戒は防護

👉 ゴーダ経のことはかなり前から一度まとめたいと思っていたトピックで、日々の生活でいつの間にやら流れてしまっていました。それが最近、知人にとある出来事が起って、五戒のことについて意識の焦点が当たりました。それで、五戒を預流果聖者の必要条件とするかどうかという、ゴーダ経のことを思い出して、今回ついにブログにまとめてしまったというわけです。

知人は、それなりに善良なテーラワーダ仏教徒なのですが、ある時、新しく移った職場の関係で、流れで飲酒してしまったことがありました。その件で少なくともその時点において「五戒が身に付いていない=預流果ではない」ことは確定したわけですが、全般的には五戒を守る生活をしており、テーラワーダ仏教と特に縁のない、五戒とは無縁なタイプの人とは、一線を画していることは確かでした。

その知人の職場で、問題が発生し(知人自身は問題とは何の関係もありません)、組織が崩壊してしまい、新しい職場を探さなければならない事態になったそうです。

ところが、知人は色々と今の職場の責任者の方が親切に気遣ってくれて、新しい職場へ移れることになったそうです。

本当は元のまま平穏無事に続けられたらもちろんそれに越したことはなかったと思いますが、今の職場の他の人達の状況と比較すると、明らかに「不幸中の幸い」とでも呼ぶべきか、嵐の中、比較的無事にくぐり抜けているように見えます。

これが五戒の力だと思います。同じ嵐に遭っても、その嵐をどれだけまともにくらってしまうか、しまわないか。

戒は防護です。

戒を禁欲と捉えている人は、形式上で戒を守っても、戒禁取(かいごんしゅ)として機能するのがオチでしょう。

戒が防護だとわかっている人は、それは単にプラスでしかないので、止めろと言われても、解くことはないでしょう。

何らかのマイナス(犠牲)との引き換えのご褒美の何かプラスを期待するという、戒禁取ではないのです。

知人の職場に起ったような事態は、捉えようによっては、「魔」が引き起したというべき、不幸な出来事です。ヤッカ(夜叉)とは、いわゆる西洋世界におけるデーモン(魔神)と呼ばれているものこそはヤッカのことであり、人に憑依したり、何か破滅的な事態を引き起します。また、「魔(マーラ)」という言葉自体は、他化自在天のうち、悪意を持つ神を指しますが、不幸な物事を直接引き起すというよりも、人の心を油断させて、それら下位の魔神(デーモン)の付け入る隙を作り出す、もっと高位の黒幕(サタン)みたいな存在と言えると思います。世間に、酒を飲んでもいいんだよ(適度に飲めば百薬の長だ)とか、間違った考え・価値観を流布する段階において活動するのが主な役目でしょう。

映画『エクソシスト』を例に出すまでもなく、キリスト教(特にカトリック)では「悪魔払い(除霊)」は知られていますが、同様のものはテーラワーダでも仏典にも出ており、ヤッカに憑依されて除霊する話などがあります。が、どちらかというと、キリスト教のエクソシズムは、仏教の中でも密教の加持祈祷の方に近い印象があります。聖職者が、一所懸命、被憑依者に儀式を行って、法術による悪魔との力と力による闘いを繰り広げます。

ところが、テーラワーダでは、五戒で、信徒自身が自らを防護結界と化してしまっていますから、「聖職者が一般人を除霊してあげる」という構図が、あまり前面に出る幕がないのかもしれません。

同じ土俵に降りて、善の力と悪の力による闘争をして、どうにか憑依された人を奪い返すというよりは、だいたいが、ヤッカの方が完全に仏陀に脱帽し、むしろ自らの意志でその人を解放して、ヤッカ自身が(ちゃっかり)仏弟子になってしまうという、次元の違う展開で話が進みます。

そして、善神に転向した仏弟子ヤッカたちは、進んで、仏弟子(人間)を加護し(便宜を図り)ます。彼等だって、五戒を守る有徳の人に寄与して、徳を積みたいのです。

邪神を呼ぶのも、善神を呼ぶのも、結局はその人の心が汚れているか、清らかであるかに関わります。その心の汚れのコントロールの鍵として、五戒は完成されたツールだと思います。

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