り半分なんですねぇ」としみじみと言ったアーナンダ長老(その時点では預流者?)ですら、釈尊に嗜められたほどである。

預流果にすら達しない凡俗のくせに、菩薩を僭称して大乗を標榜する外道は当然、善友(仏教聖者)ではありえない。外道の唱える偽仏教などには、決して、耳を傾けるべきではないわけである。とはいえ、もちろん、ちゃんとした仏教徒ではあれば、「択法覚支」と呼ばれるような能力も具わってくるので、他人がとやかく言わずとも、偽仏教は偽仏教と本人が判別できるし、ミソクソゴチャ混ぜに「上座部でも大乗でも何でも善い。どれもが真実。ok、ok、有難やー、有難やー」なんて(象を撫でる群)盲状態にはならない。逆にいえば、そういう人は、(仏教徒として)その程度の人ということである。盲(擬似仏教徒)なのに目明き(真正仏教徒)のフリをしているだけ。

本経の因縁物語

そして、本経では「善友性」がテーマとして神々・世尊の双方から文句なしに称賛されているということがわかれば、そもそも、なぜ、この経ではそのような話の流れになっているのか? という話になる。そこで出てくるのが、註釈として添えられた因縁物語である(片山一良・訳版はちゃんと註釈も含めて訳出してあり、素晴らしい)。

伝えによれば、大勢の船商人が船で海に出航した。かれらが放たれた矢のように速い船で進み、7 日目、海の真ん中で、噴出が起こった。大きな波が立ち、船は水で一杯になった。船が沈もうとするとき、多くの人々は各自の神の名を捉え、祈願などをしつつ、泣き叫んだ。かれらの中で、ある男性が、「私にはこのような恐れに対して足場《利益の足場》があるのだろうか」と心を傾け、自己の清浄な諸帰依(3 帰依)と諸戒(5 戒)を見て、禅定者のように跏趺を組んで坐った。そこで、他の者たちは、《現世で利益と安楽をもたらす》無畏(恐れのないこと)の根拠について尋ねた。かれはかれらに語った。「皆さん、私は船に乗る日、比丘僧団に布施をし、諸帰依と諸戒を得ました。そのため、私には恐れがないのです」と。「しかし、主なるお方よ、それらは他の者たちにも得られますか」。「はい、得られます」と。「それでは、私たちにも与えてください」と。かれらのうち、最初は水が踝まであるとき、100 人に受け取らせた。第 2 は水が脛まで、第 3 は腰まで、第 4 は臍まで、第 5 は胸まで、第 6 は喉(首)まで、第 7 は口に塩水が入っているとき、受け取らせた。かれは、かれらに諸戒を与え、「あなた方には他に帰依所はありません。戒のみに心を傾けなさい」と告げた。そしてかれら 700 人は、そこで死去し、近時に得られた戒によって三十三天宮に生まれ変わった。かれらには集団《集まり》によってのみ、諸天宮が生じたのである。すべてのものの中央に師の、100 ヨージャナにわたる黄金宮が生じ、残りのものはそれを取り巻き、最下に、12 ヨージャナのものとなった。かれらは生まれ変わると同時に、業に心を傾け、師によって成就を得たことを知り、「われわれはまず、10 力(仏)のもとへ行こう。その近くで、われわれの師を称賛しよう」と中夜の直後に世尊のもとへ近づいて行った。その神々は師を称賛するために、偈を 1 つ 1 つ語った、という

片山一良・訳『相応部 六処篇 II』(2018-09-20、大蔵出版)

船が遭難して沈没してゆく状況(現代ならば飛行機の墜落の方が例としてイメージしやすいかもしれないが)で、乗客が各々の信じる異教の神にすがって泣き叫んだりしていたわけだが、同様の状況下、仏教徒の男がすがった(帰依していた)のは仏法僧であった。異教徒と違い、彼の場合は、すがった先の仏法僧を思い浮かべたことにより心が清まり(不動となり)、死に際して動揺しなくなったので、むしろその様子は、周囲の他の異教徒の人々にとって際立った。それで彼らは、男に乞うて、帰依と戒を彼から教えてもらい、そのまま全員死んだ。その(3 帰依と 5 戒を極度に満たした状態のまま死の瞬間を迎えたことによる)絶大な功徳により、彼らは死んで即、気付くと、三十三天の神の身に生まれ変っていたことにハタと気付いたわけである。そうして世尊に謝意を示そうと祇園精舎ジェータ林のアナータピンディカ僧院を訪れ、この経の、神々しくも喜ばしいやりとりがあった、という話である。まったく、これこそが、仏教かくあるべし、というエピソードではないか。

善人らの正しい法を知れば 智慧は得られる、他(外道)からではなく

3 帰依・5 戒に欠いても、「般若心経(法華経でも阿弥陀経でも何でもいいが)を唱えて三十三天などの天界や極楽浄土に転生(生天)できる」というのなら、そうしてみるがいい。護摩の火で加持祈祷しても生天できるというのなら、そうしたい人がそうすればいんでないの。呪文とか祈り(祈念力)でどうにかなる・するというのは、呪術であって、仏教ではない。

3 帰依・5 戒で死時に臨む、というパーリ仏教の発想の方が、よっぽとスマートであり、聖であり邪ではない。仏教であり、世尊の説かれた教えであると考えるのに、相応しいものである。

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